江戸・甲州忍頭目 高坂甚内
江戸湾の沖合に、千石船が停泊していた。
奇妙な動きをする船で、日中は江戸湾沖に停泊し、夜になると湾内に接岸する。
積荷も奇妙だった。二十頭近い馬であった。
夜中、湾内に上陸し、馬を歩かせ、藁縄で体を洗ってやったりしている。
馬は走るために生まれてきた動物。船内に繋いだままだと、病気になったり、脚を痛めたりしてしまう。
そのために運動させているのである。
船上には、雇い入れた馬子が四人。
そして、火術使いの火丸と、手裏剣術使いの風丸の姿が見えた。
そう、この馬は、甲州忍が警護する馬場から盗み出した馬である。
この馬たちは、火丸の『赤馬の術』と名付けられた火術に必要不可欠な素材なのだ。
「水師(航海士のこと)の話では、明日は南風が吹くらしい。『明日の夜決行』と、清麿様に連絡をしておいた」
火丸が、慎重な手つきで蝋状のものを、水をつめた瓢に入れながら言った。
これは、火丸の一族が発見した物質で、牛馬の尿を煮詰めたあとに出来る。空気と反応して発火する不安定な性質があり、有毒だが火術には欠かせない道具だった。
水の中では比較的安定しているので、輸送には水を入れた密閉容器を使う。
『赤馬の術』は、この発火物質を詰めた瓢を中心に油をしみこませた柴の束を馬に曳かせ、あちこちに火種をバラ撒く術。
瓢の栓を抜いた状態で馬を走らせれば、やがて瓢の中の水は流亡し、衝撃と摩擦熱で発火物質が炎上。柴に燃え移る仕組みだ。
この火が、市中に埋伏させてある燃焼促進剤に燃え移ると、同時多発に火災が発生し、その火災は『焔竜巻の術』となって、火災旋風を巻き起こす。
これを、住宅密集地である江戸の南側から発生させる。
この季節、江戸は冷たい北風が吹く。
『赤馬の術』も『焔竜巻の術』も、風上から風下へと移行する。
江戸の町の構造上、北側は田畑であり、燃焼のための可燃物が少ない。
そこで、南に風向きが一時的に変わる機会を狙っていたのである。
江戸はじまって以来の大混乱になるだろう。
江戸城からは、ガエンと共に、警備の先手組が出動するはず。
その空白を狙って、完全武装した浪人衆が、北側からなだれ込む寸法だった。
その頃、江戸城内では、食中毒が発生しているはずで、毒使いの水丸が、食事に毒を混ぜることになっていた。
計画が発覚した気配はない。
それもそのはず、直前まで、火丸、風丸、地丸、水丸、金丸の『五ツ』が各々自主的に動いていたのだから。
大目標を定めるのは、指揮官である清麿。
配下は、清麿の指示を仰ぐことなく、その大目標に向けて、各自が準備する。
今回の大目標は、江戸の町を延焼させ、江戸城を打ち壊すこと。
それに従って、最良と思われる手を打って行く。それが、曽呂利衆の手口だった。
計画の全体図を把握しているのは、最終場面まで清麿一人だけ。
万が一、誰かが捕えられても、その部分を切り捨てるだけで、計画は進んでゆく。
幸い、今回は誰も邪魔されずに、計画を進めることが出来た。
やっと、全体図が各人に連絡される。
地丸と霞の伝兵衛はなぜ浪人を集めさせられていいたのか、火丸と風丸はなぜ放火の準備をしていたのか、水丸はなぜ江戸城内に入り込み、食中毒の準備を進めていたのか、理解しただろう。
伝令に走ったのは金丸。
清麿が本丸なら、内堀は 勢 。外堀が金丸の役目だった。伝令も彼の役目だった。
杢兵衛を通じて。瓦走りの権太に伝えられたのは、
『待ち伏せ地点での埋伏』
……という連絡だった。
当初の話では、荷駄の護衛という事だったが、その面影もない。
「杢兵衛さん。荷駄の護衛はどうなさるので?」
皮肉を込めて、権太が言う。
「うむ、襲撃犯が判明したので、待ち受けるのではなく打って出ることにしたのだ。ほれ、言うではないか『攻撃は最大の防御』とな」
からからと笑う杢兵衛の目は泳いでいた。自分でも無理がある理論と分かっているのだろう。
「話が違いますぜ。場合によっては、この仕事、降ろさせていただきます」
呆れて、権太がそう言った瞬間、杢兵衛の気配が変わった。
すうっと気温が下がったかのような感覚。これは、殺気だ。
「本気か? ネズミ?」
声は荒げない。むしろ淡々とした口調だが、それゆえ、怖い。
権太は震えあがっていた。
「じょ……冗談、冗談ですよ、旦那」
待ち伏せ地点は、既に偵察を終えている。
だが、言いなりになるのは癪にさわる。はじめから、キナ臭い仕事だったのだ。
甚吾は、「断れば命を狙われる」と、言っていた。
ヤバさの本質を、権太からの断片的な情報だけで理解していたということだろう。
あの、急に仲間面しやがっている 露木 玉三郎 も、危険を承知で淡々と甚吾と行動を共にすると言っていた。
剣士とは、なんと命の扱いが軽いのか。
だが、それがいい。
夕食の仕込みが終わる。
江戸城内にいる土木の職能集団『黒鍬組』の下部組織『ガエン』と、江戸の不寝番につく先手組の賄いだ。
その賄方の一人が、曽呂利衆の清麿配下『五ツ』の一角、水丸が成りすましている十郎左だった。
副食は好き嫌いがある。だが、白米は主食なので必ず食べる。
なので、その白米に加熱しても変質しない毒を仕込んでいた。
貝から抽出した毒で、無味無臭。摂取後、半刻(約一時間)ほどで、下痢や嘔吐といった食中毒に似た症状が現れ、場合によっては死に至る毒だった。
巨大な釜から、五合が入るお櫃に炊き立ての白米を、次々と移してゆく。白米は贅沢品。労働意欲を持続させるために、夕食は白米を提供しているのだ。
実に旨そうだが、食べれば倒れる。毒入りの白米だ。
不思議なことに、夕餉のザワつきが聞こえない。
大広間が食堂として開放されているのだが、そこから咳一つ聞こえないのだ。
何事かと、手ぬぐいで手を拭きつつ、大広間を覗く。
大広間には、誰もいなかった。
嫌な予感がしていた。
忍の勘というやつだ。
襟の裏に隠してある畳針をそっと抜き取りつつ、下がる。
「いないよ。誰もね」
不意に声がかかった。
ギクリと水丸の足が止まる。
「脅かすな、伝兵衛じゃないか」
淡輪水軍の生き残りである、駿河屋の番頭 彦造によって壊滅させられた江戸・曽呂利衆であるが、彼だけは江戸を離れていて助かったのだ。
清麿と合流後は、勝手知ったる江戸の案内役を務め、人の手配や物資の補充などを一手に引き受けてくれていた。
『霞網』という特殊な忍具を使う凄腕の忍でもあり、新しく作った江戸・曽呂利衆では不可欠な人物でもあった。
ふふふ……と、伝兵衛が低い声で笑う。
「なんで、あたしが、『伝兵衛』だと思ったんです? 詰めが甘いよ」
水丸は咄嗟に畳針を構えたが遅かった。
匕首が水丸の脇腹から入ってきて、グイっと捩じられていた。
肝臓を抉られていた。ここを刺されると、数呼吸で死ぬ。水丸はほぼ即死だった。
清麿一派は喉から手が出るほど欲しかったのは、援軍。
だから、唯一生き残ってくれた伝兵衛が天佑に思えたのである。それが、精神的な死角になってしまった。
こいつが、本当に『霞の伝兵衛』なのか? の確認を怠ったのだ。
「一人、生きのこらせたのは『わざと』だよ。あとで、この『七化け甚内』が入れ替わるためにね」
変装の名人、江戸・甲州忍の頭目 高坂 甚内。彼は、霞の伝兵衛を常に尾行し、付け狙っていた。
仕草の癖、喋り方、思考の傾向、そういったものを盗むためだ。
駿河屋の彦造を通じて、瓦走りの権太に追跡させたのは、彼を振り切った後に油断するだろうと踏んだため。
おかげで、権太が諦めた後、追跡が楽になった。
伝兵衛を追跡していて、布田が本拠地であることも、早々に掴んでいた。
あえて捜索隊を送ったのは、撃退させて油断を誘うためである。そのために、部下を平気で切捨てていた。これが、甲州忍のやり方だった。
見つけてはいないが、当たりはつけている。そういう状況を作って、清麿たちを焦らせたのだ。
曽呂利衆が、報復のため駿河屋を襲撃した直後、曽呂利衆は分散してしまった。伝兵衛を捕獲して殺し、入れ替わったのはこの頃。
誰とも連絡を取り合わないので、彼等の計画の全貌を掴むのに、時間がかかってしまったが、伝兵衛が入れ替わったことに気づかれにくいという利点もあった。
他の『五ツ』の面子と連絡が取れず、本拠地は金丸と 勢 が四六時中護衛についているので、接近も出来ず、少々焦り始めたところで、全体連絡があり、やっと破壊工作の全貌が掴めた。思ったより、計画は進行していて、対応を急がねばならなかったが、南風が吹く機が遅くて、甲州忍にとっては運が良かったと言える。
天候によって、もっと計画が前倒しになっていたら、対策出来たか、あやしいところだった。
口からペッと含み綿を出し、ゴキンゴキンと顎関節は元に戻して顔形を変えながら
「さて、他の連中はうまくやっているかな?」
と、高坂 甚内 は呟いた。
***補足***
〇火丸の発火物質について
文中に出てくる発火物質ですが、黄燐がモデルになっています。
科学史では、1669年にヨーロッパで錬金術の実験中に偶然発見されていいます。
尿を煮詰めたそうでありますが、実験中は臭かったでしょうね。




