巷間に潜む鬼
護岸工事中の河原。
夕刻ともなれば槌音も途絶え、塒に帰る烏の声が忍び寄る夕闇に響いている。
そこへ、鞘の禿げた刀を落とし差しにし、着流しの上に裏地のついた袷を着こんだ男の姿。
草深 甚吾であった。
魚籠は腰にぶらさげているが、いつもの釣竿は、持っていない。
その代り、持っているのは、二尺(約六十センチ)程の薪ざっぽう。
それを肩に担ぎ、ぶらぶらと河原を歩いているのだった。
護岸の工事といえば、河原に何本も杭を打ち込み、地盤を締めるのが、近頃のやり方。
ゆえに、このあたりは『千本杭』などと呼ばれるようになる。
何を思ったか、甚吾は周囲を見回し、地形を確認すると、着流しの裾を端折り、杭がうち込まれた川の中に、ざぶざぶと入ってゆく。
氷の様に水は冷たいだろうが、気にした風もなく、手にした薪ざっぽうを大上段に構えた。
それを、無言の気合いを込めて打ち下ろす。
まるで、木鐸でも打ったかのような、小気味良い音が『カッコーン』と響いた。
人足が、二人掛で川床に打ちこみ、微動だにしない位置まで杭は突き立っているはずが、甚吾の一撃で、更に沈み込んだように見える。それほどの打撃だった。
杭を中心に、放射状に波紋が広がる。
その、小さな漣が消えると同時に、白い腹を見せて、数匹の鯉が浮かび上がった。
尺モノと呼ばれる一尺を超える大物が三匹。やや、小ぶりのものが一匹。
水中を走った音の衝撃に、鯉が気絶したのである。
甚吾はこれらを、岸に投げ上げ、小柄(刀に付帯する小型の刃物のこと)で、鯉の頭部の一点を刺して回る。
生きてはいるが、運動中枢を断ち、暴れなくする漁師の知恵だった。
暴れると『身が焼ける』といい、味が落ちる。
甚吾は、薪ざっぽうを投げ捨て、重くなった魚籠を肩に担いで歩く。
お登紀の店に、卸にゆくのだ。
尺ものの鯉三匹を、お登紀の店に届ける。
どんな時間に持って行っていっても、お登紀は嫌な顔一つせず、だいたい二割り増しの値段で買い取ってくれる。
店の主は、彼女の父親である弥平なのだが、彼は経営者より料理人に徹したい人物らしく、娘の経営に口を出さない。
「いい、鯉ですね。鯉濃漿にでもしようかな」
お登紀は、そういって顔をほころばせた。
「寒いですからね。温まりますよ」
調理場に、鯉を運び込みながら、甚吾が言う。忙しく働く、弥平が、甚吾に目礼を送ってきた。
彼は極端に寡黙で、あまり声を聞いたことがない。
その代り、お登紀は饒舌で気が強い。これくらいでないと、極端な『女日照り』の物騒な江戸では、店の切り盛りなど出来ない。
「甚さんも、鯉濃漿? だったら、白味噌と酒粕を分けてあげる。うちは、赤味噌じゃなくて、白味噌を使うんだよ。蝦夷地で、鮭をそうやって食べるらしいのだけど、それを応用したんだ。そうそう、鯉は捌ける? こっちで、捌こうか?」
などと、ポンポン捲し立て、甚吾は、「あ」とか「いえ」としか口を挟めない。
「なんだい、なんだい、甚吾さん相手だと、お登紀ちゃんは、まるで、世話女房だねぇ」
などと、常連客からからかいが入って、やっと口を噤む。
首筋まで真っ赤になって、俯くなど、お侠なお登紀にしては珍しいことではあった。
「あ、じゃ、私はこれで。お忙しいところに、かたじけない。味噌はありがたく、頂戴します」
やっと、言葉を挟むことが出来た甚吾が、彼にしては早口でこれだけ言い。店を辞した。
その後ろ姿を、お登紀は上気した頬のまま、ぽぅっと見送っていた。
やれやれ……と、弥平が首を振っているのにも気が付かずに。
長屋に甚吾は向った。
今は、一日の作業を終え、家路につく者、お登紀の店の様な一善飯屋に繰り出す者などで、人通りは多い。
甚吾の長屋には、河川の土木作業に従事する者が多く、独身者か、郷里に妻子を残し単身で江戸に来ている。
だから、女房たちによる井戸端会議もなく、炊煙や団欒の声も聞こえない。ただ単に寝に帰るような場所。これが、この長屋だった。
例外は、甚吾のみ。
酒を飲む習慣がない甚吾は、飯屋で食事をするより、自炊した方が気楽なのだ。銭がないわけではないが、無駄に使う必要もあるまいとも思っていた。
七輪に、小さな炭火が熾してあった。
そのおかげで、部屋の中は、わずかに暖かい。
井戸で盥に水をくみ、その炭火の中にある拳大の石を、ヤットコで取り出す。
そのキンキンに焼けた石を、盥の中に入れた。
たちまち、盥の水は湯に変わる。
「遠慮する必要はないぞ。こっちに来て湯を使え、権太」
盥の湯加減を見ながら、甚吾はそんなことを言った。
物陰から、おずおずと現れたのは、『瓦走りの権太』だった。薄汚れ、疲れ切り、げっそりと痩せたように見える焦燥ぶりだった。
だが、眼だけは爛々と光っていて、まるで手負いの獣だ。
「汚れておりますので……。報告だけして、お暇するつもりでした」
頬かむりの手ぬぐいを取って、権太が頭を下げた。
甚吾は、あがりに腰掛け、土間に置いた盥に川に入って冷えた足をつっこみ、うーんと満足げな呻きを上げた。
「汚れておらぬ者などおらん。構わんから、入っておいで。鯉が手に入ったから、一緒に食おう」
火鉢に当たりながら、権太は甚吾の部屋の中を見回していた。
見事なほどに、何もない部屋だった。
居心地よくしようとか、趣味の物を飾ろうとか、そういった代物が一切見当たらないのだ。防寒のための火鉢。布団は押入れに。備え付けの箪笥に着替え。これだけだ。
権太は名うての盗人だった。
忍び込んだ家の内部を見れば、色々なことが分かった。
だが、甚吾の部屋はどうだ。
何もない。
――― 寒々とした虚無
それだけが、胸に迫る。
包丁で、甚吾が鯉を捌いていた。
軍鶏を宿星屋で食べた時を、権太は思い出した。甚吾は器用に料理をする。無骨な野戦料理みたいなものばかりだが、かなり上手だ。
現に、今も器用に鯉を解体していた。
「こいつは、胆嚢。苦玉とも呼ばれていてね、鯉の苦玉は毒なんだよ」
見るとはなしに、権太は甚吾を見ていたのだが、背を向けたままにもかかわらず、甚吾は視線を探知する。今も、目線を当てただけで、作業の内容を説明した。
甚吾と一緒にいると、何か、危険な化生のモノと対峙しているような気分にさせられ、背中がゾクゾクする。権太には、それがたまらなく刺激になる。
潰してしまわないように、慎重に苦玉を取り、次いで、鰓を抜き、内臓を掻き出す。
甚吾は、苦玉以外の内臓を小さな土器に盛って、庭の隅に置く。
苦玉は焼酎が入っているらしい小さな徳利に入れて、栓をする。
「この近所には、野良猫がいてね。こうして、たまにお裾分けするのさ」
塩で揉んで、ぬめりと体腔内の粘膜を洗い落とし、鱗を削ぐ。
身はぶつ切りにして、煮立った土鍋に入れた。
切り落とした頭もそこに入れ、酒粕を溶く。
「鱗で煎餅でもつくろうか」
七輪の土鍋の火を調節して蓋をし、金網に鱗を並べたものに粗塩を振る。
それを、火鉢で炙った。
「あちあち」
などと言いながら、程よく焼けた鱗をつまみあげ、甚吾が口にそれを放りこんでパリポリと噛み砕く。
「鯉濃漿が出来るまで、適当にそれをつまんでいてくれ。酒が無くて、申し訳ないがね」
権太も、酒は強い方ではない。あえて飲みたいほど、好きでもない。
七輪から火鉢に移された土鍋が、クツクツと鳴っていた。
中には、鯉の身。
権太の郷里では、鯉濃漿には赤味噌を使う。だが、白味噌と酒粕で煮たこれも、旨そうだった。
おたまで、椀に汁をよそう。
ふうふうと吹いて、これを飲んだ。
「旨い」
思わずそうつぶやいていた。
権太の反応を見ていた甚吾が、ひらりと笑った。
「そうか、よかった」
そう言って、身と汁をよそう。
身は箸でつまむと、ホロリと崩れ、噛みしめると甘みが広がった。
川魚特有の臭みは無い。酒粕にそれを消す効果があったらしい。甘みは、酒粕のもう一つの効果だろう。それに、冷えた体も温まる。
しばらく、二人は無言で鯉を食べていた。
「……で、どうだった?」
唐突に、甚吾が言う。
鯉濃漿の事ではない。権太の探索の結果のことを言っているのだ。
「見つけました」
たった一言だが、この一言を言うために、文字通り身を削るような思いで、追跡を続けていたのだ。
その日数は三日。飲まず、食わずの日数としては、ほぼ限界の日数だった。
だが、勝った。権太の粘り勝ちだ。
徳川の治安維持部隊の詮議の目を潜り抜けてきた七死党は、用心深かった。
それに、甚吾のような、誰かの視線を感じ取る能力を持つ者が最低でも二名いたのが、追跡を難しくしたのだ。
だが、高橋と呼ばれる大柄な浪人がボロを出した。
明らかに、一時的な隠れ家と思われる場所に、七死党は避難していたのだが、高橋がそこ抜け出して、渥美屋という中堅規模の商家に入って行ったのを確認したのだ。
渥美屋には、七死党の七人目の面子、『鵺』と名乗る妖艶な年増女がいて、渥美屋の主人半兵衛は、この女の言いなりだった。
半兵衛の後添えに、お幸という女がいたが、高橋はこの女に執着しているらしかった。
不思議なもので、七死党はこの渥美屋を乗っ取り、凶行の本拠地にしているのだが、いつでも逃げることが出来るはずなのに、お幸にしても、その娘のお福にしても、逃げようとしない。
お幸にいたっては、昼日中にもかかわらず高橋と交情する始末だった。
だが、これで、本拠地は知れた。
ここから先は、主に甚吾の仕事だ。彼の襲撃計画に従い、下調べをして、円滑に甚吾が斬ることが出来るように、舞台を整える事。
権太は、それが楽しくて仕方がないのだった。
「そうか。さすが、権太だ」
さらりと、賛辞を甚吾が口にする。彼の言葉に、打算や阿りはない。掛け値なしの賛辞なのだ。
例え、権太が醜悪な面相であろうとも、成し遂げた成果が素晴らしければ、相手がだれであろうと「素晴らしい」と言うのが、甚吾という男だ。
理由は、わかる。彼は、他人に興味がないのだ。相手を、単なる『機能』としか見ていないから。
いわれない差別を受け続けてきた権太は、人間が大嫌いだ。それ以上に、自分が嫌いだ。
だから、甚吾の突き放したような距離感が、とても気持ちがいい。そこに、たまらなく惹かれる。
「皆殺しにしないとね」
まるで、天気の事でも言うかの様に、恐ろしい事を甚吾が言う。
……そうか……
改めて、権太は確認した。
『甚吾さんは、人ではないのだ』
そう、甚吾は『巷間に潜む鬼』なのだ。
だから、人嫌いの自分が、たまらなく惹かれるのだ……と。




