駿河屋 消滅
この『駿河屋』の抜け殻には、二十人の浪人者がいた。
空家の留守居と警備という仕事を募集したのだ。
甲州忍の息がかかった口入屋(人材斡旋を仕事にしている者)だけを使った。 『駿河屋』は既に実体がなく、浪人者が待ち構える罠だと知られたくないからだ。
蕪 九兵衛 は、そこに紛れ込んでいた。『駿河屋』に入れた浪人者の中に、密偵が紛れ込んでいないか、確認するためだ。
探りの結果はシロ。どいつもこいつも、食い詰めた貧乏浪人ばかりだった。腕の立つ者がいれば、味方に引き込もうかと思っていたが、九兵衛は早々に諦めた。
大坂城を本拠地とする『曽呂利衆』の噂は知っている。
首領の曽呂利 新左衛門は、もとは京都の鞘師だったという。
腕のいい鞘師で、
「そろりと鞘に刀が収まる」
……と、いう評判で、各地の大名が買い求めたらしい。
話を聞きだすのが上手だったこともあり、新左衛門はかなりの情報通になってゆく。
それに目を付けたのが、当時、まだ木下性を名乗っていた秀吉。
剽げた仕草で相手を油断させ、誑す。秀吉と新左衛門は似た者同士だった。
新左衛門は、次第に秀吉直属の諜報機関の色合いを深めて行く。
秀吉が権力の座に昇りつめてゆく段階で、新左衛門は勢力を拡大させ、一大諜報網を作り上げて行く。
そういった、成り立ちゆえ、情報収集には長けているが、荒事には向かないと言われていた。
同じ諜報組織でも、ともすれば乱暴粗雑になる甲州忍や風魔衆とは、全く逆の性質を持つ組織、という認識が九兵衛にはあった。
江戸の治安を守る甲州忍の情報網によると、江戸に入ったのは少人数と推測されていた。
秀吉が死んでから、首領の新左衛門は腑抜けになったという噂があり、家康が大坂城二の丸に陣取っている現在、熾烈を極める諜報戦が大坂城で展開されているはずで、人材の散逸で弱体化しつつある曽呂利衆は、江戸に人員を振り向ける余力がないと分析されている。
「多くて十名」
事前の打ち合わせで、九兵衛はそう聞かされていた。
昼行燈の食い詰め浪人二十名となら、いい勝負だろう。出来れば、共倒れをしてくれればいい。浪人の始末も出来れば一石二鳥だった。
不寝番すら置かない浪人衆の代わりに、ただ一人見張りに立ちながら、九兵衛は欠伸を噛み殺していたのだった。
深夜、柿渋色の忍装束に身を包み、夜魔の如く甲州と江戸を結ぶ街道を走っているのは、曽呂利衆だった。
清麿以下六人。それに、やっと、追手を振り切った『霞の伝兵衛』が加わっていた。
清麿が連れてきた忍は『清麿の五ツ』と呼ばれる直属の腕利きだ。
地丸、水丸、火丸、風丸、金丸の五人。それに、富田 勢 を加えた六人が、清麿の私兵とも言うべき面子だ。
江戸の先手組(戦の際に先頭に立つ斬り込み隊)の詰所がいくつかあったが、気付かれることなくあっさりと通り過ぎる。まるで、本物の夜魔のように。
彼らの目標は『駿河屋』だ。
江戸の事情に詳しい 霞の伝兵衛 の話では、おそらく駿河屋は撤収しているという話だったが、清麿は襲撃に踏み切った。
「例え罠であろうと、踏み破る。我らは、義によって立つ者。その鉄血をもって、悪を砕くのだ」
清麿の言葉は、まるで暗示のように、全員に染みわたる。恐怖を払拭し、駆け出したくなる気にさせる。
石田 三成 の軍師、島 左近 にも同じような才能があった。
弱兵と言われた石田軍は、関ケ原で鬼神の如く戦った。そして、その先頭には常に左近がいた。
「死ね! 死ね! 死ね! だだ、死ね!」
という戦場に響く左近の声に、未だに悪夢にうなされる東軍兵士も少なくない。
隠れ家がある布田から江戸まで、歩けば一刻(約二時間)はかかる距離を、休みなく走る。
清麿たちの足なら、半刻もかからない。
上空は暗天。
数刻前には利鎌のような月が出ていたが、今は分厚い雲に空がおおわれていた。雪の気配があった。
闇が深い夜。
忍のための夜。
襲撃にふさわしい夜。
緑色に光ったのは野良猫の眼。
夜鷹が鋭い声で鳴きながら、曽呂利衆の先触れの如く暗天に飛び去る。
駿河屋が見えてきた。曽呂利衆は息も切れていない。
跳ぶ。
次の瞬間、彼らは塀の上にいた。
闇に潜み気配を探る。
篝火も不寝番も居ない。誰かの鼾の音が聞えるばかり。
「なめられたものだ」
清麿がつぶやいた。どす黒い怒りが、若き司令官の腹腔の中でグツグツと湧き立つ。
「皆殺しにせよ」
清麿と勢と『五つ』が、音もなく屋敷内に入る。
霞の伝兵衛は後詰と退路の確保のため、塀の上に残った。
夜鷹が「キョキョ」と鳴いた。
ただの夜鷹ではない。九兵衛の上官にあたる、喰代 左兵衛 が飼育している、夜鷹だった。
優秀な夜間の警報装置である。
風魔は夜、江戸の町を走る。そのための早期発見装置なのだが、駿河屋の作戦のために貸してくれたのである。
「さて、と」
寒さに凍えた体を、九兵衛は解きほぐす。
息を吸い、大きく吐きだす。
むらむらと、白い息が寒空に消える。
肩に立てかけていた刀を差す。刀は重い。重いのは苦手だった。
「曽呂利衆とやらの腕前、拝見しますかね」
手元にあるタコ糸を引く。
それは、『鳴子』という竹や金属片をぶら下げた紐につながっていた。
寝静まった屋敷内に、ガランガランと鳴子が響く。
浪人たちが飛び起きたのがわかった。
「さあ、殺して、殺されろ」
どちらかというと野卑な九兵衛の顔に、獰猛な笑みが浮かぶ。
浪人たちが奇襲を受けるのを回避してやった。
あとは、曽呂利衆と殺し合うだけだ。九兵衛の役割はこれで終わり。
だが、九兵衛はその場に残った。
噂ばかりが先行する曽呂利衆とはどの程度の相手なのか、興味が湧いたのだ。
いざとなったら、逃げればいい。
勝手知ったる江戸の町。逃げ切れる自信はあった。
安全な屋根の上から、見物……そう、思った瞬間、九兵衛の足が止まった。殺気が流れてきたのだ。
並みの殺気ではない。何度も死線を潜り抜けた熟練の忍である九兵衛をして、一瞬身を竦ませるほど。
「なにか、やばい!」
跳ぶ。どこから狙われているか、分からない。だが、止まっていたら死ぬことだけはわかった。
九兵衛は真後ろに跳んでいた。
今まで、自分が立っていた場所に、ドンッと棒手裏剣が突き立つ。
見えた。廊下の先。もう、屋内に曽呂利衆は入りこんでいたというのか。九兵衛は彼らの侵入に全く気が付かなかった。
危ないところだった。夜鷹の警告に従って臨戦態勢をとっていたおかげで、奇襲を躱すことが出来たのだ。それがなければ、多分死んでいた。眉間に棒手裏剣を生やして。
廊下を走る。察知が甘かったという反省があった。
「こんちくしょう」
一人くらいは、曽呂利衆を斬らないと、気が済まないと、九兵衛は思っていた。
屋内で、闘争の気配があった。曽呂利衆と浪人どもが、戦闘をはじめたのだ。
差し当たっては、廊下に立ち、九兵衛を見ている細身の影が九兵衛の相手だった。
九兵衛は、走りながら左手て鯉口を切った。刀術には自信があった。九兵衛は甲州流剣法の使い手でもあった。
武田勝頼に組し、勝頼死後浪々の身の上から、徳川陣営に拾われた軍学者に小幡官兵衛という人物がいる。
関ヶ原の戦いでも、榊原隊に属して功を上げた人物で、彼が使う兵法を『甲州流』と呼称するが、九兵衛の甲州流とは全く関係が無い。
九兵衛の剣は我流。
「甲州忍が使うから『甲州流』さ」
卓抜の刀法に感心した者が、九兵衛に何流か? と、訪ねた際の答えがこれだ。
以降、『甲州流』を名乗っている。剣術の名称などどうでもいいのだ。
走りながら、九兵衛は身を低くする。鯉口を切った刀は、ぐりっと左手首を捻って、刃の部分を下向きにしていた。
細身の影は、刀に手をかけ、やや腰を落しただけだ。
ずぶりと、九兵衛が間合いに入り、逆手に抜刀する。
本来、刀は親指側が鍔元にくるように握るが、九兵衛は逆に小指側が鍔元に来るように掴んだのだ。これを『逆手』という。
逆手に抜刀して、下から掬い上げるように胴を薙ぐ。九兵衛はこれを『逆手逆胴斬り』と呼んでいた。
剣士は下からの軌道に弱い。死角から斬撃を浴びせるのが、闘争の中で自得した九兵衛の剣だった。
たいていは、これで片がつく。
だが、今回は違った。戦場で練り上げた『逆手逆胴斬り』が通用しなかったのである。
細身の影は、ソロリと抜刀すると、九兵衛の斬撃の軌道に刀身を添わせるようにして、受け流してしまったのである。
これで、体が泳いでしまったら、続く一手があったのだろう。
九兵衛は、受け流された流れに逆らわず、独楽のように一回転して、再び斬撃を放つ。
わざと背中を向けて刀身を我が身に隠し、遠心力も加えた一撃を死角から叩き込む甲州流の一手だった。九兵衛はこれを『颶風剣』と呼ぶ。
細身の影が跳ぶ。九兵衛が斬ったのは、その残像だった。
だが、これで間合いが離れた。
相手が、予想以上に使う事がわかったので、あとは逃げることにした。
九兵衛は甲州流剣法の使い手だが、剣士ではない。彼我の技量を比べるという思考はないのだ。
同時に、九兵衛も跳ぶ。細身の影とは反対側に。
ビリっと静電気のように、殺気が肌に触れてくる。
足音は二度した。
床で一度。壁面で一度。
毬の様に壁で跳ねながら、小柄な影が飛んでくる。
屋内では火の手が上がっており、その赤光を浴びて、その小柄な影が構える小太刀がギラリと光った。
「早い!」
思わず、九兵衛が呻く。
小太刀の切先が、浅く九兵衛の頬を裂く。
逃げを打つと決めて、後ろに跳んでいなければ、躱せなかったかもしれない一撃だった。
「こなくそっ!」
小柄な影が着地した瞬間、横殴りに逆手に握った刀をぶん回す。
刀が突きだされて、九兵衛の一撃の軌道が上に逸れた。
一度下がった細身の影が、再び九兵衛に肉薄し、小柄な影をかばったのだ。
「あぶねぇ!」
低い姿勢のまま、小柄な影が、小太刀で脛を払ってくる。
下方からの死角を狙った一撃。九兵衛の得意とする技法と同じだが、我ながらえげつないと、跳び下がりながら認識する。
小柄な影が立ち上がる。
コイツは、空間から斬ってきた。壁や天井を使って、空間を立体的に使う。狭い場所は不利だと九兵衛は判断していた。
だから、次に九兵衛が跳んだのは中庭へ、だった。
小柄な影が、まるで猫がスズメに跳びかかる前の様に、跳躍の構えを見せた。
細身の影が、小柄な影の肩に手を置き、追撃を中止させる。
こいつらを引き離せれば、浪人どもが多少有利になると思ったのだが、こっちが忍とみて、深追いはやめたようだ。
駿河屋は炎上していた。
闘争の気配も小さくなってきている。
二十人も雁首そろえていやがったクセして、えらい短時間で討伐されてしまった。
「ま、仕方ねぇか」
対峙した曽呂利衆は手ごわかった。食い詰め浪人では、太刀打ちできまい。
九兵衛が納刀して壁を飛び越える。そのまま、夜の闇に消えていった。
九兵衛の幸運は、彼の退路が、霞の伝兵衛 と反対側だったこと。
闇にまぎれた霞網は発見が容易ではないので、九兵衛の苦戦は必至だった。




