凶賊の最後
「何か危険な獣が脇を通り過ぎた」
そんなことを、全裸で地面に大の字に横たわりながら、露木 玉三郎は考えていた。
肌が粟立っていた。
これは、寒さばかりの仕業ではあるまい。
露木は、薄目をあけて甚吾が通り過ぎるのを見ていたが、甚吾はちらっと一瞥しただけだった。
それだけで、この寒さの中、どっと汗が流れた。
安堵の汗だ。
甚吾のような性質の男が居ることを、露木は知っていた。
殺気を向けてくると女子供でも平気で斬るが、殺気が無い者は斬らない。
こういった連中は、自分の中に明確な線引きがあって、それを踏み越えて来るか、留まるかで物事を判断するのだ。だから迷わない。だから、瞬時に決断できる。
生き残るにはこれしかないと、露木は賭けた。
そして、賭けに勝ったのだ。
屋内に甚吾が消えてゆく。小男が、ちらちらと露木の方を振り返りなら、その後に続いてゆく。
少し間をおいて、露木は身を起して、ぶん投げた刀と着流しを回収する。
寒さでカチカチと歯が鳴った。
いや、恐怖の残滓だったのかも知れない。
寒風を避けて、蔵の前に移動した。そこで、着流しを着る。
渥美屋半兵衛の後添え、お幸 の連れ子である お福 が監禁されている場所だが、戸は開け放たれていた。
中を覗くと、梁からぶら下がったお福が、風に揺れているのが見えた。
帯で首を括ったらしい。思いつめたのか。
「なにも、死ぬことはないのにね」
露木が片手念仏を送る。木暮は斬られて果てた。お福は死を選んだ。まるでままごとの様な『夫婦の真似事』の結末がこれとは、なんとも救われない。
高橋にしても、木暮にしても、賊に身を落としても、どこか生真面目さが残っていた。
「あたしの様に、逃げればよかったのにさ」
そうつぶやいて、露木が刀を差す。
もう、ここには用はない。
無念 といい仲になれなかったのは心残りだが、縁がなかったと思うことにした。
「なんとか生き残れるといいね。まぁ、死んじゃうだろうけど」
これが、しばらくの間同朋だった無念への惜別の言葉だった。
自分を一瞥して通り過ぎた甚吾の冷たい顔を思い出す。
ついさっき見たはずなのに、もう細部があやふやだった。
怖かった。それだけが、強烈に印象に残っていて、それ以外の記憶の映像が押しやられたかのようだった。
「でも、ちょっと好みだったかも」
ふふ……と笑って、露木は渥美屋を後にした。
無念は、飛び起きると、枕元の刀をひっつかんで、走り出した。
寝間着は着ない。
常に普段着で生活している。
襲撃があったら、いちいち着替えてなどいられないからだ。
退路は常に意識している。
逃走の経路も、暗闇であろうと走れるように訓練していた。
多分、露木が食いとめてくれるはずだ。その間に逃げる。
高橋と木暮は、なんとか自分で頑張れとしか考えていない。露木を含め、彼奴等の替えなど幾らでもいるが、自分の代替はない。
作戦を立案し、企画して実行に移すという作業には、素質が必要なのだ。
「自分には、その素質がある」
走りながら、呟く。
小さな所領を守って、小競り合いを繰り返してきた小国の武将だった。
それを繰り返しながら、戦術や兵法を磨いたのだ。だが、それを生かす場所がなかった。
今はそれを江戸で試している。
権力者に楯突くのは、気持ちいい。相手が巨大であればあるほど、無念の歪んだ自己顕示欲が満たされるのだ。
「こんな、おもしろい遊び、止められるか」
自分に『無念』という名前をつけたのは、くすぶる無念を晴らしたいがゆえだった。
才能がありながら世に出られなかった無念。
こんなはずじゃなかったという無念。
そうした物が腹の中で煮えており、これこそが『無念』という男を突き動かす原動力なのだった。
「まだ、やり足りねぇ。もっと、殺して、壊してぇ」
そのために逃げる。
殺気は感じ取った。放たれた刺客だろう。ケタ違いの殺気だけを感じた。
ずっと、付け狙われている感覚はあった。いつ襲撃があるかと、露木と話し合ったこともあった。
尾行者を確認したこともあった。
だが、逆襲するまでは出来なかったのだ。
もう「、ここに至っては『何者か?』という好奇心などなかった。
逃げる時は一目散に逃げる。
それが戦の鉄則だ。
「あはは……、やっぱりこっちに逃げやしたねぇ」
ぎくりと、無念が足を止めた。行く手を、猫背の小男が遮っていたのだ。
ぎょろりとした目。発達した前歯。鼠に似た異相の男、瓦走りの権太だった。
屋敷の構造を調べ、内部構造を類推するのは、盗人だった権太の得手とするところ。
そのために、隣家の蔵に潜み、この場所を観察していたのだ。
七死党の首領、無念が慎重で用心深い人物であることは、観察からわかっていた。
居室に使う位置を見ればわかる。
外部から侵入された時に、最も攻め込みにくく、それでいて外部への連絡がいいところを選んでいる。
護衛役の露木の居室は、侵入された場合に遮る位置になっており、この屋敷の無念の居室が本丸なら、高橋と木暮が居る母屋と蔵は『出丸』、鵺がいた正面玄関は『大手門』、露木の居室は『二の丸』といったところか。
想定外だったのは、最後の護りになるはずの露木が戦わずして逃亡した事。
それが、追いつかれる要因となってしまった。
「ちっ」
舌打ちして、刀を抜く。
するすると、権太が下がった。
代わりに、ぬっと前に出てきたのは血刀をひっさげた甚吾だった。
思わず、無念は跳び下がっていた。
間合いも何もない。怯んだのだ。体が勝手に反応してしまった。
どっと汗が流れる。恐怖したのだ。
「待て、待て、待て、待て」
刀を左手に持ち替えて後ろに回し、右手を甚吾の方に向けて拝むようにしながら、無念が言う。
『くそ、露木の衆道野郎は何してやがったのだ』
……と、心の中で罵りながら。
忙しく頭は回転していた。
闘争の中で生きて来た。甚吾と戦えば勝てないことが分かる程度には、敏い。
「蓄えがある。それを進呈しよう。しばらくは、遊んで暮らせよう。そうだ、我々に加わらないか? 度胸と腕があれば、大金を稼げる。貴殿ほどの腕前なら、副首領の座を用意しよう」
我ながら、ペラペラとよく舌が回ると感心しながら、じりじりと後退する。
右手の雨戸を蹴破れば裏庭に通じる。外側からは外れないが、内側からだと簡単に外れる仕掛けがしてあるのだ。
そこまで行きつけば、次の逃走経路が埋伏してある。
「わかった。拙者の負けだ。江戸から離れる。二度とここには来ない。蓄えは全て差し上げる。その隠し場所に案内しよう」
あと一歩、いや二歩か……。脱出口に無念がにじり寄る。
それにしても、不気味な男だと、無念が心の中で呟く。
殺気は漂っているが、明確に無念に流れてくるという事ではないのだ。こっちに切先を向けるでもなく、途方に暮れたように立ったまま、視線すら向けてこない。
ただ、怖い。肝が冷えるのだ。そう、こいつはまるで『死』そのものを纏っているかのような、底冷えするような気配をしていやがる。
『人外の化生の類か』
こんな奴に斬られるのは、まっぴらだ。
なんとしても……
「生き延びる!」
雨戸に向って跳ぶ。
相手は、だらりと刀を下げ、俯いている。
向き直り、斬撃を送ってくるのに一拍あると、無念は読んでいた。
だが、目の端で見ていた。
まるで別の生き物の様に、予備動作もなく、こちらを見ることもなく、刀を握った甚吾の右腕だけが動いたのだ。まるで、素早い蛇の様に。
首筋が裂かれたのが分かった。
そこには、太い血管が通っており、出血多量であっという間に死ぬ。
「くっ」
刀を右手に持ち替え、左手で首筋を圧迫する。
それでも、指の間から鮮血が溢れ出た。
力が抜けてゆく。それと同時に、生命まで流れ出てしまっているかのようだった。
無念は、転がりながら掬い上げる様な斬撃を送った。
その動きと交差する軌跡で甚吾の片手斬りが横に走る。
手首がついたままの無念の刀が、ドンと壁に突き刺さった。
何かを言おうと、ぱくぱくと動く無念の口に、ぞぶりと甚吾の刀の切先が潜り込む。
「うるさいよ」
その刀を、抉り、抜く。
分かりにくいが、やはり甚吾は苛ついている。木暮とかいう若造に『何か』を言われてから、ずっと機嫌が悪いのだ。
人嫌いの権太にしては、甚吾とは付き合いが長いし、よく観察する程度には近くで接している。だから、そうした変化も感じ取れる。
好奇心がうずく。甚吾の信奉者として、全てが知りたい。だが、話題に上げるのは不味そうだと思う程度には、空気は読める。
「終ったね。帰ろうか、権太。今回の探索も、見事だった」
懐のボロ布で刀身を拭いながら、甚吾が言う。
もう、普段の甚吾に戻っていた。
いや、仮面をかぶり直した……と、言うべきか。
やっと、これで本筋に戻ります。
長い回り道でした。
呆れましたよね。
すいません、すいません。




