sideシモン 記憶と過去
あの日と変わらぬエリザベスの柔らな髪の感触に、シモンは我知らず笑みを刻んだ。
乗馬のため後ろに一つにくくっている髪が馬の尻尾みたいで可愛らしく、普段は公爵令嬢に恥じない行動をしているが、隠す気があるのかないのか漏れ出てしまう活発な彼女に似合っている。
出会ったことをなかったものとされている、もしくは忘れられている可能性もあるとは思っていた。
夢での出来事だと思っていたとの言葉に嘘は見当たらず、彼女は上手くとぼけられるタイプではないので、熱で数日朦朧としていたのならばそうなのだろう。
あの日のことはどこか現実味を帯びず、シモンの中では触れて穢してはならない神域のような出来事となっていた。
それもあって、今まで彼女を前にしてもそれに触れず、気になりながらもずっと見守ってきた。
だが、今は理由を知りひどく安堵した。
そして、思った以上に自分が気にしていたことに気づき内心苦笑する。
エリザベスはシモンの中でどこにも位置しない。血縁でもなく、ユーグのように心を許したわけでもなく、赤の他人である。
ただ、出会いが出会いなのでずっと気になっていた。
──あの日、ルイが入学延期を申し出た理由を告げ、彼女の名前を聞いてからもっと……。
エリザベスは忘れてしまっていたわけだが、ルイが彼女と夏に出会ったと聞いているより先、その年の春に自分たちは出会っている。
彼女と出会ったあの日から、シモンの胸に何かが埋まったままだ。
これは何に起因するものなのか、過去のこともどうしたいのか釈然としない一年を過ごしていたが、いざ二人きりの機会を得るともっと話してみたいという衝動が湧き上がった。
もっと距離を詰めたい。
仲良くなりたい。
どんな景色もどんな立場の人物も彼女の前では名は関係ない。
感動するものに感動し、興味の赴くままに動く。そこにあるものが、彼女の心次第で変わり過ぎ去っていく。
彼女と一緒にいると自然と湧き上がる自由な笑いが、シモンの心を軽くした。
そして、どうやら従兄弟や弟たちが仲良く話しているのを羨ましいと思っていたようだと、ここにきて気づく。
自分も、彼らと同じように心から輪に入りたい。
そのためにはもう少し自分に正直にあるべきだろう。少なくとも彼女の前では……。
シモンは水色の瞳をまっすぐにエリザベスへと向けた。菫色の瞳美しい瞳が迷いなく自分を見つめてくる。
二人の視線が絡み合うことに、そこに自分だけが映し出される喜びを噛み締めた。
それから静かに話を切り出すと、食い入るように頷くエリザベスの姿にシモンは目を細めて笑った。
◇ ◇ ◇
エリザベスとは、互いに赴いたベントソン家所有の丘陵地帯であり青草が生い茂る放牧地で、同時に周囲の目を盗んで抜け出すという偶然が重なり出会った。
普段のシモンはそんなことはしないが、その日だけはどうしても気持ちが抑えきれなかった。
幼く未熟なため大人たちに保護される立場であることを理解しながら期待を負わされることに、今から考えるとその頃の自分は少し疲れていたのだろう。
シモンなりになんとか変えたいと思った発露なのか。
特にこれがという明確な理由もなく、ただどこか靄がかかるようで、そんなことを思う自分にも嫌気がさし悪循環を抱える日々。
べったり周囲が付いているわけではないが、常に行動は把握される。
どこに行っても第一王子であり、双子の兄。
双子は可愛い。その思いに偽りはないのに、まっすぐな眼差しが眩しすぎてたまに目を逸らしたくなることがあった。
「……溶け込んでしまえたらいいのに」
上を向くと自分の瞳と同じ色の空が広がっている。
眩しい太陽が輝くなか雲が自由に流れていくのを眺めていると、己はずいぶんと窮屈で小さい存在だと感じる。
抜け出すのも少しだけ。そう遠くにではないと言い聞かせ、愛馬とともに駆け抜けた。
誰にも内緒で、一人きり。
たったそれだけのことに悪いことをしたような気分と同時に、ひどく高揚した。
行き着いたのは川のほとり。
すぐに帰ってくるつもりでこそっと抜け出したが、気持ち良すぎて気づけば少し遠くまで走っていた。
「結構、走ったな」
さすがにまずいかと一度愛馬を休めてから戻ろうと決め、愛馬から降りた。
雪解けや春雨を含む水が静かに流れる川のなかで、ときおりチャプンッと生物が過ごす音がする。
そこにはすでに先客がおり立派な白馬が頭を上げてちらっとこちらを見たが、ふっとばかりに尾を一振りし水を飲む。
馬は警戒心が強く臆病な動物だが、この馬は人馴れし根性が座っている。
「ライナー、お疲れ」
愛馬の背をぽんっと叩きそう告げると、シモンは周囲を見渡した。
ひらひらと小さな蝶が舞い、黄色の花に止まる。暖かな日が届き草木が伸び始め、背後にある木々は青い葉を大きく広げていた。
つい最近まで暖炉に火を入れて暖まっていたのに、すっかり自然は春へと移行しだしているようだ。
夏場になると、ここ一帯でしか見かけることのない植物にしか繁殖しない昆虫もいるそうで、王城もそうだがここも自然豊かな場所だ。
シモンが春を観察している間に、馬同士は付かず離れずの距離でくつろぎだした。
馬同士仲良く休息できるならそれで良いとシモンは愛馬をぽんぽんと叩きながら、凛々しい白馬を眺めた。
「さて、お前の主人はどこにいるのかな?」
ざっと確認したところ人の姿は確認できないが、白馬に乗ってきた人物はそう遠くに行っていないはずである。
ならば背後にある小さな森の中だろうか。
白馬の横に大きな石があり、もしかすると乗り手は子どもかもしれないとシモンは考えた。背丈が足りず乗り降りに必要なのではと予測したのだ。
シモンも降りるのはいいが、さすがに登るには背丈が足りず台座がないと苦労する。
「ちょっと気になるな」
天気も良く、ふらっと出かけたくなる陽気に誘われる者が自分以外にいてもおかしくない。
同じように抜け出してきた子どもだったら、面白い偶然なんじゃないかと心が弾んだ。
それと同時に問題が生じている可能性もあるので、このまま放置するわけにもいかない。
だが、そんなに長居はできない。あまり時間をかけすぎると、向こうで騒ぎになるだろう。
シモンは唇に指を当てて思案した。
穏やかな陽気が、そんなに深く考えるなと柔らかく髪を揺らしていく。
さて、ここに時間まで留まるか、探しに行ってみるかと考えたその時、ふいに上空でガサゴソ、パキッと音がなる。
「あっ、折れちゃった。仕方ないよね、このまま持って行っちゃおう。えいやぁぁぁ~」
まさか猿が山からこんなところまで下りてきたのかと構えたが、大きな独り言の後に少女の掛け声が響く。
声の主を確認する前に、今度は空からネイブルオレンジやキュウイ、ビワやライチが降ってきた。
ボト、ボトボトボトッ
間一髪でそれらを避けるが、目の前で果物がどっさりと落ちてくる。そしてどういうわけか、地面につく直前に一度ふわっと浮いた。
目の錯覚かと思いながらその現象を眺めていると、また大きな独り言が聞こえてきた。
「豊作よ~。ここは豊富よねぇ。これ全部ここで取れていいのかわかんないけど、ゲットはゲット~。やっほ~い」
そして、やっほ~いと同時に少女が飛んできた。
「危ないっ!」
目の前には果物の数々。いったいどこに着地するつもりなのかと、咄嗟に受け止めようと身体が動いた。
彼女の腕をぐっと引っ張り、その勢いで一緒に倒れ込む。したたか身体を打ち付けたが、少女は守れたようで安堵とともに出た声がかすれる。
「…………び、っくりした」
「……えっ、えっ? えぇ~~」
少女は何が起こったのかわかっていないようで、自分の腕の中でくりくりと瞳を動かし、そしてゆっくりと状況を理解すると慌ててシモンの上から飛び退いた。
「わあぁぁぁ~。人を下敷きに~。これはまずいわ。大丈夫ですか?」
「だいじょう、……つぅっ」
土下座せんばかりの勢いで謝罪され、シモンは苦笑する。それと同時に身体を起こそうとして、右手に痛みを覚える。
幼い頃から体術も習っているので受け身をうまく取ったつもりであったが、右手が彼女の抱えていた枝で切ってしまったようだ。
痛みで上げた小さな声を聞き取った少女は、うわぁぁ~んと情けなく眉尻を下げた。
「わあぁ~。本当にごめんなさい。驚かせてしまった上に下敷きにしてしまって」
「……いや」
「痛いですよね。頭とか打ってないですか?」
「それは大丈夫だよ」
「本当にごめんなさい」
近くに馬に乗ってきた人物がいるだろうとは思ったが、まさか木から飛ぶように降りてくるとは微塵も考えなかった。
不意を突かれたとはいえ、庇いきれず怪我をするとか自業自得である。
言うなれば勝手にこちらが手を出したことなので、大丈夫だと示すようにシモンは立ち上がった。
目の前の少女は、もうすぐ誕生日がきて八歳になる自分とそう歳は変わらなさそうだ。
自分よりわずかに視線が下で、ピンクの髪がふわふわっと太陽光を浴びて柔らかな光を放つ。
くりくりした目が心配そうに自分を見て、怪我をした手へと視線をやると少女は眉を寄せた。
「手を怪我しています。本当にごめんなさい」
「これくらいだいじょう」
ぶだ、と言い切る前に少女はシモンの手を取った。
そして、小さな手でシモンの手を包み込むように握る。
「責任を取らせてください!」
「責任?」
どう責任を取るというのか。
あまりにも真剣な気迫に押されシモンは少女の菫色の瞳をじっと見つめた。
「はい。そうです。このままじっとしていてください」
そう告げると少女は「いくわよぉ~」と意気込み、唱え始めた。
出会いから衝撃的で、マイペースな彼女に巻き込まれシモンはされるがままだ。
小さな唇から漏れ出る言葉を耳に入れ、シモンはこれ以上驚くことはないだろうと思っていたそばから驚く羽目になる。
「ひふひふ、ひふ~」
「……????」
──ひふひふ?
あまりのことに呆気に捉われているシモンを尻目に、少女はさらにノリノリに歌い出した。
比喩ではなく歌っている。リズムが付いている。
「ひふひふヒ~、ヒヒヒッ、ひ~」
左手でシモンの怪我した右手を取り、右手は怪我の部分にかざしている。
ここにきてやっと、怪我を治そうとしていることに気づいた。じわじわと怪我の周囲に温もりを感じて、シモンはまさかと思い目を見開いた。
目に見えて傷口がふさがっていく。
「よし。いけるんじゃない。やるわよぉ~。とりゃあぁ~~。ひふ~」
ヒールではなく、ひふ。ひふって皮膚? 皮膚に働きかけたくてそれ?
変わった詠唱だ。しかも、とりゃあって。
これほどのことをしでかしておいて、なんだか気が抜ける。
そういえば、果物が降ってくる前もえいやぁぁって掛け声があったなと、思い出さなくてもいいのに思い出しふよっと口端が緩んだ。
「ぷっ。ははっ」
シモンは知らず知らず笑いをこぼす。
じわじわと笑いのツボを押してくるようで、笑わずにはいられない。心が軽く、そしてただただ面白かった。
傷の治療は緑の魔力を持ってしても完璧ではない。
治癒の促進であったり、痛みの減少であったり、そういった手助けを行う力であって、数分で治せるものではないからだ。
ましてや、魔力が安定していない幼い少女ならなおさらだ。
これくらいの傷なら国の緑の上位魔力保持者だと可能かもしれないが、目の前の彼女は十歳にも満たない少女。
なのに、明らかに彼女は使いこなして治してみせたのだ。
ただ、詠唱はおかしい。
ひふひふ、ヒーとか……。
ダメだ。笑える。ヒヒヒッって、笑い声に聞こえてきた。
「ちょっ、その詠唱は」
「ヒヒヒッのひふひふ~。とりゃあぁぁぁ~あっああ~」
「だから、本当」
──もう、ダメだ。
右手は預けたまま、シモンは身体を丸めた。
歌うように魔法を使うのが彼女流なのかもしれないが、施されている身としてはたまったものではない。
「ぷっ、くくくくっ。本当笑える。ああ、お腹が痛い」
そのアンバランスさが妙に気持ちをくすぐった。
それを、自分と歳が変わりない少女がしていると思うと心が浮き立つ。
驚いている間も変てこな詠唱は続き笑わされるは、その間に傷は治っているはでデタラメだ。
まるで母の治癒魔法を見ているようなそれに、もしかしたらと思ったのは一瞬で、シモンは目の前の令嬢に声をかけた。
すっかり痛みは引いた。
しかも、打ち付けたはずの背中の痛みも消えている。本当にデタラメな少女だ。
「もう大丈夫だよ」
「ひふひふ~、……あっ、傷が塞がってる。痛くないですか?」
「うん。どこも痛くない。ありがとう」
「よ、よかった~」
ふざけた詠唱だが本人はいたって真剣だったようで、傷口が塞がっているのを見て嬉しそうに口元を緩めた。
「すごいね」
「……何が?」
「魔法だよ。こんなに簡単に治せるなんて」
「……って、あぁ!」
そこで、少女は目をまん丸にしてまずいことをしたとばかりに顔をしかめた。
そして、やっぱりやりすぎたのかな、でも怪我させちゃったしとぶつぶつ口を動かす。
シモンは少女の言動にぱちぱちと瞬きし、なぜか意気消沈した彼女の肩にそっと触れた。
「どうしたの?」
「えっと、このことは誰にも言わないで」
お願いとばかりに、両手を合わせて見上げてくる。
シモンは軽く肩を竦めて説明を求めた。
「このこと?」
「そう。今見たこと」
「どうして? こんなにすごいのに」
「でも……」
褒めると、彼女の長い睫毛がふるっと揺れ、困ったとばかりに目尻が下がった。唇が一度開き、ゆっくりと閉じる。
しばらくキュッと閉じられていたが、諦めたように息を吐き出すと少女は語った。
「無事、傷が治って本当に良かったけど、私のしたことがすごいことなら知られたくないの。もとはと言えばわたしが悪いのだけど、魔法が使えすぎちゃうと目立つでしょ?」
「確かに」
「うん。だから、内緒。標準を目指して日々研鑽中だから知られて広まると困るし、せっかくの努力を無駄にしたくなくて」
えへへっと笑いながら、少女は妙なことを言い出した。
できることをアピールするのではなく、隠す理由。
それは気になったが、出会ったばかりの自分には話してもらえないだろう。
笑いながらも菫色の瞳は真剣な光を放っていたので、冗談ではなく真剣に彼女は取り組んでいるようだ。
今回のことはイレギュラーであったのだろう。
「わかった。誰にも言わないよ」
「ありがとう。えっと、お名前は?」
今度はシモンが口を噤む番になった。
周囲に黙って抜け出してきた身であり、今までのことを思うと名前を言うのは憚られる。容姿を見て名前を聞くだけで、第一王子だと認識する人は多い。
「あっ、言いたくなかったらいいの。わたしはエリー。じゃあ、名無しさんはあれだから、うーん、どこから来たの?」
「……遠いところから」
本当の名を告げるか迷ったが、結局空を見て曖昧にごまかした。
あれこれ先のことを考えると、告げるより告げないほうが断然リスクはない。
「…………ああ、そっか。わかった!」
そんな損得まで考えて返事をするシモンに対して、少女は嬉しそうに声を上げた。
あまりにも純粋な笑顔に、胸がちくっとする。
「空から来たんだね」
「……は?」
「じゃあ、天使くんだ」
一人興奮して、ふふふっと笑う少女。
「……えっ?」
「うんうん。こんなにきらきら光っていたらありだよね! 王子様みたいに神々しいし天使って言われたほうが納得。よかった~。天使を怪我させたまま返したらバチが当たるところだった~。そして、天使に会うなんてついてるぅ~」
罪悪感も何もかも吹っ飛ばす破壊力に、シモンはへにゃりと力なく笑った。
あれこれ考えるのがバカらしいくらいに、目の前の少女は全力投球だった。
だから、ついシモンも彼女の言葉に乗った。
この場が楽しければ、もうなんでもいいと。
そもそも、何かから逃げるようにここまでやってきて、そうして出会ったのが彼女ならばこれも縁なのだろう。
「そう。その呼び名でいいよ」
さすがに自ら天使だと嘘を名乗るのは性格上無理だったから、相手に合わせて肯定した。
ちょっとした悪戯をしているみたいで、でも楽しくて。
気持ちに誘われるまま、目の前で動くたびにふわふわと舞う柔らかな髪に手を伸ばした。




