閑話 sideマリア 愛しのエリー 前編
「きゅんかわ」
二歳になったマリア・テレゼアは、その存在が視界に入ると思わず呟いた。
マリアは待ち遠しかった母の帰宅とともに、抱かれた小さな赤ちゃんに目を輝かせた。
お腹にいる赤ちゃんのせいでしばらく会えなくて、母の帰宅を今か今かと待っていたのに、母の腕に抱かれた存在が気になって仕方がない。
窓から差し込む光が眩しいものであるかのように照らし、やたらと心地よい空気が流れているように視界がいっきに開ける。
「マリア。いらっしゃい」
「はい。かあしゃま」
その様子を優しげな眼差しで見ていた母が、目が合うとにっこりと笑顔を浮かべた。
久しぶりでドキドキしながら、とことこと歩み寄る。
目線を合わせるように屈みこんだ母が、よしよしと髪を撫で梳いてくれる。
マリアはえへへっと母に甘えるように擦り寄り、その際に赤ちゃんの匂いも思いっきり吸い込んだ。
ふかふかとミルクの匂いが漂い、たまらなくなって顔をさらに近づける。
すー、すんすん。
なんて、素敵な匂い。
母に会えず寂しかったこと、赤ちゃんに嫉妬していたことも忘れて、ほこほこする気持ちのまま嗅いでいたら、母の笑う声に正気に戻りマリアは顔を上げた。
眠りながら母に甘えるようにおっぱいに添えられた小さな手が視界に入る。
これが尊いというものなのか。
普段、使用人たちに言われ慣れている言葉に、初めて実感を持った。
尊いって素晴らしい。
見ているだけで、匂いを感じられるだけで、こんなにも気持ちがふわふわするんだもの。
「わぁー。おててちっちゃいねぇ」
その手がマリアの声を聞くとぴくっと動く。
もにゅもにゅと口が動き眉がむむっと寄ったので、声が大きかったかとはっと口に手を当てた。
「今まで寂しい思いをさせてごめんね。この子があなたの妹になるエリザベスよ」
「エリザベシュ?」
「そう。エリーって呼んであげたらいいわ」
母は楽しそうに笑いながら、先ほどより念入りにマリアの頭を撫でた。マリアは幸せな気持ちになった。
「エリー……。わたしのいもうと」
「そうよ。まだ髪は少ないけれど、マリアとお揃いの色ね」
「おそろい」
一緒がこんなに嬉しいと思ったことは初めてだ。
「可愛い?」
「うん。かわいぃ。あっ、おきた。おめめのいろむらしゃき! とおしゃまといっしょ。きれいねぇ」
「そうね。マリアの色も素敵だけど、エリーの色も素敵ね。二人とも私たちの可愛い天使よ」
ずっと嬉しそうな母は、マリアと赤ん坊のエリザベスを優しく抱きしめる。
「あぅー」
マリアの髪がくすぐったかったのか、小さな手がマリアに向かって伸ばされる。
吸い寄せられるようにマリアも手を伸ばしたら、きゅっと自分の指を掴んできた。
触られたそれは目で見ているよりもさらに小さくて柔らかくて細くて、マリアは衝撃を受ける。
ピカッと雷撃が背筋に走るくらいの、目が覚めるどころではなく死して新たな境地を開くくらいのものだった。
言葉ではわかっていた。姉になるということは、下の子の面倒を見てあげるということだと教えられていた。
いい子のマリアは妹を可愛がるのは当然だとは思っていたが、それは自分がそうしたいからではなく、そうすると周囲が認めてくれるからという気持ちのほうが大きかった。
マリアはテレゼア公爵家のお姫様としてとっても可愛がられていた。
周囲の両親や自分への態度から、子供ながらに両親の美貌を受け継がれている自分はとても可愛がられるべき存在なのだとわかっていた。
両親はたくさんの人に敬われ、その一人娘であるマリアは宝物のように扱われた。
すぐに母のお腹が大きくなっても構ってもらえることが減ってしまい寂しい気持ちはあったけど、その分、周囲にも可愛がられて、マリアは自分は無敵なのだと思っていた。
だから、妹ができても、長女である自分の存在は絶対的だと思っていた。見てあげないとと、どこか仕方がないなという気持ちだった。
だけど、びっくりするほど小さくて温かな手が自分の指をきゅっと掴んだこの日から、マリアの中で妹がすべてになった。
* * *
可愛い可愛い妹に初見で指を掴まれてからというもの、マリアはエリザベスにべったりだった。
日に日に自分が守らなければならないと使命感に燃え、それに応えるようにマリアがエリザベスに構うと妹はきゃっきゃと嬉しそうに笑うものだから、愛しさが増していく。
どこもかしこも可愛くて、寝返りをしようとして失敗して泣いている姿を見た時は、興奮して鼻血が出てしまうほどエリザベスを愛していた。
「マリアお嬢様。それは私がしますから」
「いやよ。エリーのせわはわたしがする。そのぷるんとしたおしりがみたいの」
「おしりですか?」
「そうよ。みてみて。かじりつきたいくらいかわいいおしり。かじってもいいかしら?」
「泣かれると思いますよ」
綺麗に拭かれたおしりはかぶれもなく、つるん、ぷるんとしていて、無防備に晒されている。
「ないても、かわいいよ」
「可愛いですけど、それはやめておきましょう」
なぜ反対するのか、こんなに可愛いのにと、わからずこてんと首を傾げると、メイドはふるふると首を振った。
それでもねだってみるけれど、おしりを囓るのは絶対ダメだと言われマリアはしぶしぶ諦める。
メイドに手伝ってもらいながらエリザベスのおむつを替えた。
足を上げた時のおしりの魅力に未練はあるが、メイドが目を光らせているので仕方がない。
「できたぁ」
マリアは布に包まれていくおしりを残念に思いながら、自分が妹の大事なおしりを上手に包めたことに歓喜した。
小さな手ではまだ難しく手伝ってもらいながらだったが、ミルクを飲んでオムツも替えすっきりしたエリザベスはうとうととしだした。
「ふふっ。はやくエリーとおしゃべりしたいなぁ」
手を洗い、再びエリザベスのベッドに近づく。
マリアはうっとりと妹を眺めながら、ぷにぷにの頬を起こさないように優しく突いた。
可愛い可愛いエリザベスが発する初めての言葉は『ねぇね』がいいと、妹の耳元で「ねぇね」「ねぇね」と呪文のように唱える。
マリアの世界はエリザベスありきで回っていた。
エリザベスを危険から守るためだと、まだ早いと言われたが魔力操作の勉強も説得して習えるようにしてもらった。
小さくて理解が難しく簡単ではなかったけれど、つらくて会えない時間もエリザベスを思うと頑張れた。
そうやってエリザベスのためがいくつも積み重なり、マリアはもともとあった能力と魅力を底上げした。
テレゼア公爵家では、麗しき天使たちの仲の良い姿は名物であった。
長女のマリアは、可愛さだけでなく才女として知れ渡るのもあっという間で、妹を大切にする姿を見た周囲に慈愛の姫と呼ばれるようになる。
お友達と遊ぶよりはエリザベスといたいと、空いた時間は常に妹がお昼寝していてもお構いなしにマリアは突撃する。
起きていたら遊び、寝ていたらその姿を幸せそうに眺める様子に、幼さも相まって両親や使用人は微笑ましく見守る。
エリザベスのオムツが外れるのをマリアが喜ぶどころか惜しむのを見て少し胸がざわついたが、可愛らしい二人の姿にほっこりしていた。
「エリィィー。そこ、だんさがあるから。だっこしてあげる」
「ねぇねー」
エリザベスがハイハイからよちよち歩きになっても、マリアは相変わらずべったりだった。
エリザベスが五歩進んだら抱き上げて、少しでも段差があると抱き上げてと過保護ぶりを発揮しだした。
しっかりと初めての言葉は『ねぇね』と呼ばせたマリアは、満足げに微笑む。
「マリアお嬢様は、エリザベスお嬢様のことが本当に好きなんですね」
「ちがうよ。すきじゃなくて、あいしてる」
「……それは熱烈ですね」
メイドはぽかんと口を開け、ふふっと優しげに笑う。
マリアは当然でしょと胸を張った。
「そうよ。エリーはわたしがまもるの」
「そうですか。エリザベスお嬢様はマリア様という心強い味方がおられるのですね」
「うん。ぜったいぜったい、エリーはしあわせにならなくちゃならないの」
「そうですね。そしてマリアお嬢様も幸せになってください」
「エリーがしあわせならしあわせなの」
歩きだしのころはエリザベスも疲れたときはマリアに甘えていたが、体力もついてくるとそうはいかない。
活発な次女は自分でできることも増えてくると、自分の足で小さな世界を冒険したがった。
マリアは気が気ではなかった。
すぐに手を貸そうと、危ないからと制限することをエリザベスは嫌がり、少しでも早く歩いてマリアを捲こうとあっという間に歩くのが上達してしまいマリアを悲しませた。
公爵家では小さなよちよち歩きの妹の後ろに、常にやきもきしながらついて世話をやきたがる姉の姿が名物となった。
今でも使用人たちは思う。
シスコンであるマリアお嬢様が幼い時からずっと付いて回ったから、もともとの気質もあるだろうけどエリザベスお嬢様は活動的な性格になったのではないかと。
始めはにこにこしていた公爵夫人も、エリザベスお嬢様が走り回れるようになってからは、静かな雷を鳴り響かせるようになってしまった。
やっぱり、ほどほどって大事だなぁっと思ったが後の祭り。
ついテレゼア公爵家の美貌に騙されてお嬢様方に対して緩かった面もあるかと、使用人たちはちょっぴりだけ反省した。
基本、主人たちが大好きなので、彼らが幸せそうならなんでもいいのである。
周囲のそんなちょっぴりの反省などお構いなしに、すくすくと美人姉妹は成長した。
成長とともにマリアのエリザベスへの構い方は変わってきた。
美味しいお菓子を仕入れては食べさせたり、髪を結んだり、お揃いの服を着たがったりと、それはもう溺愛がすぎるくらいの妹愛が炸裂していた。
「エリー」
「ねぇね、もう、いや」
あれやこれやと着せ替え人形のようにドレスを着せられていたエリザベスが、とうとう音を上げた。
「でもね。これ可愛いと思うわ」
「でも、いや」
ぶんぶんと首を振るエリザベスに、マリアはへにょりと眉を下げる。
「ね、これだけでもつけさせて。わたしとおそろい。エリーに似合うと思って選んだの。つけてくれないと悲しいわ」
「………………ん。しょれだけ」
どちらの主張が通るのかとメイドたちが見守っていたが、なんとエリザベス様が空気を読んだ。
「もう、エリーはなんて可愛いのかしら。わたしのエンジェル。ほら、こっちに来て。ここをこうして、くるんとして、はいできたわ」
「ねぇね、じょうず?」
「上手にできたよ。ほら、わたしとおそろい」
「おそろい?」
「そう。おそろい。とっても可愛いわ」
「ねぇね、もかわいい」
「ふふふっ。ほら、やっぱり似合ってる。今日はそれをつけててね」
「ねぇね、いつもあんがとー」
しっかりお礼を伝える良い子。
姉の過保護ぶりに甘えて傲慢な子になってしまうのではないかと危惧していたが、感謝を忘れないなんてと使用人一同うるうると感動する。
うん。天使だ。この公爵家に降り立った美しきマリア様はもちろんのこと、姉の愛情にちゃんと応えるエリザベス様も天使。
使用人一同、宗教画でも見ているかのように、姉妹をうっとりと見つめた。
マリアの愛情表現は両親も苦笑するくらい年々激していたが、周囲は一時的なものと捉えていた。
ちょっと困ったわねぇくらいで、むしろ仲が良くて微笑ましいくらいのものと受け止めていた。
成長とともに学ばなければならないことが増えるため、いつまでもべったり一緒にはいられないので、今だけだろうと誰もが思い見守っていた。
時がくるまで、このままただただた微笑ましいだけの眼福の光景が続けられていくのだろうと思われていたが、マリアが七歳の時とき、エリザベスが五歳の時にそれは起こった。




