23.魔の十六歳の壁
春の穏やかな陽気の中、羽ばたくたびに金粉を巻く蝶を追いかける。それだけしか頭になく、ただ気持ちよくて、気づいたら空に浮かんでいた。
驚いたけれど、そんなものかとそのまま舞う。
ふわふわ、ふわふわ、と己も蝶も進みたいまま進んでいた。
蝶がひらひらと私の周りを気まぐれに飛んだので、触れようとしてそこで違和感に気づいた。
己の右手が縫い止められているかのように動かない。
だけど、とってもぽかぽかと温かい。
その温もりに気づくと、誰かが己の名を呼んでいる声がした。さっきまで無音だったのが嘘みたいに、はっきりと鼓膜を震わす。
『エリー。エリザベス……』
切実で、己の名前なのにそれ以上の価値があるかのような重みとともに名を紡がれる。
『……一人で遠くに行かないで』
苦しげな吐息とともに、ささやかれた言葉が胸に落ちる。
そこから、ぐるぐると景色が変わって日本人だった時の風景を上映されているのを見るように眺め、懐かしい人たちの姿を遠目に確認した。
幼い自分が母の足元にべったり張り付く場面や、高校の制服を着た友人と話す場面。時系列や場所はバラバラながら過去を振り返る。
最後は棺に入った自分を見て泣く両親と友人の姿。
──ああ、やはり死んだんだ。悲しませてしまったんだ……。ごめん。
わかっていたけれどどこかその部分はふわふわしていて、現実味がなかったものを突きつけられて悲しみに目を伏せると、今度は転生してからの思い出が一気に溢れかえった。
そこで、日本人のエリではなくエリザベスであることが形作られていく。
何度も、何度も繰り返し、多くの人と出会い、大事な人たちが私に笑いかける。
『エリー』
ああ、そうだ。この声はルイだ。
その声を皮切りに、様々な声が『エリー、エリザベス様、リズ嬢』と自分を呼び、私はその度に笑顔を返した。
◇
ふ、と意識が浮上した。
懐かしい夢を見ていた気がするけれど、何だったかはさっぱり思い出せない。
ぼんやりと瞼を開けてまず視界に入ったのは白い天井。どこで何をしていたのかと鈍い頭を動かし、窓から入る緩やかな風を意識した。
ああ、そうだ拉致されたんだ。
それで闇の者と対峙して、王子たちが助けにきてくれて、黒包帯たちが逃げてそれから……、気を失った? のかな。
「今、何時かな?」
外はまだ暗く、あれからそんなに時間が経っていないと思うのだけど、身体がいつにも増して怠い。
時計を確認すると、日付は跨いでいたが思ったよりは時間が経っていなかった。
一通り部屋を見渡し、まず思ったのが寮にある自分の部屋ではないということだった。
すぅっと息を吸うと、かすかに薬品の匂いがする。学園の保健室かもしれない。
ベッドの横に置かれた椅子やベッドの周囲に引かれたカーテンが三分の一ほど開かれていることで人が出入りしていた気配は感じるが、今は誰もいないようだ。
物憂げだったものが、その気配を感じることで少し浮上した。小さく首を傾げると、私の柔らかなピンクの髪が枕の上でさらさらと動く。
窓の外を眺めると、月の光がぼやけるように闇の中に浮かんでいる。
己の両手を見つめた。
薬品を扱っているにしては、爪の先まで手入れされた滑らかな手。肌を荒れさせたら周囲に趣味をやめさせられる可能性もでてくるので、私にとって死活問題だ。
今度はひっくり返して手の平を眺める。
「いつも通り」
小さくなっているとかでもなく、見慣れた手の大きさだ。
心なしか、右手だけがいつもより温かい気がする。ぐぅー、ぱー、と手を開いたり閉じたりして私はふっと笑った。
次に首に手を当てて、脈を測る。
「生きてる……」
さっきから動いて喋っているのだから当然なのだが、とくとくと動く脈でようやく実感した。
ぽつりと呟いたそれは静な部屋に響き、じわじわと歓喜と安堵が身の内を占めていく。
拉致されたあの状況は夢ではない。
その証拠に手は擦過傷の痕がうっすらと残っている。足首も痛くないし、首も痛くない。痛みが取れるまでの治癒を施してくれたのだろう。
ふと、魔法を当たり前に受け入れている自分に違和感を覚える。そして、違和感を覚えた自分にまた違和感を覚える。
何度転生しても、仮もののように感じていたからか日本人だった頃のことが抜けきれていない。
でも、そこから進むことを決めたのだ。
今は、十六歳を超えたことを喜ぶべき。生きているということは、ひとまず難関を越えたとういこと。
「そっか。乗り越えたんだ」
首を触っている右手から安堵に似た温もりが流れているようで、ふふっと私は笑った。
まだ問題は山積みだけど、今だけは難しいことは考えないでいいやという気分になる。
指先で脈を感じながら次から次へと笑いがこみ上げてクスクス笑っていると、バタンと扉が開いたと同時に名を叫ばれ抱き締められた。
「エリーィィィィッ。起きたのね」
「マリア姉様」
「心配したわ」
ぎゅうぎゅうと抱き締められ苦しさに抗議しようとしたけれど、その腕が震えているのでしばらく我慢する。
「心配、おかけしました。マリア姉様は大丈夫ですか?」
「ええ。私は大丈夫よ。ああ、エリー」
感極まったようにすぅはぁと私の首に鼻を押し付けて匂いを嗅ぎ出す。
さらにぎゅうっと力を入れられて、私はギブだと姉の腕を叩いた。
「く、くるし、いです」
「まぁっ! エリー、ごめんなさい。少しでも早く生きて動いている可愛いあなたを確かめたくて」
がばりと腕を解いたが、今度は私の手を片方の手で握り、もう一方の手は咳き込んで苦しむ背中へと当てた。
ゆっくりとさすられて、私は溜まっていた息を吐き出す。
「ケホッ。……はぁっ、コホッ」
「エリー、ごめんね。そんなつもりはないのだけど、つい」
ええ、知ってます。マリア姉様はつい妹に構いすぎるんですよね。
ええ。ええ。つい愛情過多でやり過ぎるんですよね。知ってますとも。
「いえ、苦しかったですがなんとか。一瞬、川の向こう側でお祖母様が手を振っておいでになるのが見えたぐらいで」
若干、焦点の定まらない私に、マリアが顔を青くしたかと思えば今度は頬を上気させ怒り出した。
「キャアーッ! とんでもないわ! もうっ、可愛いエリーを呼ぶなんて、お祖母様は困ったものね」
「呼ばれたというか……。懐かしかったです」
錯覚かもしれないが大好きな故人に会えてふふっと笑うと、マリアが唇を尖らせてじとりと睨んでくる。
「もうっ、エリーったら。いつもエリーはお祖母様を前にするとすぐにこにこと笑っていたものね。そんなエリーも可愛かったですけど、お祖母様の話にちょろすぎなくらい笑顔を見せていたわね。最後はあれでしたけど、あちらでゆっくりしているはずなのに、私のエリーを呼ぼうなんて百年早いわ」
いや、長寿を目指していても百歳越えとかまではさすがに考えていない。
しかも、亡くなった祖母と張り合うのはやめてもらいたい。母方の亡き祖母と姉は、似た者同士なので、よく私を挟んでぎゃいぎゃいと言い合っていた。
あと、ちょろいとは聞き捨てならない。
「そもそもマリア姉様の腕が力強かったからでは?」
喉をさすりながらじとっと睨むと、マリアはしゅんっと落ち込んだ。
ちらりと上目遣いで私を見ては、またしゅんっと下を向く。それを何度か繰り返し、ぽそりと呟やいた。
「ごめんなさいね。エリー許して」
「わかりました。こちらこそ心配おかけしました。治療もしていただいたのでもう大丈夫です」
過度な反応だけど、根底に私への愛があるのを身を持って知っているので、落ち込んだ姉を見ると最後まで怒れない。
マリアの顔を覗くと痛ましそうな表情が返ってきたので、私はふわりと微笑んだ。握られていた手の上から、もう片方の手を優しく重ねる。
「エリーが無事でよかったわ。あの包帯男たち、今度会ったらコテンパンにしてやるわ。黒い包帯って粋ってるのかしらね? 緊急事態でなかったら大笑いしていたわ」
「確かに。インパクト強いですよね」
「それが狙いなのかしらね。もちろん正体を隠すということが一番の目的でしょうけど、きっと細かなことに目がいかないようにするためね。でないと、あれでは返って目立ってしまうもの。それにあの男に取り巻いた黒いもの、現在取り調べが行われているところだけど、見たこともない力が働いていたとしか思えないわ」
「得体が知れなかったです」
この世界にそういう設定があるのかは知らないがゲーム設定では闇がつきものだし、相手の男の力を目の当たりにして闇の力だろうとほぼ確信しているけれど、その辺は調べているというし安易に口にするものではないだろう。
黒い包帯といい、暗いものを抱えていそうだ。
あの時の恐怖を思い出し身震いすると、マリアが悔しそうに唇を引き結んだ。
ゆっくりと瞼を閉じ、一度手を離して改めて両手で私の手を包み込むと懺悔するように頭を下げた。
「あんなことになるなんて思ってもみなかったわ。もともとは私が誘ったから……」
深い後悔の念を含んだ声音に、私はゆっくりと首を振る。
「いえ。最終的についていくことを決めたのは私です。まさか、あのようなことに巻き込まれるなんて誰も想像できません。それに先方は私のことをターゲットにしていたようですし、遅かれ早かれああなっていた可能性のほうが高いですから、むしろ私が姉様を巻き込んだと言えるかと。ごめんなさい」
あの時も思ったこと。それと同時に、どれだけ姉の存在に励まされたか。
「何を言ってるの! 私の可愛いエリーをターゲットにするほうが悪いに決まっています」
「そうですよね。なら、姉様も謝らないでください。姉様がずっとそばにいてくれて心強かったです。ありがとう」
互いに大事だから申し訳なさはどうしても抱えてしまうけれど、責任の追及をしても仕方がない。
大きな怪我もせずに無事であることを喜ぶべきだ。
「ええ。そうね。エリーのすべすべな手をこうして握れていることに喜ぶべきよね」
私の髪を親指と人差し指でするりと質感を楽しむように触り毛先をくるりとカールさせながら離すと、頬を撫で肌の状態を確認しだした。
なでなで、ぶにぶにと何度も指を動かし感触を確認する。
「この感触をいつまでも触っていたいわ。でも、今夜はゆっくり休んで、朝に体調に問題がなければ予定通りにお母様とお父様に会いに行きましょうね。とても心配しているわ」
「はい。そうします」
変態じみたようにわきわきと指を動かし、マリアの瞳がらんらんと輝く。
私を着飾る気満々の姿に覚悟する。
それから惜しみながら帰っていったマリアを見送り朝を迎え、再度マリアの訪問を受け王都にある屋敷に帰る準備をしていた。
侍女のペイズリーも昨夜のことで落ち込んでいたので、張り切る要素があったほうがいいだろうと普段なら口出しするところを言われるまま動く。
一通り満足する指示を出し終えたマリアは、ふぅっと満足気に息を吐き出し私を見る。
途端、ぐっと鋭くなった視線に今度は何だ構える。
「エリー安心してね。どんなエリーも可愛いけれど、今日はさらに可愛くしましょうね。あとは昨夜の者たちですが、骨格覚えましたから次に見つけたら逃さないわ。あの包帯の下を絶対拝んで、なんならエリーは落書きでもしたらいいわ。エリーを苦しめた罰は受けるべきよね」
「こっ、骨格?」
骨格を覚えるって何? あと、顔拝むのはいいが落書きしたいとは思わない。
おほほほっとばかりに告げられる内容に、一瞬にして気が抜ける。
「ええ。授業でいろいろ習うのよ。そのうち見ただけで身長はもちろんのこと、筋肉量だとか、本人さえ気づいていない癖だとかも自然と知ることができるようになったわ。隠しソール履いているか大体わかるわよ。細身のほうは絶対履いていたもの。今思い出しても腹が立つわ、あの男」
「……ああ~、そうなんですね」
「そうそう。だから、途中までちょっと笑いそうになってたのよね。そんな男にエリーを傷つけられたなんて、絶対、次は靴を脱がして笑いものにしてやるわ」
「ははっ」
相手は敵なのだけど、隠しソールを暴かれるのはなんというかちょっと可哀想……。
コンプレックスだから人には言えずひっそり隠しているわけで。そんなピンポイントに誰にも知られたくない秘密を暴かれるなんて地味に傷つき引きずりそうだ。
たとえ、本人の目的が叶ったとしても、負けた気分になるのではないだろうか。そんなことしたら一生の汚点として残りそう。
マリアはそうなるように、あえてそういうところを狙っているのだろうけど。
「ほかにも重心のかけ方とかからもわかるわよ。どんな情報でも知っておいて損はないから、エリーには私がいろいろ教えてあげるから習得しましょうね。まず、昨日のおしゃべりな大きな男のほうは若干左に重心を置いていたから、右足に傷を抱えていると思うわ。多分古傷ね。無意識にかばっていたから。細身のほうは緊張したり考えたりすると親指を動かす癖があるわね」
「あの緊急時によく見てましたね」
「緊急時だからこそよ。緑保持者は攻撃に向いていないでしょう? 守ってもらってばかりの受身もつまらないし、自分でも動けるにこしたことはないわ」
確かに相手の情報を素早く知ることは大事だ。知って損はない。
治癒する時も、姉が言うように攻撃する時も。女性は力では敵わない分、そういったところで不意を突いて隙を狙わないといけない。
「考えたくはないですけど、命を狙われることがあった場合抵抗虚しくあっさりと殺られる確率は高いですよね。戦いが起こった時に癒やしの者を先にと考える卑劣な戦法を取られることもあるかもしれませんし、絶対安全な状態はないです」
「そうなのよね。だから、いろいろ考えて試してみたのよ。人体に詳しい私たちは、治癒を施す時に悪いところを手早く見つけるのに長けているから。私の場合は何度か繰り返すうちについでに弱点を見抜けるようになったわ。今の所、その弱点を攻撃したことはないのだけど」
「当然です」
治癒してもらって感謝していたら、知らない間に弱点も知られているとか普通に考えるとかなり怖いことではないだろうか。
聖女さま~って陶酔していたのに、一つ道をそれたら己の命を脅かす存在になっているのだ。
知らぬが仏。
すっかりマリアのことに慣れている、ついでに言えば私の奇行にも慣れているペイズリーでさえも、その言葉に若干引きつった顔をしていた。
ペイズリーと視線を合わせ、そっと同時に逸らす。
ちなみにマリアの侍女は誇らしげににこにこしている。やっぱり長く一緒にいると性格は似てくるのかもしれない。
見て見ぬ振りも時には大事。触らぬ神に祟りなし。
マリアは私たちが発言に引いていることなど気にもせず、高々と宣言した。
「だから、覚えようと思ったら数ミリ単位でその者のことを記憶できるわ。細身男は成長途中の可能性があるから確実ではないけれど、大きい男は絶対に今度会ったらわかるわ。セットで現れてくれたら逃さないわ。だから、あの鼻っ柱は絶対物理的にも折らないとね。顔の中央って目立つでしょ? 捕まえてもそこは残して置いてと殿下たちにもすでに言ってあるわ」
「…………」
なにか、さらっと怖いこと言っているような気が……。
いやいや、いくらたまに私のことで過激だと言っても、そんな怖い特技とか物理攻撃宣言とか。
いろいろ突っ込みどころがありすぎるが、これを冗談にするのも深く掘り下げるのも危険なくらいマリアが真剣だ。
そんな姉だが言い切ってすっきりしたのか、今度はとろりと琥珀色の瞳を蕩かせた。
空気が変わり、目を瞬かせる。
「エリー、お誕生日おめでとう」
「ありがとうございます」
自分自身のことのように嬉しそうにふんわりと微笑むマリアに、私もつられるように笑う。
「プレゼントはもちろん後でね。いろいろあったけど、エリーと無事一緒に十六歳を迎えられて嬉しいわ」
「マリア姉様……」
「ずっとエリーは私の可愛い妹よ。これから何があってもエリーが大変な時は必ず駆けつけるから、心配しないで。それと、これからもエリーに変な虫はつかせませんからね。虫ではなくてもそう簡単にエリーは渡しません。エリーはこれからも遠慮せずに好きなことをやって美しくなっていく姿を私に見せて。デビュタントの時は私にエリーを飾らせてね、絶対よ」
散りばめられる言葉の意味に含むものがあるようにも思えるが、マリアらしい祝福の言葉に私は笑った。
「今からデビュタントの話ですか?」
「そうよ! 残念ながらエスコートは男性って決まっているから、大事なイベントを私色に染めたっていいじゃない。ああ、そういえば、ルイ殿下から言付けがあったの。二人で話したいから屋敷までの道のりをエスコートさせてほしいと」
「ルイが?」
ついでのように言ったが、絶対わざとだ。
マリアもルイと仲は良いが、ちょっぴり試すような意地悪をルイにすることがある。
そのほとんどは私が関わる時なので、今日も自分の言いたいことを言うまでは、ほかのことを考えてほしくなくて今なのだ。
相変わらず、姉の愛が重い。
「ええ。男性が朝の忙しい女性のところに押しかけるわけにはいかないですからね。私の行動を予測して言付けを頼まれたの。なので、特別に許可を出しました。私は別の馬車で先に屋敷に戻っているから、エリーはルイ殿下と一緒に帰ってきなさいね」
「いいんですか?」
いつもならルイの行動の邪魔をするところだが、マリアに思うことがあるのか仕方がないと肩を竦めた。
「ええ。すっごく心配していたのを知っていますからね。昨夜ギリギリだったけど駆けつけたことは及第点です。同じくエリーを思う者として今回は仕方がないわ。エリーもルイ殿下と話をしたいでしょう?」
「はい」
昨夜、できる限りずっと付いていてくれたと聞いている。
そして、自分はルイの姿を見て怖かったとぽろぽろと泣き、弱い部分を見せた上で意識を失ったので、ものすごく心配してくれているであろう王子たち、特に長い付き合いのあるルイとはちゃんと話したかった。
無事生還して、ずっと考えていたこと。
ちらりと姉を見ると、マリアが誇りやかに笑った。
「マリア姉様、大好きです!」
感謝の言葉ではなく、気づけばそう口にしていた。
マリアが驚いたように目を見開き、くしゃりと泣き笑いのように顔を崩す。
続いていつものように抱擁を受けたが、マリアが顔を隠すように埋めた胸元が濡れたことには気づかない振りをした。




