逆風
浪人たちは、もとは武士だ。
所領を守るため主家と組み、「忠誠」を対価に禄を食む。禄は所領を維持するための必要経費だ。それが武士の行動原理。
兵法者は似て否なるもの。忠誠心などない。信じるのは己の腕一つであり、それでこの世を押し渡る者たち。
食い詰めた浪人を捨て駒にして、相手の技量を図る程度のことは平気でやる。負ければ死ぬ。死ねば何も残らない。そんな世界にいるのだから。
だが、月之介は兵法者とも違っていた。
武士の『所領』に相当するものとして、剣士や兵法者には己の技量に対する賛辞がある。
その賛辞があるからこそ、剣の教授としてあがめられるわけであり、その賛辞があってこそ、その腕を買われるのだ。
月之介にはそれがない。
狼は、獲物を追い詰める強靭な脚力を他者に誇ったりしない。
虎は、獲物を切り裂く鋭い牙を誰かに自慢しない。
目的に対する手段でしかないからだ。月之介のとっての『新陰流』も手段にすぎない。身に着いたから使っているに過ぎないのだ。
では、月之介の目的とは?
彼はそれを語ったことはないが、彼が 猫足の三郎 を使って殺そうとしてる、草深 甚吾 と何か関連があるのかもしれなかった。
じりっと、義経神明流を名乗った島田が、間合いを詰めてくる。
体の後ろに隠して、刀の長さを見せない。
突き出された、左手が目障りだった。
そこに、義経神明流の工夫があった。
打ち落とそうと思えば出来そうに見える、無防備な左手は餌だ。
それに斬りかかれば、そこから変化する技があるのだろう。
神明流の源流は、あの 源 義経 だという。伝説では、その左手で相手の刀身を掴みとり、相手を斬ったとも言われている。
流れる水のように、右手に刀を下げ持ったまま、するりと月之介が間合いを詰める。島田の左手は、まったく無視していた。
島田が踏み込む。無視された左手で、月之介を殴りにいったのだ。
風に柳の枝が揺れたかの如く、上体を左に傾けてその拳を月之介は避けた。
鋼を打つ音。
だらりと下げた刀を、月之介が斜めに斬り上げたのである。島田の拳を躱したついでといった、全く予備動作の無い一撃だった。
月之介の刃の軌道と交叉した、島田の左手だが、斬り飛ばされることなかった。
鋼の手甲で、包まれていたからである。
斬られはしなかったが、島田の体勢は崩れた。
振り上げられた刀の刃を返し、今度は島田の頭頂に向けて、月之介の刀身が奔る。
島田がそれを、再び手甲で受ける。
同時に、体の陰に隠した一刀を横一文字に薙ぎ払う。
月之介が後に跳んだ。着地した月之介が更に後方に跳ぶ。十分に間合いをとったのだ。
「持ち手を変えたのか。やるね。他流はこれだから面白い」
月之介の洗いざらしの着流しの胸元が、裂けていた。
島田の一撃の切先がかすったのだ。
珍しいことだが、月之介は間合いを読み違えていた.
島田がそのように誘導したのである。
刀身を地面に突き刺した状態で、陣太刀の男とナナフシ男の戦いを見ていたのは、島田の刀の切先が通常の刀と異なり、間延びした造りになっているのを隠すため。
そして、鍔元ではなく、柄頭を握った状態で刀を使ったことで、切先の構造を含め八寸近く殺傷圏が伸びていたのだ。
相手の斬撃をギリギリで見切ろうとする剣の達人ほど、この島田の仕掛けにひっかかる。
一見、無防備に見える左手に意識が集中すれば、なおさら引っかかりやすくなるのである。
だが、月之介は、島田の左手を無視した。
そこで、むりやり意識してもらうために『殴りかかる』という乱暴な手段を用いたのだ。
島田は、強引すぎた。これで、月之介は完全に左手が『囮』なのだと気が付いてしまった。だからこそ、持ち手の変化にも気が付いたのだと言える。
躱しきれなかったのは、変形した切先の効果だ。それが、月之介の着物を裂いた。
もう、左手は囮としての機能を果たさない。
島田が、あっさりと戦法を変えた。
盾を掲げるかのように、手甲で守られた左腕を構えたのだ。
刀を持った右手は、半身に開いた体で隠すようにしている。
「左手で受けると同時に、右手の刀で刺す」
態度でそう宣言しているような、あからさまな構えだった。
距離はとったが、月之介は右手に刀を下げたままの姿には変わりがない。
再び、気軽な足取りで間合いを詰める。
島田がどうするのか様子を見て、変化を見届けたからまた前進した。そんな風情だった。
左手の手甲に、身を隠す様に、島田が姿勢を低く小さくした。
月之介は歩く。
歩きながら、刀を両手持ちに変え、下段に構えを変化させつつ、その切っ先を上げて行く。中段から上段へと構えが移行した。
そして、跳んだ。前に。
島田は合わせて、後に跳ぶ。
上段から叩き下ろされた月之介の一撃は、島田の手甲を擦過して下に流れた。
その瞬間、島田が後に跳んだ慣性を、踏ん張って堪え、今度は前に跳ぶ。
つんのめる様な体勢になっている月之介に、狙い澄ました突きを放つためだ。
淡い陽光に、刀身がギラリと光った。
風の音。
無言の気合。
剣士二人は馳せ違っていた。
島田は、片手突きの構えのまま。
月之介は、いつの間に二の太刀を振るったのか、逆袈裟に斬り上げた姿勢。
「おお…… 柳生新陰流『逆風』……」
島田が、そのまま前につんのめる様にして倒れる。
脇腹が深々と抉られていた。
叩き下ろした一刀を刃を返して神速で切り返す技を、新陰流では『逆風』という。月之介が使ったのはそれだ。
「私の『新陰流』は、まがい物だよ」
血刀に血振りをくれて、懐紙で刀身を拭う。
その後、納刀した。
血や脂がついたたま鞘に納めると、刀身に錆が浮く。
鞘の中も汚れる。




