南風吹く時
「いよいよ、仕上げだ」
清麿が、用意した絵地図や資料を燃やしながら言う。
勢 と清麿は、ずっと江戸郊外の布田という小さな宿場の荒れ寺に籠っていた。
時々、金丸が食料を届けに来る以外は誰も来ない場所。
まるで、無人島に清麿と流されてしまったかのように、勢 は思っていた。
幸せだった。とても、幸せだった。
清麿の世話をし、食事の用意をし、清麿が催す度に抱かれる。
破壊工作を進行させている時、清麿は荒ぶる。心が猛る。それを、勢 で鎮めるという側面があった。
乱暴に扱われることに、奇妙な安心感を 勢 は感じていた。
『自分は、罪深い。いっぱい人を殺した。子供も女も老人も。だから、罰を受けなくてはならない』
そんな思いが、勢 の胸の深いところに根付いてしまっている。
草深 甚四郎 に命じられて、殺した。殺さなければ、殺される。自分の意思ではない。
望んでやった事ではないが、実際に手を下したのは自分だ。
こうして 勢 は、少しづつ壊れてしまったのだ。
富田の里での清廉な暮らしは、勢 を救ってくれた。
甚四郎に立ち向かう勇気をくれた。
定寸より短い刀で戦う富田流小太刀の要諦は、間合いを踏み越える勇気。
勢 の心に宿った勇気が、彼女を『まがいもの』から『剣士』に育ててくれた。
―― 甚四郎を乗り越えて、自由になる
だが、そう決心した矢先、甚四郎は死んでしまった。
この世界に、甚四郎の呪縛を解く術は無くなってしまった。
無辜の民を殺した罪悪感だけが、勢 に残されてしまった。
彼女の胸には絶望だけがどす黒く揺蕩うばかり。
そんな 勢 が縋ったのは清麿。
清麿は厳しく罰を与えてくれる。
同時に優しく許しも与えてくれる。
清麿に物のように扱われ、乱暴に犯されている間は、頭の中が真っ白になって、何もかも忘れることが出来た。
「許す」
と耳元で囁いてくれる。贖罪をしている。そんな気にさせてくれた。
荒れ寺は、まるで愛の巣だった。
この場所を離れるのは、なんだか寂しい気がする。
勢 は、脱ぎ散らかされた、着物をかき集め身にまとう。
歯型や、強く吸われた跡が、勢 の白い肌に赤く残っている。
清麿との交情の名残が、彼女の内腿を伝ってつうっと流れた。
金丸は、久しぶりに真近で 勢 を見た。
髪は乱れ、小鼻が微かに膨らんでおり、清麿に抱かれたばかりなのが分かった。
嫉妬に胸が焦がれる。
それでもなお、勢 は美しかった。
まだ、少女の面影があった 勢 だが、固い蕾がみるみる花を開かせるように、女の貌になっていったのだ。
切れ長の目。
つぶらな瞳は、やや紫がかった光沢があって、見ていると引き込まれそうだった。
肌が白い。まるで、自ら発光しているかのよう。
月明かりに浮かぶ新雪を、金丸は連想した。
ぽってりとした桜桃を思わせる唇は、朱を引かなくとも鮮やかで、艶やかだった。
これが、清麿の口を吸ったり、慰撫したりしているのかと思うと、金丸は脳内が煮えそうな気になってしまう。
連日連夜、愛する男に抱かれている影響か、心なしかいつもより肌に張りがあるような気がする。
「元気そうだな」
勢 に声をかける。たったこれだけの事で、声が裏返りそうになる自分が情け無く、金丸は自分をぶん殴りたくなる衝動に駆られた。
「うん。いよいよだね」
小さな鈴が鳴るような可憐な声で 勢 が答え、気軽に金丸の背中を叩く。
それだけで、天に昇るほど嬉しい。
「我らは、指揮所に移動する。護衛頼んだぞ」
忍装束の清麿が言う。
金丸と 勢 は同時に頷いた。
夜道を二人の人影が辿っていた。
向かう場所は、江戸湾の外れ。荒川の河口に近い荒地だった。
一人は、妙に肩幅が広い。もう一人はひょろっとした痩せギスの男だった。
江戸 甲州忍の 蕪 九兵衛 と 柿 杢兵衛 であった。
蕪を食ったり、柿を捥いだり、ふざけた名前だが、これはわざとだ。
家名を後生大事にする武家社会を、馬鹿にしているのである。
忍は職能集団。技術が売り物。伊賀の服部家の様に、御武家になるなど、軽蔑の対象でしかないと思っていた。
「火炎使いは、近接戦闘はさほどではないらしい。手裏剣使いは、そこそこ手強い。接近戦専門の俺とは相性がよくない。『捥ノ字』に任せる」
歩きながら言ったのは、九兵衛である。九兵衛は、元、武田の軍師、小幡 官兵衛 が遣う甲州流と同じ名称の剣術と使う。名前は同じだが、全く別物で、九兵衛が遣う甲州流は我流だった。
「久しぶりに『瓢』を使うとしよう。手裏剣使いの処分は任せておけ。『食ノ字』よ」
ふっふと笑いながら、杢兵衛が請け負った。
彼らは同郷の幼馴染で、『食ノ字』『捥ノ字』とあだ名で呼び合う親友同士だった。
伝兵衛に成りすました甚内からの情報で、馬を放つ地点から、人員配置まで筒抜けだった。それで、甲州忍の精鋭である九兵衛と杢兵衛が差し向けられたのだ。
援軍はない。たった二人きりだ。
それだけ、彼等は信頼されているということなのだろう。
夜目に敏い忍の目には、灯火を隠していても、黒々とした千石船の影が見えた。
この季節にしては、珍しく南から風が吹いていた。
江戸湾側面から、湿った暖かい風が入ってきているのだ。
水師(航海士のこと)の話では、江戸湾沖に嵐の巣が通過する影響でしばらく南風が吹き、やがて通常の北風に変るらしい。
「湿った空気が、寒風にぶつかって、雪になるかもしれないよ」
という話だった。
雪の前の一刻あまりの南からの強風に乗せて火を放ち、江戸を焼野原にするというのが、曽呂利衆の作戦。
そのための燃焼促進剤が、江戸市中に埋伏してあった。
少ない人数で、コツコツと設置していったのだろうが、今頃は、食中毒を免れたガエンと甲州忍が、人海戦術で撤去をしているはずだ。
燃焼促進剤の埋伏場所まで、探り出されていた時点で、今回の破壊工作は、八割方失敗ということになる。
あとは、実行犯を逃さず誅殺するばかり。
高坂 甚内 の潜入術の勝利だ。曽呂利衆は優秀だったが、上方からの増援の決断が遅く、兵力を出し渋ったのが敗因となった。
「まぁ、やっこさんたち頑張ったが、ここで仕舞いだぜ」
逆手に忍刀を抜刀しながら、九兵衛が言う・
「皆殺し」
杢兵衛が、ぽつんと呟く。懐から出したのは、細引きの束。それを歩きながら解く。
「皆殺し」
九兵衛が答える。
「やるか」
「やろう」
二人の甲州忍が、駆ける。闇の奥へと。
荒川の流域。
平地の中にポツンと浮かぶ小島の様な鎮守の森。
そこには、半ば朽ちた古い社があった。
その八畳ほどの空間に、三人の男の姿があった。
草深 甚吾、露木 玉三郎、瓦走りの権太 の三人である。
ここは、『宿星屋』に荷駄護衛を依頼してきた者が、伏兵を指定してきた場所。
襲撃犯の指揮所がここになるはずで、指揮官を仕留めるのが、甚吾の役割なのだった。
微妙に依頼内容がズレてきているが、甚吾は気にも留めていないようだった。 露木も気にしていない。
「権太、見張りを頼むよ。出番が来たら起してくれ」
そんな、呑気な事を言って、甚吾はごろりと横になってしまった。
露木は、甚吾に添い寝しようとしたが、
「邪魔」
という、甚吾の一言で、すごすごと社の隅に移動してしまった。
今は、壁を背に、刀を肩に立てかけるようにして、座っている。
杢兵衛に脅されたことで、すっかり怖気ついた権太は、恐怖でカチカチと歯を鳴らしながら、障子の隙間から、神域内を見ていた。
風が強い夜だった。
ザワザワと、枝が鳴っている。
湿っていて、暖かい風。
雨の匂いが風の中に感じられる。
権太は、嫌な予感がして仕方なかった。
自分単独の仕事だったら、とっくに逃亡している。
臆病さは、権太の長所の一つである。だからこそ、数々の探索行も生き延びてきたのだ。
勘もいい。
今夜は、その勘が、
「何か危険なモノがここに近づいている」
と、権太に告げていた。
甚吾も何かを感じている。権太と同じく。
露木も何かを感じている。権太と同じく。
それなのに、平然としていた。
「あんたら、それでいいのか!」
それを見て権太は、彼らの胸倉をつかんで、揺さぶってやりたい気分だった。
大きな刀を背負った、大男の影。
ほっそりした小柄な影。
優美な長身の影。
三人の屈強な感じの影。
それが、神域に入ってきた。
「甚吾さん。き、き、き……来ました」
小声で権太が言う。
「そうかい」
ううんと伸びをして、床から甚吾が起きあがった。
その様子からすると、本当にうとうとと眠っていたらしい。
今夜は着流しではなく、伊賀袴と脚絆で下半身を固めてある。裾をからげて股立ちを取る必要もなかった。
汗止めの鉢巻と、巻く。
これだけが甚吾の戦支度だった。
「浪人三人は任せる。あとは、手出し無用」
つぶやくように、甚吾が言う。
一目で、卓抜の技量を持つ者を、甚吾は看破した。
腕が錆びた。そんなことを、甚吾は言っていた。要するに、本気で斬り合う相手が欲しいのだ。
「はいな」
露木が、欠伸を噛み殺したような声で答える。
「権太は隠れておれ」
そう言い捨てて、甚吾が社の戸を開ける。
ひょうひょうと風が社の中に吹き込んできた。
言われるまでもなく、闘争に加わる気は権太にはなかった。




