表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
剣鬼 巷間にあり  作者: 鷹樹烏介
浮月の章
23/97

払暁に月は消えた

 月之介が辿る夜道。まるで降るような星空。

 月がかかっていた。

 満月からほんの少し欠けた、歪な月。

 風が吹いている。

 サラサラと鳴るのは、葦。

 ここは、月之介と彦造が、佃島からの帰り道に刺客と戦った場所。

 すでに、義経神明流の島田某らの死骸はない。

 野ざらしにされた死体を、処理する者どもがいるのだ。

 身ぐるみを剥がし、毛髪を剃り、内臓は腑分けされ、使えるものは全部もっていかれて、のこった残滓が焼かれ、無縁仏として埋葬される。

 所持品は、古道具屋に持ち込まれる。

 衣服は洗い張りされて、古着屋に売られる。

 毛髪等は、鬘の材料や、人形の材料になる。

 新鮮な内臓は、加工されて得体のしれない薬品の材料になるらしい。

 あたかも、虫が群がって死体を喰らっているかのようだった。

 シデムシという甲虫がいる。

 死体に群がり、その腐肉を喰らう虫だ。

 死体から出てくるから『死出虫』と書く。別名『埋葬虫』とも。

 都市の暗部には、こうした仕事をする人間が必要だった。

 そして、そのまま彼らは『シデムシ』と呼ばれている。

 身元不明の死体は、葦の原に投げ捨てられる。

 そして、いつの間にか死体は消える。

 こうした仕組みなのだった。


 その葦の原の開けた場所に、焚き火があった。

 江戸の住民で、夜に葦の原に行こうとする者はいない。

 シデムシたちは一種の不可侵民で、その生業から忌避される存在。

 江戸の住民はシデムシたちの領域には入ってこないし、シデムシは江戸の人々の生活圏内に侵入しない。

 商取引は、代理人を通じて行なわれ、互いに目視することもない。

 だから、主に彼らが活動する夜、葦の原に来る人間は、暗黙の決まりを破っていることになる。

 だが、その人物は、気にも留めていないようだった。

 倒木を椅子代わりにして、焚き火に手をかざしている。

 草深 甚吾 だった。


 果たし状が、甚吾の家の玄関前に置いてあった。

 ここ数日、しつこく尾行がついていたのを知っていたが、そいつが置いて行ったのだろう。

 差出人の名は、山田 月之介 とあった。

 やっとか。甚吾はそう思った。

 この男が、その気になるまで、甚吾は待っていたのだ。

 立ち会う気になった。そういうことだろう。

 遠目に見たことはある。はっとするほどの美男子だった。

 剣の腕は立つ。歩き方を見ればわかる。それに、噂も流れてくる。

 だが、足りない。

 草深 甚四郎 が、『まがいもの』として選んだ人物にしては、血の匂いが希薄だった。

 だから待った。

 こちらから仕掛ける事はしなかった。

 月之介は、一度は甚四郎と立ち会う決心をしたはずだ。

 ならば、それなりに牙を研いできたということだろう。

 その時に近い状態で、立ち会わなければならない。

 勝つにせよ、負けるにせよ、錆付いた腕で立ちあえば、後悔が残る。

 それは、互いにとって良い事ではない。


 夜道を、月之介が歩いていた。

 あと一刻ほど(約、二時間)で夜は明ける。

 果たし状は送った。急な事だったが、甚吾は、必ず受ける。

 その確信があった。

 理屈ではない。そう感じたのだ。

 今宵、多くの者を斬った。

 その感触が、まだ手に残っている。

 心は痛まなかった。

 人として大事な何かを、疋田陰流を研ぐうちに無くしてしまったらしい。

 人生を仕切りなおしたい。

 そんな、願望はあった。ずっと、ずっと、心の奥に。

 だから、猫足の三郎や、彦造が寄せてくる、友情や好意がまぶしかった。

 『自分にはそんな価値がない』という思いと、『何もかもを白紙に戻して、新しくやり直したい』という願望が、せめぎ合っていた。

 それに区切りをつけるには、儀式が必要なのだ。

 月之介は、草深 甚四郎 に挑み、殺し合いをするために生かされてきた。

 あの魔人を斬れば自由になれる。また、斬られて果てれば、悩みは消える。

 どっちでもいい。

 かつてはそう思っていた。

 だが、草深 甚四郎 は死んでしまった。

 月之介の思いの行き場がなくなってしまったのだ。

 重圧から解放され、清々としていた 馬庭念流の『まがいもの』通口を思い出す。

 彼の様に、あっさり気持ちを切り替える器用さが、月之介にはなかった。

 夜道を歩く。

 焚き火が見えた。

 いる。草深 甚吾 は来ている。

 月之介は、自分の手を見た。

 震えはない。過度な気負いもない。思考はしんと冷えていた。

 これなら、大丈夫。

 あとは、鍛え上げた疋田陰流を存分に引き出すだけ。

 草深 甚吾 を斬る。

 これが、月之介を切り替える儀式になるはずだ。


 月之介が歩いてくるのが見えた。

 葦の葉の隙間。

 猫足の三郎が潜んでいた。

 草深 甚吾をつけてきたのだが、おそらく尾行はばれている。

 それでもかまわなかった。

 立ち会いに手を出すつもりはないが、この草むらのどこかに誰かが潜んでいる。

 その事が、少しでも月之介に有利に働くならば……と、思っていたのである。

 月之介が立ち止まって、手を見ていた。

 月光に浮かぶ月之介の白い顔が笑みを刻んでいた。

 名工が仕上げを終えた作品を見た時に浮かぶような、そんな笑みだった。

 惹かれていた。

 月之介が抱える孤独に。無邪気な残酷さに。そして、行き場のない慟哭に。

 猫足の三郎 は、誰も信じない。だから、一人働きなのだ。孤独だった。

 なぜ、月之介に惹かれるのかと問われれば、孤独な二つの魂が引きあったのだとしか思いつかない。

 だから、見届ける。自分には、月之介唯一の友人として、事の顛末を見届ける義務があるのだ。

 例え、不安で胸が押しつぶされそうでも。


 視界に月之介が入ってきた。

 近くで見ると、なるほど役者のような美男子だった。

「だいぶ、待たせた」

 挨拶は抜き。月之介はいきなりそんなことを言った。

 決心までの時間を言っているのだろう。

 自分事がよくわかっている。

 過大評価をしない。

 過小評価もしない。

 こういった男が一番手強い。

「いいえ、待つのは苦にならない性分です」

 甚吾の顔が笑みを刻む。

 誰が見ても印象に残る月之介と対照的に、妙に印象の薄い顔だった。

 あるべき場所に、きちん物がおさまっているだけで、個性がないのだ。

 すべてが平均。


「警戒をさせない代わりに、すぐに忘れ去られてしまう男」


 甚吾を見た月之介の感想はこうだった。


「こっちは、ある程度あなたを知っている。疋田陰流の『まがいもの』とかね。公平じゃありませんから、質問があればお答えしますよ」

 そういって、笑みを深くする。

 逆に、月之介の顔から笑みが消えた。

 なまじ美男だけに、凄愴さが増す。

「お前が、斬ったんだな」

 ぼそりと、月之介がつぶやく。

 この男、草深 甚吾 の存在を知って以来、心に引っかかっていた事だ。

「誰を?」

 何を? とは言わない。甚吾もまた剣士なのだ。貼りついたような笑み。否、笑みではない。甚吾は、笑みの形に顔の筋肉を動かしているだけなのだ。

 その顔に、拳を叩き込みたい。そんなことを、月之介は考えていた。

「草深 甚四郎。あの、剣の魔人を、斬ったのはお前だな」

 よく考えたら、あの甚四郎が病死などするわけがないのだ。

 死期が近づいたら、消える。

 死に様など見せるはずがない。

 それに、相伝不可能と言われた『深甚流』だ。

 それを名乗ること自体、不自然。

 だが、『深甚流』の『まがいもの』の育成に、甚四郎が成功したのなら?

 新しい剣の工夫のため、従来の『深甚流』を身に着けた者が必要になり、その素質がある者を見出していたのなら?

 魔人は魔人を生み出していたのかもしれない。

 笑顔のまま、甚吾が言う。

「なかなか、賢いですね。おそらく、あなたの考えは、正解です」

 やはり、甚吾は『深甚流』の『まがいもの』なのだ。

 そして、その『まがいもの』は源流を凌駕した。

「あなたが調べた通り、私の剣は抜刀術。甚四郎は、林崎流のように『勝敗は鞘の内』という発想が出来なかった。それが、許せなかったのでしょうね。彼は『深甚流抜刀術』を生み出して、それがこの世のどの抜刀術より優れていると証明したかったのです。そのうち、自分が工夫した抜刀術が深甚流に通用するか、知りたくなった……」

 甚吾が立ち上がる。

 倒木に立てかけてあった、一刀を差す。

 肩の凝りをほぐすように、首を回した。

 ぽきぽきと骨が鳴る音が聞えた。

「彼は、選りすぐった『まがいもの』の憑代を探したのです。陶芸家が、納得の出来る作品が焼き上がるまで、いくつも試作品を叩き壊すでしょ? それが、私らだった」

 笑みを刻んだまま、甚吾が別の者に代わってゆくようだった。

 わかる。記憶にある。これは、剣に憑かれた甚四郎と同じ気配だった。

 人はこれを狂気と呼ぶ。

「死にました。何人も、何十人も。殺しました。何人も、何十人も。剣の天才が、剣理を生み出すために通った道程を、何人が耐えられるでしょう。結局、生き残ったのは、私だけでしたよ」

 剣に狂った者は、剣士にだけ見える炎を纏うという。

 じわりと、甚吾からにじみ出たのは、ずぶ泥の黒い炎。

「抜刀術は独学で学びました。甚四郎に斬られないためにね。最終的には、甚四郎流の抜刀術と甚吾流の抜刀術の激突という形になりました」

 同じ深甚流同士。同じ天才同士。そしてその天才が各々工夫した剣技で殺し合う。

 甚四郎にとっては、望外の喜びであっただろう。斬られ果てても、満足だったはずだ。

 だが、甚四郎の狂気を受け継がざるを得なかった、甚吾の抱えた闇は深い。あまりにも深い。暗夜を照らす月光すら届かぬほどに。


 『もう、まがいものは要らぬ。全て斬れ』


「それが、甚四郎の遺言です」


 知りたいことは、わかった。

 甚吾が、自分と同じく、甚四郎の呪縛に囚われていることも。


「お互い、斬るしかないようだな」


 焚き火を挟んで、月之介が足場をにじる様にして固める。

 甚吾はわずかに腰を落とし、左手で鍔元を握る。

 次の一歩を踏み出すために、殺し合わなければならない。

 生き残った者だけが、足を踏み出せるのだ。


 相手が抜刀術と知ったからには、一瞬でも気が抜けない。

 月之介が、下向きに抜刀した。

 腕で視界を遮りたくなかったから。

 白みかけた空に、真新しい刀が冴えた光を放つ。

 パチンと焚き火で小枝が爆ぜた。

 月之介がダラリと刀を下げる。『無形の位』。疋田陰流に構え無し。『位』という心のありようがあるだけ。

 どのようにも変化する。融通無碍が『無形の位』の本領だ。

 サラサラと葦が鳴る。

 微風が月之介の頬を撫でた。

 ゆらり、ゆらりと、甚吾の上体が揺れる。

 まるで、微かな風に背をおされたかのように。

 月之介が跳ぶ。

 無意識だった。

 風の音はすぐ耳元。

 漂う様な奇妙な動きからの、甚吾の抜きつけの一撃。

 まるで、見えなかった。だが、躱した。

 はらりと散ったのは、総髪に纏めた月之介の髪の後れ毛。

 甚吾の袴の裾が縦に裂けていた。

 飛び下がりなら月之介は、片手斬りを跳ねあげていた。

 僅かに届かなかったようだ。


 カチリ


 半ばまで納刀してた甚吾が、最後まで刀を鞘に納める。

 そして、また腰をわずかに落とす。これを『居合腰』という。

 いつでも抜刀できる状態が整ったことを示していた。

 

 甚四郎が見込み、自ら手塩にかけただけはある。

 月之介は剣士としての甚吾の技量に素直に感心していた。

 普通なら更に半歩踏み込んでくるところを止めたのは、月之介が脛を狙っているのを理解していたからだろう。

 小細工は通用しない。

 覚悟を決めるしかあるまい。

 

 月之介が半身になる。

 刀は体の陰に。

 そして、左手を甚吾へ突き出したのだ。

 これは島田某が見せた、義経神明流の技法。

 冗談でこんなことをしたわけではない。


 『抜刀術は初太刀を外せ』


 という鉄則に従ったまでだ。


「左手を捨てる。その代り、命を貰う」


 そういう意思を月之介は示したのである。

 じりっと、前に出る。

 餌として、左手は差しだしたが、むざむざ食わる気はない。

 左手を狙った一撃を躱せるなら躱していいのだ。

 そして、それが出来るほどの技量は、月之介にはあった。

 

 甚吾が跳び下がった。

 そして、そっぽを向く。

 深甚流の唯一の構え『うつろ』だった。

 対峙してみて、わかる。

 やりにくいのだ。

 眼の付け所がわからない。

 動きの予想もしにくい。

 甚四郎らしい、性格の悪さがにじみ出た、嫌らしい構えだった。

 

 だが、左手を突きだしている限り、甚吾はこれを無視できない。

 構わず前に出る。

 やはり、左腕を薙ぎ払いに来た。

 確かに、読みにくい相手だが、標的があらかじめ分かっていれば予測は可能だ。

 それがわかった。

 左腕をひっこめる。

 入れ替えに、上段から叩き下ろした片手斬りを送る。

 半身になって、甚吾が躱した。

 振り抜く寸前で、刀を止める。

 無理やり、横薙ぎに軌道を変えた。

 刃筋もくそもない。片手斬りでは、軌道を安定させる筋力が足りない。

 それでも、鉄の塊が当たることになる。

 疋田陰流『龍尾りゅうび』という技だ。本来は両手で遣い、刃筋も立てるのだが、今回は余裕がなかった。

 甚吾が不意打ちの軌道変化である龍尾を潜る様にして躱す。

 そのまま、甚吾が刀を突き上げてきた。

 それを、斜めに打ち落とす。『合撃がっしうち』という疋田陰流の技だ。

 そこから、連続技につなげる余裕は、互いになかった。

 跳び下がる。奇しくも同時に。絡み合った刀が擦れて、火花が散った。

 甚吾が納刀する。その鍔元を握る左手から血が滴っていた。

 『合撃がっしうち』の時に、切先で左手に浅手を負わせていたようだ。

 本来は、手首が切断するほど深く切先が食い込むのだが、そこまで望むのは贅沢というものか。


 甚吾は再び『うつろ』の構えに入る。

 ぽたり、ぽたりと、甚吾の左手から血が落滴していた。

 さすがに、もう甚吾の顔に笑顔はない。

 まるで能面のように表情が抜け落ちていた。

 月之介は左手を餌に、また間合いを詰めはじめた。

 相変らず、うつむいたまま、甚吾が体だけを月之介の方に向き直らせた。

 柄に被せた右手が霞む。

 抜刀。

 同時に月之介も踏み込んでいた。

 距離を殺す。

 抜刀術は『弧』の軌道。

 内側に入りきってしまえば、威力はぐんと減る。

 踏込と突きを同時に行う。曽呂利衆の弓手を討った技。これを、疋田陰流では『大詰おおづめ』という。

 だが、月之介が付きだしたのは、なにも持っていない左手。

 狙ったのは、抜刀の動作に入った瞬間の、甚吾の刀の柄だ。

 抜刀術の起動時、『刀身を鞘から抜く』という動作必ず入る。 

 その時、柄を押さえてしまえば、刀は鞘から抜けない。

 抜けない刀では人は斬れないのだ。

 

 月之介の左手が、甚吾の刀の柄を押さえた。

 抜刀の半ばで、刀身は止まる。

 同時に月之介が右手の刀身を平らに寝かす。『平突ひらつき』という。肋骨などで、切先が滑らないようにするためだ。

 平らに寝かせておけば、肋骨と肋骨の間に刃が滑り込む。


「勝った!」


 固唾をのんで見守っていた、猫足の三郎も、月之介自身もそう思っていた。

 刀の位置をそのまま、甚吾が体を捻る。

 迫りくる『平突ひらつき』を避けようとする動作に見えた。


 だが違った。


 体を捻り、やや腰を後退させ、同時に鞘を引くことで、柄の位置はそのままにスルリと抜刀したのである。

 『引足抜刀ひきあしばっとう』という、甚吾が編み出した技法だった。

 

 紫電が走る。


 一刀を掲げるように持つ、甚吾の姿が見えた。

 何が起こったのか? 月之介の思考が一瞬止まった。

 

 冷たい風が、体の中を通り抜けた。それだけを感じた。


 ああ、そうか。


 私は斬られたのか。


 夜が明ける。


 葦の間から、朝日に煌めく河口が見えた。


 その先は海だ。どこまでも広がる海だ。


 海風に吹かれ、波濤を超えて行く船が見えた様な気がした。


 だが、船に乗ることは出来ないらしい。


 それが実に残念だ。と、月之介は思った。



 何が起きたのか、猫足の三郎 にはわからなかった。

 流れる様な動作で、月之介が甚吾の刀の柄を押さえたのは見えた。

 そのまま、刀を突き入れれば終わりのはずだったのだ。

 だが、甚吾が体を捻ると、どういうわけかするりと刀は抜け、月之介の脇を、彼奴はすり抜けたのだ。

 振り返って、月之介は海を見ていた。

 月之介の顔は、なんだか穏やかで、ひょっとしたら甚吾の攻撃を避けたのかとすら思ったのだが、ぐらりと傾いて、倒れた。

 金臭い匂いがした。

 気が付いたら、噛みしめた歯で唇が破けていた。

 月之介が好きだった。

 たった一人の友人だった。

 一緒に来ないかと言ってくれた。


 ―― 殺す ――


 月之介が立ち会うと決める前に、殺しておけばよかったのだ。

 猫足の三郎 は疾っていた。

 その異名の通り、この葦原にあって、足音一つ立たなかった。

 彼に盗人の技を教えた 風の小太郎 は、隠形の奥義を『風化け』と呼んだ。

 その名の通り、一切の気配を殺して風になりきれと教えたのだった。

 今、猫足の三郎は『風』になっていた。

 跳ぶ。否、それよりも柔らかく、空を舞う。

 匕首を抜いていた。

 それを、甚吾の首に……


 草深 甚吾は、刀に血振りをくれて、ボロ布で血を拭う。

 疋田陰流の『まがいもの』山田 月之介 は、強かった。

 死を覚悟したのは、師であり養い親である 草深 甚四郎 を斬った時以来かもしれない。

 水面で微睡んでいたカルガモが、何に驚いたか一斉に飛び立つ。

 鳥たちの影が、地面に複雑な模様を描いた。

 

 その瞬間、甚吾は片膝をついた。

 同時に抜刀していた。

 背後から、跳びかかってきた男の胴をズンと斬っていた。

 襲撃者は、空中で絶命したのか、物のように地面に落ちて動かなくなった。

 こいつは、ずっと自分を尾行してきた男だ。

 頭の隅に入れていたつもりが、月之介という強敵を倒したことで、気が抜けていたらしい。

 どっと、冷や汗が流れた。

 一瞬……いや、それより短い一刹那でも気が付くのが遅かったら、首筋を裂かれていた。


 呼吸を整え、動揺がおさまるまで、残心をくずせなかった。

 しばらくして、やっと血振りする。

 血刀を新たなボロ布で拭う甚吾の手は、かすかに震えていた。



「お頭、潮目がかわっちまいますぜ」

 佃島。その島影の船の上で、彦造が腕組みをして立っていた。

 月之介と約束した時間は、とうに過ぎている。

 潮流や風の向きを考えると、水夫頭が言うようにそろそろ出港しないとまずい。

 月之介は気まぐれなところがあった。

 だが、大事な約束は守る。江戸を船で離れるのは、彼の希望でもあったのだ。

 それでも、約束の時間に来ない。

 大事な用事がある。

 月之介はそんなことを言っていた。

 その時、ゆらめいたのは、殺気。

 江戸を離れる前に、誰かを斬るつもりだったのだろう。

 来ないということは、斬られて果てたか。

「やろうども、出港だ!」

 長櫂が、舷側から突き出される。

 浅瀬を出るまで、細かい操船が必要だった。

 それまでは、推進力は長櫂。

 沖に出たら、展帆する。

 忙しく水夫が走りだして、出港の準備をするなか、彦造はもう一度だけ陸を見た。

 稀有の剣士、山田 月之介 の姿はない。


 払暁の空を見る。


 月が陽光に霞んで消えるところだった。




 ―― 浮月の章 (了) ――

 



 

 

 

 

 

 

これにて、『剣鬼 巷間にあり』の第一章「浮月の章」終劇であります。

背中を押して下さった、師匠の皆さん。ありがとうございます。

最終話は、気合がはいっちゃって、長くなりすぎましたね。

月之介は死なすには惜しかったかなぁ。

猫足の三郎もけっこう気に入ってました。


初の時代劇ということで、アラは目立ったかもしれません。

ご意見、ご感想など頂けると、第二章以降の参考になります。

よろしければ、ぜひ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ