浅草寺裏手の小屋
月之介が、腰を落とす。
左手は、落とし差にした刀の鍔元を掴んでいた。
鯉口はまだ、切っていない。
「追い払ってみますけど、相手が馬鹿だったら、荒事になりますよ」
何者かが、物陰からこっちを伺っているということか。
彦造は、その気配に全く気が付かなかったのだが、月之介がそう言うのなら、誰かいるのだろう。
懐に手を入れ、革の包みを解く。
中には六本の太い針が並んでいた。そのうちの一本を右手で隠し持ち、提灯を持つ左手に革の包みを握りこんだ。
提灯は、なるべく体から離して持つ。
灯を目印に矢を射かけられることがあるのだ。
彦造の支度と心構えが出来たのを見計らって、月之介が鯉口を切る。
月之介を中心に、すぅっと気温が下がったかのようだった。
恐れを知らない淡輪水軍の男、彦造の背中に悪寒が走った。何度も死線を潜った者だけが身に着ける『死の予感』というやつだ。
月之介がゆっくりと刀を抜く。
銀色の月に、研ぎ澄まされた刀身が冴える。
だらりと右手に刀を下げた姿。これぞ、疋田陰流『無形の位』。
キンキンと音を立てて空気が凍っていくようだった。
豪胆を持って知られる彦造が、無様に歯を鳴らすほど。
月之介は、不意に納刀した。
息苦しいほどの圧力は、その瞬間に霧散していた。
「馬鹿じゃあなかったようだね。逃げたよ」
あれだけの殺気を浴びれば、逃げるだろうよ。そう思いながら、彦造は震える手で、額の汗をぬぐっていた。
月之介と彦造が着いたのは、浅草寺の裏手にある朽ちかけた小屋だった。
外に見張りが二人。
小屋の中にも二人の男がいた。
揃って陽に焼けている。
長年陽光に晒された焼けかた。彼らは彦造と同じ淡輪水軍の残党だった。
豊臣憎しで集まり、徳川の御用商人駿河屋に組している、いわば、駿河屋の裏側専門の部隊の中心が彼らであった。
「お頭、まだ吐きやがりません」
盥の水で、血まみれの手を洗っていた男が、彦造に言う。
相手は裏稼業の口入れ屋だ。多少の拷問では口を割るまい。
「丁度聞きたい事がある。私にやらせてくれまいか? なに、殺さないよ」
拷問を担当していたらしい男は、困った顔をした。
自分たちの首領である彦造が、月之介を気に入っているのを知っているので、無碍にも断れないのだ。
彦造がうなづく。
月之介にやらせてみるのも面白い。そう思ったのだった。
男が月之介に道を譲った。
拷問用に作られた部屋は、引き戸の向こうにある階段を降りた、地下にあった。
濃厚な血の匂い。
べったりと、恐怖と苦痛が張り付いたような部屋。
柱に男が一人、縛りつけられていた。
髷はざんばらに解けて乱れ、片目は腫れ上がって殆どつぶれていた。
鼻は曲がっていて、血が鼻孔からダラダラと流れている。
唇は割れ、歯が何本か抜け落ちていた。
さんざん殴られたのだろう。
それでも、男の眼には怒りがあり、心が折れていないのが月之介には判った。
「やあ、私は 山田 月之介 という。君は、人脈が広いんだってね。小名木川沿いの集落で、剣術道場を開いている 草深 甚吾 っいう剣術使いを知ってるかい?」
男の割れた唇が笑みの形に歪む。
どろりとした血と涎の混合物が、彼の顎から地面に滴る。
「何も、しゃべらないよ。何もね」
月之介は、この部屋にあった手ぬぐいを右手に巻きつける作業をしながら、
「だろうね。しゃべったら、殺されてしまうものね」
と、答えた。ヒラリと笑いながら。拷問されていた口入れ屋が、一瞬見惚れてしまうほど、爽やかな笑顔だった。
「だから、壊すよ。どうでもいい……そう、思うまでね」
月之介が殴る。手ぬぐいを巻いた手で。
まるで、子供を叱る時の様に軽く小突く程度に。
「なんだそりゃ、痛くもかゆくもないぜ」
口入れ屋がせせら笑う。
それに構わず、月之介は再び殴った。
無言のまま。
同じ間隔で。
コツン・コツン・コツン・コツン・コツン・コツン・コツン・コツン……
小突かれる度、男の頭は揺れた。
月之介は、殴りながら男の腫れ上がった眼を覗き込んでいた。
眼の奥にある、光を見ていたのである。
コツン・コツン・コツン・コツン・コツン・コツン・コツン・コツン……
繰り返す。
何度も何度も何度も何度も何度も何度も。
何も問わない。
無表情のまま殴り続ける。
コツン・コツン・コツン・コツン・コツン・コツン・コツン・コツン……
痣一つできないような、殴り方だ。
だが、打たれた衝撃は蓄積してゆく。
脳は揺すられ続けているのだ。
男の顔から血の気が引いた。
コツン・コツン・コツン・コツン・コツン・コツン・コツン・コツン……




