sideシモン 幼き心
柔らかな髪が指に優しく絡み、つるりと撫でるように落ちていく。
少年だったシモンはその感触に、いつもは一定の温度しか保たない水色の瞳をゆらりと揺らめかせた。
愛称がエリーということは、名はエレノア、エレン、アリス……、エリザベス……か。
少女らしくふわふわとした雰囲気。紫の瞳は光を帯びて透き通り宝石でも見ているようで、何よりピンクの髪は印象的だ。
そこで、五大貴族の一つであり建国から王族とも深い関係のあるテレゼア公爵家の女性がピンクの髪で次女がエリザベスという名前であったことを思い出し、シモンは改めて少女の姿を眺めた。
全体的に柔らかで可愛らしく先ほどは衝撃的すぎて意識がいかなかったが、よくよく見ると身につけた一つひとつの物は決して安価なものではなく手入れがいき届いている。
テレゼア家長女のマリアの話はよく耳にした。
幼き頃から美少女で知己。成長とともにその美貌に磨きもかかっており、シモンも彼女を目にしたことが何度かある。
それとは反対に、妹の話はついでのようにしか語られない。
悪い噂は聞かないが平凡。姉が目立ちすぎて、エリザベスのことに焦点が当たることはなく情報は少ない。
「天使くん……?」
無意識に艶やかな彼女の髪を触っていると、戸惑うように少女が見上げてくる。
「ああ、ごめん」
シモンは謝罪を述べながらも、また彼女の髪を触った。
触れると気持ちが落ち着くようで、なかなか手を引っ込める気が起きない。癒やされた痛みの後、むずむずと高揚する肌が彼女に触れることを求めるようだ。
──もっと彼女のことを知りたい。
可愛らしい少女。だけど、さっきの出来事はそれを吹っ飛ばすほど印象的。
魔力量も技術もだが言動そのものが令嬢らしくなく、彼女のその意味がわからない思考が羨ましいとさえ感じ、全力投球で物事に向かっている姿は好ましく映る。
模範であるべき行動を物心ついた頃から常に心がけていたシモンにとって、破天荒とも呼べる言動をする彼女の存在はよくも悪くも己の内なるものを刺激する。
いつか交える時が来るまでは身分など関係なく、ただの少年少女としてここにいる。
まだ少年で心が未成熟なシモンにとって、その関係や秘密は甘い果実のように魅惑的なものに映った。
決して、誰にも知られることのない二人だけの思い出。
エリザベスといると、彼女のその言動をそばで見ていたい気持ちが増していく。
そこでシモンは、もしかしてテレゼア家は彼女の意思を汲んで敢えて情報を流さないようにしているのではないかと、ふと思い至った。
氷の外相と呼ばれるテレゼア公爵も、テレゼア家長女も、エリザベスをとても可愛がっていることは知られているが、具体的な話は聞いたことがない。
特に姉の妹溺愛の話は有名で、それ自体がマリアの株を上げ美談として語られているが、本当のところはエリザベスを隠すためにその噂さえも利用しているのではないだろうか。
どちらにしろ長女の次女への愛は深そうだが、実際のエリザベスを見ればわからないでもないなと思うシモンであった。
「えっと、本当にごめんね」
「こちらこそ隠したいのに治してくれてありがとう。治癒魔法が使えるということは、緑の魔力持ちだね。あとは風かな?」
今もどうしよ~とおずおずと見上げながら謝ってくる表情と動きが、妙に可愛く見える。
「えっ!? なんでわかるの?」
「さっき果物が降ってきた時、地面に落ちる前にふわっと浮いたから。潰さないように風で緩和したんだよね」
「天使くん、賢いんだねー」
わぁっと頬に喜色を浮かべて笑うエリザベスに、シモンも笑う。
「どうだろう。普段から物事について考えることが多いからかな」
「天使くんはすごいね。わたしはやる前にもっと考えなさいってお母様に怒られてばっかりだよ」
「それは……、想像がつくね」
ありありとその場面が浮かびシモンが笑うと、エリザベスがぷぷぅっとほっぺを膨らませた。
思わず、妙に触りたくなるつやつやほっぺを突く。
「ぶふっ。天使くん、さっきから何?」
頬の空気が抜けたエリザベスが、ちらりと睨んでくる。
「ああ。ごめん。髪も頬も触ってて楽しくって」
「姉様もしょっちゅう突くのもそれが理由なのかなぁ。うぅ~ん」
くるくる変わる表情にシモンが笑うと、「もうっ!」とまた頬が膨らんだ。
「仲がいいんだね」
「うん。少し? 過保護だけど素敵な姉様だよ。えっとね。天使くんにはバレたから話すけど、あと水の魔力もあるの。ちょっと人より多いから、特に普段は緑は隠してるの」
緑に風に、水までも。三つも保持しているのかと驚く。
せいぜい魔力は持って二つと言われている。それと同時に、水は自分と同じだと密かに心を浮き立たせた。
「なんで緑を隠しているの?」
「だって、風と水はうっかり出てしまうことが多くて。その分、緑はばれにくいしできるだけ人前では使わないでおこうって。それに姉様が緑でとても優秀だからひっそりしやすいの」
「へえ」
うっかり。この少女ならありえそうだ。
さっきも当たり前のように風を使っていたが、この年齢で使いこなすのは難しい。そういったものを、さっきみたいについうっかり楽をしようとしてつい使ってしまうのだろう。
緊張感があるのかないのかわからないが、短い時間で彼女らしいと思う。
「天使くんはどうしてここへ? わたしはね、ちょっぴり時間があったから果物を取りにきたんだ~。美味しいし、天使くんもよかったら持って帰ってね」
「ありがとう。ただ、抜け出してきて持って帰れないから、気持ちだけいただくよ」
「そっかぁ。とっても美味しいのに残念。天使くんも抜け出してきたんだね」
「……気持ちの良い天気だったから」
自分で明かしておいて復唱されると、途端に罪悪感が募る。そろそろ帰ったほうがと理性では告げるが、まだここを離れたくない。
シモンは愛馬を眺めながら、小さく嘆息した。
その姿をどう思ったのか、エリザベスが一層明るく話し出す。
にっこり花が咲いたような笑顔をシモンに向けると、その場でくるくると回りだした。ふわっとピンクの髪が舞い円を描く。
乗馬のためズボンだが、それでも楽しそうに回る姿は微笑ましく可愛らしい。ドレスではなくても、十分に魅力的な少女だ。
あと、大雑把に見えて気遣いもできるようで、その純粋な気遣いにこそばゆくなった。
「そうそう! 天使くんもそう思う? こういう日はぱぁっと駆け出したくなるよね? なのに、あれダメこれダメって」
「心配してくれてるんだよ」
人のことを言えた義理ではないけれどと苦笑すると、エリザベスも同じような顔をした。
「そうなんだけど、……やっぱりたまには一人で動きたくなるっていうか。天使くんもそうなんじゃないの?」
「衝動的だったから」
「そっかぁ。でも、そうだよね。特になぜって聞かれてもわたしもわからないもん。ただ、動きたくなったら動かずにいられないっていうか。女の子だからって言われても、したいことをできる時にするのは悪いことじゃないって思っちゃうんだよね」
そこで、小さくエリザベスは笑った。語尾も心なしか力なく終わる。
違和感を覚えたシモンは、エリザベスの顔をまじまじと見つめた。
楽しげとも取れるそれは、どこか寂しさも含んでいるよう。
それは彼女の秘密を打ち明けられたという近さから感じられるものか、普段から鍛えたシモンの観察眼からか。そのどちらとも言えるだろう。
「わからないって顔じゃないね」
うっかりだとか、言動がとか、そういったもので隠された内面が見え隠れしたそれに、シモンは胸が苦しくなった。
己の現状と重なったこともあるけれど、それを一人で抱えているのなら触れて軽くしてあげたい。
溜め込んでいるなら、どうか自分に話してほしい。そのための言葉。
それをどう捉えてどう返すかはエリザベス自身が決めることであるが、シモンは深く彼女を知りたかった。
えっ、と戸惑うような菫色の瞳が自分を見つめる。
視線が合わさること数秒、エリザベスは小さく苦笑するとすっと目を細めた。
「どうして?」
「一緒だからかな」
「一緒……」
言葉を反芻し、エリザベスはふぅっと吐息を吐き出た。「一緒、かぁ~」と、遠くを見るように空を仰ぎ、髪を耳にかける。
それは少女にしては大人びた仕草に思えた。いろんなことがちぐはぐで目が離せない。
「せっかくだから、話さない? 誰にも言えないこと」
「天使くんもあるの?」
「うん。あるよ。わかってるからこそ、誰にも言いたくないし知られたくないことが。だから今日逃げ出しちゃったんだよね。ここだけの話だよ」
「…………うん」
エリザベスは迷うように視線を彷徨わせたが、シモンがじっと待つと最後は頷いた。
そして、おずおずとうかがう。
「逃げ出すって?」
自分から話すのは抵抗があるようだが、話そうとは思ってくれるようだと小さく笑みを返す。
近づきたかったら自分から。
シモンはエリザベスの質問に、誰にも語ったことのない己の内面を告げた。
「ふとその場から、あるものからって感じかな。特に不満があるわけでもないのに、何もかも放り出したくなることがあるよ。でも、そんなことはできないのもわかってる。わかっていて、また性懲りもなく考える自分がしんどい」
ちょっとした不満ならあげることができる。
体調や気分によって、やっていることが同じでもしんどいと思うことは誰にだってある。
でも、それらがグサリと刺さるようなものかといえばそうではなく、ただただ苦しくて痛かった。
そう感じることがまた苦しくて、申し訳なくて。
信じ期待されることを嬉しいと思うのに、応えようと思うのに、ときおりどうしようもなく胸が痛くなる。
重くて重くて、助けてほしいと心が軋む。
人から見れば、些細なことなのだろうなというのがわかるのもまた苦しかった。
子供らしくない子供。あまりにも自分の思考は冷静で理性的。だから、無邪気で可愛い弟たちがたまに羨ましい。
そう告げると、エリザベスがそろそろと手を伸ばしシモンの手を握りこんだ。
その柔らかな手の感触にはっとして彼女を見れば、むむぅっと眉間にしわを寄せている。
「いたい?」
「うん」
温もりに、こくんと首を縦に振る。
「そっか。さっきの傷みたいにふさがっても痛かったことに変わりないもんね」
よしよしとばかりに手の甲を撫でられて、そのふわりとした優しい手つきになんだか泣きたくなってきた。
エリザベスが顔を覗き込もうとしてくるので見られたくなくてぷいっと背けると、少女が小さく笑った。
「わかった! 天使くんは頑張りすぎなんだよ」
「えっ?」
ここ、とシモンの胸をトンッと指で指す。
「今だって泣くのを我慢してるでしょう? さっきも痛いはずなのに大きな声も出さなかったし。その時に発散しないといろいろ溜まって治っても痛いのが残ったままになってるんだよ」
触れるか触れないかというところで、止まった指先には小さい桜貝のような爪がちょこんと乗っている。
鼓動がとくとくとくと鳴り響く。
期待と不安が綯い交ぜになり、自分でもよくわからない。
「我慢はしてない」
これは我慢ではない。当たり前のことだ。
自分を律するのも、周囲の期待に応えるのも、兄であることも、嬉しいことは嬉しいのだから不満に思うこと自体間違っているのだ。
そう思ってぐっと唇を噛み締めると、エリザベスは気遣わしげに眉を寄せた。
「じゃ、無理してるんだよ。無理はよくないんだよ」
「……、りしてるんだ、ろうか?」
「ん? そう見えるよ。考えることって大事だと思うけど、考えすぎると自分がつらいだけだから。天使くん、真面目で器用になんでもできそうだから余計に背負いこんでるんじゃないかなぁ」
ねっ? とまた懲りずに覗き込んでこようとする。
「天使くんって、本当に信じてるの?」
包み込むような言葉が恥ずかしくて、向けられた思いを素直に受け止めきれず、思わず違う言葉を返した。
真摯な思いを踏みにじっているようで唇を噛むと、いいんだよとばかりにまた手を撫でられる。
単純そうに見えて聡明。
子供ながらの丸みが残る柔らかな手の感触を、シモンは思わず握り返した。
それに対して、エリザベスは笑うだけであっけらかんと話を続ける。
「まさか。さすがにわかってるよ~。でも、名前を言いたくないんでしょう? わたしのことも黙っててくれるし、お互いに嫌だと思うことは触れないほうがいいと思って」
「そう、なんだ」
やはり彼女は聡明だ。そして、温かい。
「どうしたの?」
「なら、なんで天使?」
「えっ、そこ? 天使くんは天使くんだよ~。天使みたいに綺麗だし」
「綺麗って言われるのは好きじゃない……」
言われ慣れている。今更、そんなことでいちいち反応するものではない。
だけど、彼女には容姿に触れてほしくなかった。
もっと自分という人間を見てほしい。勝手な欲望が口をつく。
「え~、どうして? 美への賛辞の最高級の言葉だと思うのだけど。だって。綺麗で可愛いものは好きだから。見ていてほわっとするのって、それだけですごいとなんだよ。天使くんは今まで見てきた中で一番綺麗。透き通るような青に、まっすぐに捉えようとする意思のこもった瞳。ああ、頑張ってるんだなっていう姿勢がにじみ出てるからわたしは好き」
その言葉に、シモンは顔を真っ赤にした。
先立って勝手な欲望で彼女のことを咎めたのに、実際になんのてらいもなく褒められ己の行動が非常に恥ずかしい。
徐々に己の身勝手な欲望が望んだまま注がれた偽りのない賛辞が、じわじわとシモンの中に浸透して嬉しくて仕方がなくなった。
「あ、りがとう」
頑張っていることも、子供っぽいこんな感情も含めて肯定されて嬉しかった。
重かったものが、さらさらと優しい風に流されるようだった。
「ううん。どれだけ整った顔の人でも、その人の姿勢だったり瞳だったり言動で印象は変わるものだもの。今の天使くんが周囲に賛辞をもらえているなら、それは天使くんが頑張っているからだよ。そこは自分を褒めてあげてもいいんだよ」
彼女は容姿だけではなくて、内面から出るものも見てくれているのだ。
さっきまで可笑しな詠唱と突飛な言動をとっていた人物だと思えないくらい、ときおりドキッとさせられる言葉の数々。
幼さと、話すとたまに達観したような言い回し。
苦労などしていなさそうなぽわっとした雰囲気なのに、彼女の言葉はすっと何の引っかかりもなくシモンの中に浸透する。
それと同時にこの年齢でそんな風に考えられる彼女にまた興味が湧く。
そして、先ほどの表情とこの会話の流れを思い、改めてシモンはエリザベスを見た。
「エリーの誰にも話せないことって何?」
そう尋ねると、エリザベスの宝石のように輝く瞳が一瞬で陰りを帯び、憂えるように瞳を彷徨わせた。
不安を露わにするその表情に、これ以上は深入りしないでおこうかとも考えたが、迷うように自分を見たエリザベスにシモンは気持ちを固める。
励ますように伸ばされた手はいまだに自分を握ったままだ。
怖いことはないと言い聞かせるように、シモンはそっと力を入れた。
その手をじっと見ていたエリザベスは、ゆっくりと視線を上げた。
探るような眼差しがシモンに向けられる。
「……信じられないかもしれないよ」
シモンは視線を外すことなく、力強く頷いた。
信じてほしい。そして、自分の気持ちを受け止め肯定してくれた彼女のことを自分も受け止めたい。
「信じるよ。それにここだけの話だよね。どんな内容でも信じるから話して。話すことで、気持ちが軽くなることもあるよね? 実際、エリーに聞いてもらってはとても軽くなったよ」
「……その」
「うん」
話しかけて一度きゅっと閉じたエリザベスに心配ないよと深く頷くと、再び彼女は口を開いた。
「転生を繰り返していたらいつか未来は変わるのかなって」
「転生?」
突拍子もないワードに驚きが顔に出そうになったが、神妙な顔で続きを待つ。
「うん。定められた運命っていうのかな。そこから抜け出したい。自分が自分であること、自分で道を歩いているって思いたいの」
「……そのために魔力を隠している?」
「うん。あと、王子様たちに関わらないため……」
ぽつぽつと語られる言葉に、繋いでいたシモンの手がぴくりと揺れた。




