木暮 左兵衛 と 露木 玉三郎
木暮 左兵衛は、抜刀した刀を、ひょいと肩に担ぐ。
『剣術は足から』
それが、血しぶきが舞う実戦の中で、木暮が斬り覚えた剣理。一番動きに邪魔にならない構えが、これだった。
まるで、激しい舞のように踏み足・引き足を変える。駆ける。木暮が到達した剣理の回答の一つだ。
剣術道場では「無駄を省け」と教わった。それは正しい。ただし、それは今まさに斬るという瞬間のみに必要な事柄だった。最短距離を正確に素早く斬撃を送る。それは「ここぞ」という場面でしか使えない。相手も必死なのだから。
斬り合いは『据え物斬り』ではない。相手は巻き藁の様に静止していないし、こっちの刃が届くというとこは、相手の刃も届くということなのだ。道場剣法だけやっていたら、その事を理解出来なかったかもしれない。
常に動き、間合いを外し、最高、最良の機をつかんで、その瞬間に襲う。木暮流ともいうべき、剣の方法論が、木暮の中に出来上がりつつあった。
技術的な事柄の他に、もう一つ木暮が到達した真理がある。
―― 剣術とは『狂う』事
道場での試合と違い、斬り合いでは負ければ死ぬ。それで、永久に終わり。
「まいった。お見事」
……と、相手を称えるなど、全くの茶番だ。殺すか、殺されるか、それしかない。
一回こっきりの勝負の連続。これは、相当に怖い事なのだ。
用心棒をやるような浪人は、腕に覚えがあるのだろう。
剣術道場に通っていた者もいるかもしれない。
だが、斬り合いと道場の試合は別物であるという事に気が付いていない者は、あっさりと死ぬ。死ねば反省も生かせない。
高橋の様に、戦場で武技を磨いてきた者の方が、実戦では手強い。
道場での三本勝負などでは、高橋はからっきしだったが、斬り合いでは無類の強さがあった。
斬り合いは怖い。怖いと、手足が自然と委縮し、鍛錬した動きが出来ない。
その恐怖と折り合いをつける方法を見つけられないと、いくら道場剣法が強くても、駄目なのだ。
甚吾が、刀身をすうっと下向させ、刃を上に向ける。
『下段霞』。甚吾が好んで使う構え。
そして、まるで途方に暮れたかのように、視線を斜め下に落として俯く。
謎多き魔剣、深甚流の奥義『虚』だった。
じりじりと、刀を肩に担いだまま木暮が右へと回ってゆく。甚吾の左側面に回り込む動きだ。
左利きの変則的な剣士でもない限り、右手で剣を握っている場合、やや左側面は殺傷圏が狭い。だから、それを嫌って常に剣士は相手に正対しようと向きを変える。
だが、甚吾は俯いたまま、ただ立っているだけだ。木暮の方を見ようともしない。
「こいつは……」
何者だ? 冷たい汗が、木暮の背中に流れた。
斬り合いは怖い。
相手の切先が何処にあるのか、常に視界に収めていないと、いつ斬られるかと、肌がムズ痒くなるもの。なのに、甚吾は呼吸さえ乱さない。それが、木暮には薄気味悪かった。
木暮は人斬りの修羅道に足を踏み入れていた。
だから、わかる。
自分とはケタ違いの、咽かえる様な血臭。
陽炎の如く立ち上る、ずぶ泥の黒い炎。
鬼だ……剣の鬼だ……
総身にブルっと震えが走る。
まるで心臓が、鎖でがんじがらめにされたかのようで、胸が苦しい。
いくら呼吸をしても、息が肺に入ってこないような感覚。
恐怖していた。木暮の全身が恐怖の反応を示していたのだ。
「くそっ! 狂え! 狂え! 狂え!」
そう念じながら、絶叫する。叫べば、委縮した手足が動くようになるのも、実戦で経験済みだった。
ふっと、体が軽くなった。
のしかかるほど大きく見えていた、甚吾が今は等身大に見える。
「狂え!」
思考を真っ白にする。
恐怖も、お福への未練も、きれいさっぱり頭の中から消えていた。
踏み込む。動かない甚吾の斜め後方から、片手斬りに一撃を叩きこんでいた。
甚吾の死角になる角度だった。
刃筋など意識していない。まるで、薪ざっぽうをぶん回すような荒い一撃だった。
刀は鋼鉄の棒。ぶち当たっただけで肉は潰れ、骨は折れる。そうやって、相手の戦闘力を奪ってから、刃筋を立てた致命の一刀を送れば良い。
これも、木暮が斬り合いながら自得した剣理の一つだった。
剣風に押されたように、ふわりと甚吾がその場で反転する。まるで、背中に目でもついているかのような、際どい『見切り』だった。
甚吾は、木暮の方に向き直りながら身を低くして斬撃を躱す。その躱す動作が、下段霞に構えた一刀を跳ね上げる動作を兼ねていた。
風を断ち切る鋭い口笛のような音。
朝日にギラリと刀身が光る。
下段からの剣は見えにくい。『下段は難剣』と言われる理由がこれだ。
振り抜く直前で、木暮が上体を大きく逸らせた。甚吾への死角からの一撃が躱されると見えた瞬間に、力を抜いていた。刀の勢いを止めようとして力むと、筋肉が硬直して動きが止まる。動きが止まると、そこを斬られる。
無様な避け方だったが、甚吾の下段霞からの斬り上げは、木暮の肩を掠め、頬を浅く裂いたにとどまった。
本来なら、ざっくりと首筋に切先が潜り込む軌跡であった。
地面に転がって、木暮が距離をとる。
これも、道場剣法にはない技法だが、地面に転がったものは斬りにくいし、大地を背にしていれば、後方から襲われることは無い。
今度は、甚吾の方からするすると間合いを詰めてきた。
木暮は、転がりながら身軽に跳ね起き、片膝をつく。
その姿勢のまま、刀を肩に担いだ。
構わず、甚吾が一足一刀の真境を踏み越えてくる。この期に及んでも、まだ目線はあらぬ方向に彷徨わせているのが不気味だった。
無言の気合いが迸る。
二人の剣気がぶつかって、ビリビリと空気が震えた。
木暮が、俯せに地面へ身を投げる。
同時に、地面を擦るようにして一刀を走らせた。木暮が独自に工夫した一手『脛斬り』だった。これもまた、刃筋は気にしていない。当たりさえすればいいのだ。
脛は急所である。鍛えようのない場所だ。当たれば、屈強な男でも悶絶する。
甚吾が跳ぶ。足の下を刃が通過して行った。
「そこしか、逃げ場は無いわな!」
俯せの姿勢から、木暮が寝返りを打って仰向けになる。同時に、背筋を使ってコメツキバッタの様に跳ね起きた。
空中は足場がない、だから回避行動はとれない。そして、剣士は下方への攻撃は難しい。
木暮は、空中にある物を斬る鍛錬を続けていた。舞う木の葉を正確に素早く斬る技『朽葉落とし』。これで、跳んでいる敵を斬るため。
『脛斬り』からこの『朽葉落とし』に移行する連撃もまた、木暮が斬り覚え、工夫した一手であった。
だが、跳ね起きると同時に振るおうとした木暮の一刀は、甚吾には届かなかった。
木暮を飛越すると同時に、甚吾が投擲した刀に貫かれ、ドンッと地面に縫い留められていたからであった。
「か……刀を、な、投げる……だと?」
着地した、甚吾がゆっくりと振り返って、やっと木暮を見た。
斬り合いをした昂ぶりも、命を奪う嫌悪感も、何も見いだせない能面のような顔だった。
それに、あの目。何を見続ければ、こんな冷たい目をすることが出来るのだろうか?
しんと冷えた冬の枯れ野を思わせる、寒々とした目であった。
「哀れな……野郎だぜ……」
ずぶ泥の黒い炎の正体は、斬られた者の怨念。それが理解出来た。
間もなく、自分もそれに加わると、木暮は感じていた。
それにしても、多くの死を背負い続けるのは、いったいどんな地獄かと思う。
視界が霞む。死の鉤爪が、がっちりと木暮を掴んでいた。
お福 の儚い姿が、脳裏に浮かんだ。
「すまぬ……すまぬ……すまぬ……」
木暮の詫びる言葉が小さくなり、消える。
彼の右目から一粒だけ涙が転がり落ちていった。
敵がこと切れたのを見計らって、甚吾が木暮の胸に突き立った刀の柄に手をかける。
足で、木暮の胸を踏み、ズルリと刀を引き抜いた。
「人斬り地獄の入り口でうろついていた奴に、同情される筋合いはないよ。小賢しいなぁ」
甚吾が吐き捨てながら、木暮の首を刎ねる。
彼が感情を露わにするのも、死体に追い打ちするのも、初めて見る現象なので、権太は驚くと同時に胸が躍った。
甚吾は怖い。怖いから刺激になる。素晴らしい見世物だ。返り血が一滴、甚吾の左目の下に飛び、つうっと頬を流れる。
―― ああ、まるで、血の涙を流しているみたいじゃないか!
下手な歌舞伎より、いい化粧だよ、甚吾さん ――
権太が、うっとりしながら、ぴゅんと血振りしつつ歩く甚吾の後ろに続いた。
闘争の気配に飛び起きた露木 玉三郎 は、木暮が斬られるところを見ていた。
加勢を……と、思って、刀をひっつかんで廊下から中庭に降りたのだが、その時既に勝負は決してしまっていた。
めきめきと人斬りに成長していた木暮だった。大概の奴には負けないほどの腕に成長していたが、まるで勝負にならなかった。
彼我の実力の差は、わかる。
ずっと、剣の世界で生きて来た。林崎流抜刀術と出合ってからは、『勝負は鞘の内』という斬新な剣理に痺れ、ひたすら独学で研鑽を続けたのだった
気がつけば、初対面の相手なら負け知らずになっていた。柄を長くするという独自の工夫も加わり、雇われては人を斬る生活だった。
鋭い刃物が、すっぱり肉体を斬る様子が好きでたまらない。それに、女より男に懸想する癖があった。
「私は、おかしいのだ」
薄々、そんなことに気が付いていた。
異分子は排除される。だから、異分子は誰よりも強くなければ生きられない。
血反吐を吐くような研鑽を重ね、露木抜刀流ともいうべきものになった剣技。これが、露木にとってこの世を渡る術なのだ。
だが、及ばない。それが、甚吾を見てわかった。
剣に生きて来た。だから、剣のことはわかる。分かるからこそ、何が怖いのか理解できる。そう、甚吾は化け物だ。怖い。怖くてたまらない。挑めば、多分死ぬ。それは確実だった。
びゅんと血振りして、甚吾が露木の方に向ってきた。
自分は 無念 の護衛。無念 の慈悲無き野望が好きだった。顔も、引き締まった体も、僧形であるところも実に好みで、出来れば恋仲になりたかったが、無念 にはその気がないのが惜しいと、露木は思っていた。
無念は好きだが、第一優先はまず自分。
『縁がなかったのだ』
素早く思考を切り替える。そうでなければ、殺しを生業とする世界では、長生き出来ない。
露木は、鞘ごと刀を放り捨て、着物を脱ぎすてて下帯一枚になり、その場で大の字に寝ころんだのだった。
武器を捨て、寝ころんだのは恭順の意思表示。全裸になったのは、武器を隠していない証明。
権太は呆れ、そして露木を軽蔑した。自分の追跡を邪魔した剣士がコイツだった。腕もいい。だから、甚吾との対決を楽しみにしていたのだ。なのに、この結末はひどい。
甚吾は露木に興味を無くしたか、眼も向けずに土足のまま屋内に戻る。
その間も、露木は寝ころんだまま微動だにしない。
「いいんですかい? ほっといて?」
未練たらしく権太が甚吾の背に語りかける。
「彼奴はもう『七死党』じゃあない。めんどくさいから、斬らないよ」
甚吾はそう回答した。珍しく、苛立った声だった。木暮とかいう若造に、何を言われたのだろうか?
「でも……」
権太が食い下がる。
「くどいよ。権太」
平坦な声で、甚吾が権太の言葉を遮った。
さぁっと、鳥肌が権太に立つ。
怖かった。ちびりそうなほど。
忘れていた。自分が鬼と同行していることを。
高橋にしても、木暮にしても、よく甚吾と剣を交えることが出来たものだ。
権太は口を噤み、甚吾の後に続いた。
--- 補足 ---
居合の祖と言われる林崎流ですが、流祖 林崎 重信 さんは、特に流派名を名乗らなかったそうです。
老境にあっても、後進指導のため諸国を回り、そのお弟子さんたちが流派を名乗ったのでしょう(そして、旅先で行方不明。創作意欲がわきますね)。
魔界転生で有名な田宮流抜刀術も、彼の直弟子の一人が開いた流派と言われています。
本作では、便宜上『林崎流』が既に存在していることにしています。
以上、参考まで。




