阿芙蓉
血刀を下げたまま、するすると甚吾が下がる。
たった今斬った、左転の返り血を避けるため。そして、『残心』のため。
残心とは、首を切落としてもその首が転がってきて喰らいつくかも知れず、勝ってなお警戒を怠らない心のあり様を言う。
甚吾は闘争の中で生きて来た。これは、身についた習性みたいなものだった。
心臓の動きが止まったか、左転の血の噴出が止まる。
ここで、初めて甚吾は刀を一振りした。
びちゃっと、刀身についた血糊が地面に叩き付けられた。
瓦走りの権太は、甚吾が『血振り』するこの姿が好きだった。
魚をさばいた血まみれの俎板をざっと洗い流すかのように、斬った者の血を飛ばすところが良い。その瞬間、まるで能面のように甚吾の表情が抜け落ちるところも気に入っていた。
甚吾が、ボロ布で刀身を丹念に拭い、納刀する。
そして、権太が捧げ持った羽織に袖を通す。
「いやぁ、さすがに寒いね」
そういって、甚吾はひらりと笑った。冬の朝が始まっていた。
権太が、忍び崩れの兄弟の懐を探る。
死人には荷物など不要だろうよと、甚吾が言ったからだ。
当の陣吾は朝日に向って立ち、眼を細めていた。
まるで、陽だまりに温む猫の様だった。
「甚吾さん。こいつ、二十両も持っていましたぜ」
最初に殺した右旋の懐から、ずっしりと重い財布が出てきたのだ。
「今回の探索では、おアシが出ただろう? 君がもらっていい。死人は銭を使わないからね」
手強い相手だったし、雲をつかむような話だったので、だいぶ金を使った。しぶちんの元請、粛清屋の清明からの前金はとっくに使い切り、権太の持ち出しが続いていたのだ。
甚吾は、浮世離れしているように見えて他者をよく観察していると、権太は改めて感心していた。
「では、遠慮なく頂いておきます」
各一両、右旋・左転の双子の兄弟の口の中に押し込み、葦原の中に蹴り込む。
この一両は、シデムシたちへの報酬の代わりだ。恨みを飲んで死んだであろう兄弟に対する供養という側面もあった。
「南無……」
権太が、兄弟の死体が転がっていった葦原に向って片手念仏を送る。
懐手のまま、何事もなかったかのように甚吾がぶらぶらと歩きはじめている。
「これから、どうします?」
甚吾に追いつきながら、権太が訊ねた。
「ん? ああ、逃げられたら厄介な奴を、二人とも始末出来たからね。このまま、渥美屋に行って、残り五人、全部斬ってしまおう」
瓦走りの権太をして、追跡が困難だったのは、忍び崩れらしき兄弟だった。
そして、事前に襲撃を探知出来る可能性を持っていたのも、やはりこの二人だっただろう。真っ先に物見を潰すのは、戦の常道ではある。
そして、早朝の渥美屋を襲う。
夜討ち、朝駆けは、奇襲の基本。甚吾は、朝駆けをしようとしているのだろう。
「え? 一人で、ですかい? このゼニで命知らずを集めることは出来ますよ」
権太の提案に、ふふふ……と、甚吾が浅く笑った。
「いいよ、いいよ。面倒臭い。さっさと、片づけてしまおう」
相手は凶賊『七死党』だ。人を斬るのに躊躇いは無いし、かなり腕も立つ集団。
このご時世、金を積めば食い詰めた浪人がいくらでも雇える。権太の懐には十八両もの大金があるのだ。助太刀は雇える状況だった。
だが、権太は自分の隣で、朝日にめを細めながら歩いているのが、巷間に潜む剣の鬼であることを思い出した。
凶悪な連中相手に「面倒臭い」で済ませてしまう男だった。
『ああ、今日はいっぱい人が死ぬ。とてもいい日だ』
そんなことを権太は思っていた。
よく考えたら、死ぬのが甚吾だろうと、七死党だろうと、権太には構わないのだ。
多くの死を見せてくれる甚吾がいなくなってしまうのは残念だけど、また違う甚吾を探せばいい。
それに、案外この程度の戦力差など、甚吾はものともしない可能性が高い。
「まぁ、そうおっしゃるなら、止めはしませんがね」
渥美屋の朝は早い。
だが、番頭も小僧も、急に自堕落になった主人の半兵衛に見切りをつけ、次々と辞めてしまったので、開店の準備は半兵衛自身が行う。
ここしばらく、半兵衛は扱う品物である海産物の乾物の仕入れさえ、まともやっていない。
シナに送られる、ナマコやコンブなどのいわゆる『俵物』と呼ばれる商品は、仕入れ価格に対して販売価格が高く、いわゆる利サヤの大きな商いだ。
渥美屋が、急成長したのも、それが原因だった。
過当競争で値崩れが起きるのを防ぐため、江戸の徳川家の政商たちの間で談合がもたれていたが、大口の『俵物』取扱店の駿河屋が忽然と消え、新進気鋭の渥美屋が商売っ気を無くしたことで、新規参入の商家や政商以外の小口の商人が勝手に商売に介入を始めていた。裏の工作部隊『淡輪水軍』を擁する駿河屋が消え、抑えが利かなくなったのだ。
武士である先手組はこの事態を理解していないが、商いの現場は確実に混乱が起きつつあって、曽呂利衆の政商に絞った破壊工作が結実しているのだった。
事態の深刻さを理解しているのは、先手組の下請けで、江戸の治安を裏面から支えている甲州忍ぐらいのものだろう。
敵地に侵入し、経済活動を阻害して弱体化させるのは、忍びの活動の一つ。
曽呂利衆によって送り込まれた七死党によって、腐ってしまった渥美屋だが、まるで商売にならないのに、普通に店を開けるのは、無念の指示による。
ここは、七死党の隠れ家。急に店を閉めたりすると、何事かと疑われることになる。
だから、この主人の半兵衛が『気鬱の病』に罹ったことにして、店は存続しているが商いの興味はなくなってしまったという態を装うことにしていたのだ。
まさか、無気力な半兵衛のところに、凶賊『七死党』が潜んでいるとは思うまいという計算があった。
だが、瓦走りの権太には、見抜かれてしまった。そして、見抜かれた事を察知していない。
なんとなく「何かヤバい」という感じがしているだけで、まだ具体的にどう動くか、判断がつきかねている状況だった。
右旋と左転には、それとなく探りを入れるように命じていたが、彼等はピンときていないようだ。危機感がないので、あまり期待は出来ないと、無念は思っていた。
新興の商人街、日本橋。
工事に向う労働者たち、商家に向う通いの従業員たちで活気がある通りを、甚吾はブラブラと歩いていた。
浪人者の姿など、江戸では珍しくないし、労働者たちは屁とも思っていない。
武士が威張る街ではないのだ。邪魔だと容赦なく突き飛ばされ、踏みつけられる荒っぽい街でもあった。浪人も武士も例外なく。
甚吾は、人々の流れに逆らうことなく、邪魔になることもなく、漂う様に歩いてゆく。
ゆったり歩いているように見えて、そのくせ早い。
乞食の服装から、町人の服装に着替えて、甚吾に同行している権太が、時々小走りになるほど。
渥美屋の前で、甚吾の足が止まる。
なるほど、活気にあふれる日本橋界隈にあって、ここだけが影が差しているかのように、シンと暗い気がする。
店先に、砂塵よけの打ち水もないし、小僧や手代が忙しく立ち働く様子もなかった。
「あんた、ここで買う気かい? やめときな」
通行人の一人が、立ち止まった甚吾に声をかけてくる。
こうした、おせっかいも、江戸の町の気風だった。町の構成は労働者の集団で、互いに助け合うのが習慣なのだろう。
「いい品物を扱う、いい店だったんだけどね。心労で、主人の半兵衛さんが気鬱の病に罹っちまって、すっかりダメさ。青かびが生えた鰹節を買ったって、文句言ってる奴がいたぜ」
どこかの商家の手代らしき男だった。
「乾物なら、今は『大和屋』がいいぜ、お侍さん。へへ、あっしはそこで働いてるんですがね」
この時代、新興の街にあって、商人も貪欲だった。
「あはは。商売上手だねぇ。『大和屋』ね。覚えておくよ」
共謀者の笑みを交わして、大和屋の手代が雑踏に消えてゆく。
甚吾は、その後ろ姿を見送った後、渥美屋の暖簾をくぐる。
権太がその後に続く。
「ごめんよ」
そう訪いの声をかけて、甚吾が店内に入った。
番頭の場所に、色っぽい女が煙管をふかしていた。
その隣に、ぼんやりと半兵衛が座っていた。
居眠りしているのか、覚醒しているのか、分からない状況だ。
それに、何かが臭う。盗賊の下働きをしていた頃、この匂いを権太は嗅いだことがあった。
捕えた敵を尋問にかけ、廃人化させる薬。
芥子の花を傷付け、そこから染み出る乳液を加工した薬品を使う奴がいて、それを煙管に混ぜて焼いた匂いがこれだった。
たしか阿芙蓉とか言っていた。
半兵衛の無気力の原因は、これだと権太は気が付いた。




