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28 めでたしめでたし、って誰かが言った


 学んでみると、最初は全然興味がなかった経済の分野も、意外とフィールドワークがあったりディスカッションがあったり、わりと面白い……かもしれない。


 私なんかが人生楽しんじゃっていいんだろうか、突然また体重が重くなったりして、心を探り回られたりされて人に迷惑をかけたりしないだろうか、って思うと、罪悪感はあるんだけど、人間の心って死にっぱなしではいられないというか……。

 ごめんねクラージュ、せっかく守ってもらった地球、また爆発するかも……。


 なにか関係のないことで楽しいなって思うたび、罪悪感で胸がじくじくする。

 クラージュがつけたいって言って、私がいいよって言ってついた傷は、全然まだ、癒えそうもない。



 ……なんでこう、三年も経つのにクラージュのことばっかり考えてるかっていうと……。あの、なんていうか……。

 明らかに、あの日、別れ際にはめられた金色の指輪が、すっごい悪さを……している……。


 見た目だけは細身で石もついてないシンプルな指輪で、明らかにクラージュ好みではない、もしかしたら、たぶん、私の趣味に合わせてくれたんだろうな、いつか、なにかのときに渡そうと思ってくれてたのかな、って思えるようなやつだったけど、実は指輪の仕様自体は、クラージュがふだんしてたのとまったく同じだった。これがよくなかった。


 当時、当然、高校に指輪はしていけないから、鎖に通して、制服の下にネックレスとしてかけて肌身離さなかったんだけど……。

 ちょうどそのころは、あったことをちょっと思い出すだけで胸が苦しくなっちゃってた頃で……だからこそ肌身離さなかったんだけど……。

 なんていうか……。ちょっと感情が高ぶるたびに、指輪がクラージュがときたまやってたみたいに、火花をパチパチ散らしたせいで……。

 ……胸を、指輪の形に、やけどした……。

 ……………。

 ……しかもそれが、何度も何度も続いたものだから……。私の胸の間にはずっと赤黒い、指輪のかたちの丸い痕が残って、とうとう消えなくなってしまった……。

 いなくなった後も消えない傷をつけ続けるヤバいやつだクラージュというやつは。

 これは恥ずかしくてお母さんにも言えてない。気づいてるかもしれないけど、言えてない。親にも言えない秘密を作るなんてとんでもないやつだクラージュというやつは。

 まるちゃんは高校時代から体育のときに気付いて、うわっどうしたのってびっくりしてた。金属アレルギーが出ちゃったって説明してごまかしたつもりだけど、明らかに指輪型の痕なので怪しんでいた。まるちゃんにも本当のことは言えない。なんてやつだクラージュというやつは。

 ネックレスだって言い訳したせいで今更指輪を指にはめ直すこともできなくて、高校を卒業した今もずっと指輪は首にさがったまんまだ。なんてやつだ。



 言えないこともやれないことも多すぎて、こんな調子なので、大学では友達はそんなにできなかった。

 授業の許すかぎり幹也がべったりくっついてて、学部も違うせいで幹也のことを私の彼氏だと思ってる人もいるみたいだし。

 飲み会やるけどどう? とか、声をかけてくれる人はいて、でも、胸の傷が精神的にも物理的にも痛むので、断ることの方が多かった。

 この傷があるかぎり、笑ったり泣いたり、……好きな人を作ったり、そういう人間らしい生活は送れないんだろうなと思う。


 今日も合コンというのに誘われて、断ったしな……。

 ほとんどしゃべったことのない私に声をかけるくらいだから相当に困っていただろうに……。本当の私は行きたくないトイレにもついてくし、塔子さんのためにF県の中でも治安の悪い所にも乗り込んでいこうか真剣に検討するタイプの人間だったのに……。


 小説も漫画もゲームもカラオケも喫茶店巡りもしなくなって、サークルにも入らず合コンにも行かない大学生がなにをするかというと、勉強なんである……。物欲がないからバイトもしてなくて、マジにヒマですることがないんである……。

 


 今日はもう授業がなくて、大学生協の書店エリアへ。教科書とか資格試験用の参考書があるあたりをぶらつく。接遇、FP、簿記、宅建……興味ない……興味なさ過ぎてやるにふさわしい……。

「よ……」

 参考書の中でも一番つまんなそうなのを眺めてみようかなという気になって、私は身を乗り出して、本棚の一番人気のなさそうなところに手を伸ばした。平積みの棚が広く取られているせいで、棚の高いところの本は特に取りづらい。

 踏み台を持ってこなくても行けるかな、というギリギリの高さで、身体をぴんと伸ばしていると、ふと、私の背後に、私を抱え込むように立つ人があった。


「取りますよ、花奈さん」


 誰かが言った。

 誰の声か、頭で理解する前に涙の塊がお腹の底からこみあがってきて、目からぽろっと涙がこぼれた。首にかけた指輪がバチバチスパークして、また胸が火傷したみたいに痛い。ていうか火傷したと思う。

 振り返るのが怖いけど、体は勝手に振り返っていた。


「クラ……!!」

 の、幻覚だ。叫びを半分だけのみこんで、私はがっかりしないですむように自分に言い聞かせる。たまにあるのだ、人混みの向こうに彼の後姿を見たような気がすることが。こんなに近くで見たの初めてだけど。


 だってクラージュが、せめてグラナアーデにいるならまだしも、地球にいるわけがないし。

 クラージュの幻覚は三年前より伸びた金茶の髪を三つ編みにして、左手もちゃんとあって、ふつうの地球人みたいな、シャツとパンツのふつうのかっこうをしていて、変装のつもりなのか、なんのための変装かわかんないけど、めがねをかけていた。

 よく似合う……幻覚のくせに地球人っぽいかっこうをしてる理由は分かんないけど……。

 クラージュの幻覚はにこっと笑った。

「お元気そうで、なによりです」

「あれ、ほんもの……」


 涙がぼろぼろこぼれてきてクラージュがどんどんよく見えなくなってくる。

 ほっぺたもびしょびしょで、手に持ってた本が悪くなりそうで、私はあわててあったところに戻す。クラージュも戻した。

「ここだと好き勝手できないので。ちょっとすみません。ちょっと失礼しますね」

 最初大声を出したせいで、私たちは本屋さんの中でまあまあ注目をあびていた。ただでさえクラージュはよく目立つし。

 クラージュは私の手を引っ張って、建物から連れ出して、構内もつっきって、校門のすぐそばに横づけしていた車の後部座席に私を放り込み、自分も乗り込む。運転席にはシバイヌがいた。


「なんで、シバイヌ……」

「なんでぼくの名前よりシバイヌの名前を先に呼ぶんですか?」

 クラージュがなんかまぜっかえしてきて、めんどくさい。

「なんでいるの……? なんでシバイヌと仲良くなってるの……?」

「だからなんでぼくの名前より先にシバイヌを呼ぶんですか? あとなんで指輪してないんですか?」

「なんで……だって……」

「…………」

 シバイヌが疲れ果てたみたいに、ハンドルにぐったりと上体をもたせかける。

「……タバコ一本吸ってくるから。感動の再会はその分でちゃちゃっとすませといてくれる?」

 私と両手をつないで、びしょびしょに泣いてる私の顔を隣からのぞき込もうとしてたクラージュが、視線だけシバイヌにちらっと向ける。

「ぼくが自分で運転して帰りますから、もういいですよ。お疲れ様でした」

「お前ほんといい性格してるね……」


 シバイヌは乱暴にドアを閉めて出て行った。

 とたんクラージュは私をぎゅうっと抱き寄せた。車は狭くて天井にごちんと頭のてっぺんをぶつけて、それで私はちょっと冷静になった。痛い。苦しい。夢じゃなさそうな気がする。

「クラージュ……ほんもの……?」

「よかった、名前を覚えてくれていて。なぜ指輪をしていないんですか? 持ち歩いてるのは知ってますけど、なぜここに指輪がないんですか?」

 クラージュは私の左手の薬指をぎゅうと握って、指先で根元をなでる。

「なんで持ち歩いてるのを知ってるの……?」

「質問に答えてください」

「クラージュこそ答えてよ。なんでクラージュがここにいるの?」

 クラージュは舌打ちした。

「その話、しなくちゃだめですか? あまりに長くなるんですけど」

「しないわけいかないでしょ……」

「お願い三つ分くらい使ってください」

「…………」

 クラージュはあのルールをまだ覚えている……同意してないのに……。

 あきれ果てたおかげでちょっと冷静になれた。傷のことがあって、指輪のありかを説明するわけにはいかないことも、思い出した。

「……ジュノは? ジュノはどこにいるの?」

 ジュノが昔、私のけがを治してくれたのを覚えている。シダンワンダに引っかかれたときの傷。もう古いしみついた傷跡だけど、ジュノならきれいに治してくれるかもしれない。そしたら見せられる。指輪を。傷の位置はきわどいけどジュノはお医者さんみたいなものだから平気だ。どうでもいいともいう。


 でもクラージュは目をすがめて私をにらんだ。 

「ジュノはいますよ。彼も元気です。でも今、他の男の話をする必要がありますか? 今のぼくはあなたが泣いてるから礼儀正しくしてるだけだって分かります?」

「……もうめちゃくちゃだよ……指輪、ちゃんと持ってるよ……後で見せるから……」

「今、見せて……?」

 クラージュはほっぺたにほっぺたを押し付けて、甘い声をだした。

「心の準備できてないからまだだめ……」

「……」

 クラージュは黙りこくって、また腹を立てたみたいだった。指で私のうなじをなぞる。

 うなじには胸へ指輪を下げているチェーンの根っこがかかっていて、クラージュは実際、どこに指輪があるのか、ちゃんと知ってるようだった。なぜか……。

「怒らなくたっていいじゃん……なんでクラージュがここにいてくれるのか、知りたいにきまってるじゃん……。

 理由聞かなきゃ安心できないよ。もう苦しくないのかとか消えちゃわないのかとか」

 びっくりして出た涙から、悲しくて出る涙にかわってきた。

 クラージュはちょっと黙ったあと、うなじの手を私の後頭部に移動させて、とんとんした。

「すみません、いじわるして」

「うん……」

 クラージュは私のすすり泣きの合間を縫うように、やっと話し出した。

「長いので省きながら話しますけど……あの海で、もちろんぼくは死んでなくて……」

「うん……」

「草原から矢車菊を呼び戻し、次元の狭間からハヌムヤーンを呼び戻して……」

「うん……?」

「大魔術で輝神を星辰のかなたへ追い払いました」

 雑だ……。雑すぎる……。

 あまりに雑すぎてなにも伝わってこなかったので、私は問い直した。

「……そんなことできるの……?」

「時間はかかりましたが、しおりがはずれていたので、不可能ではありませんでした。

 ……あの海は、輝神のお気に召す素敵なラストシーンだったようですよ」

 自画自賛だ……。

「それから、幹也さんが地球の場所を見つけてくれていたので、ハヌムヤーンの魔術を強化して、鉱脈でもなんでもないただの人間を、あっちにやったりこっちにやったりできるようにして……」

「うん……」

「で、来ました。最初にここに来たのは一週間前くらいかな。シバイヌにも協力してもらって。最初術式が安定しなかったので、ぬか喜びさせちゃいけないと思って黙ってたんですけど、なんか、我慢できなくなって、シバイヌに無理言って、来ちゃいました。

 ……というのと……運命じゃないって、たしかめたくて。ぼくがこっちに来たことに気付いてなければ、それって花奈さんが、誰の干渉も受けてないってことでしょう?」

「でもクラージュは……」

 仮にシバイヌが講義のスケジュールを把握してて、で、クラージュが連れてきてたとしても、私が広い大学構内のどこにいるかまではわからないだろう。クラージュとシバイヌは本屋さんに一番近い門に車を横付けしている。

「ぼく? ぼくはほら、花奈さんに指輪を持ってもらってたから。いる場所はわかります」

 クラージュは……クラージュはなんてやつだ……。

「……そういうのストーカーアプリっていうんだよ……」

「もういいですか?」

 クラージュはさらっと聞き流して、私の肩をほんの少し押して、まっすぐ、私の目を見つめる。

「花奈さん、今度はぼくの話を聞いてくれますか?」

 なんだろう。私はうなずいた。

 聞きたい話も話したい話もいっぱいありすぎて、心当たりが全然なかった。

「ぼくは……ちょっと頑張ったので、離れている間に、善行百個分くらいはした……と、思うんです」

 うん、うん。

「その分で、ご褒美がほしくて……」

 うん、うん。

 私はうなずいた。善行カウンターは不同意だけど、今回に限ってはなんでも聞いてもいい、と思った。

 クラージュはちょっと逡巡して、それからゆっくり話し出す。



「花奈さん。物語の幕はたしかに下りました。

 もう心配ないはずです。もうあなたを困らせるようなできごとは、たぶん起こりません」


 うん、うん。

 私はうなずいた。


「……でも、ぼくが……従者が人であろうとなかろうと、少なくとも意志を持つようにふるまうものを殺してまわったのは事実ですし、人の恨みもたくさん買っていますし、もしかしたらまた、『あれ』がぼくにまた目を付けて、しおりを挟むかもしれない。


 あなた自身をふくめ、たくさんの人を傷つけ、ご両親に胸をはることもできないし、幹也さんにも葉介さんにも、根気強く謝らなくちゃいけないでしょうし、許されることはもしかしたらこれから一生ないかもしれないし、うそつきだし、人でなしの悪党だし、あなたが分け与えてくれたものに比べて、よりよいものなどぼくには何もないけれど、」


 そこまで言わなくても、と、聞いているこっちが心配になりだしたころ、クラージュは一度息を継ぎ直した。

 

「あなたのことが好きなんです。どうかぼくのすべてと引き換えに、あなたの善性を分けてはくれないでしょうか」

「……」


 なんてお返事しようか、ちょっと迷った。答えは決まってたんだけど、いろんなきもちがまぜこぜで、すぐには答えられなかった。

 私のことを二度も置いて行ったことは根に持ってるし、人としてどうかと思う部分はもちろんあるし、たぶんこれからも私のことちょくちょく裏切るんだろうし、うそつくんだろうし、弱みにつけこんでくるんだろう。

 でも、私は言った。

「いいよ」

 私が、クラージュを、見張っててあげる。世界を滅ぼさないように。



 それから、今ならいいかな、心の準備できてきたな、って思って、ちょっとクラージュから体を離した。

 着てたブラウスのボタンを上から二つだけ外して、首にかかっていた指輪と、丸い、クラージュのことを思い出すたびにじりじり焼けて、黒くなった指輪の形の傷を見せた。

 え、なに、花奈さん? と、珍しくうろたえた声を出してたクラージュが、私のくつろげたブラウスの中を見て、凍り付いたように固まる。


「責任とってくれる……?」


 多分クラージュは……Sっ気があって……なんか、多分、わかんないけど……あのとき最後に、傷をつけたいって言ってたから、もしかして、たぶん、こういうのが好きなんじゃないかと……思って、見せた。


「……………………」

「……クラージュ?」

 やばい、すべったかな、と思って不安になるほどの沈黙があって、おそるおそるクラージュの顔色をうかがうと、クラージュは不気味なほどの無表情で、ただこう言った。

「すみません」

「あの……」

 それは、どういう……?


 聞く暇もなかった。クラージュは打って変わって穏やかな微笑を浮かべて、私のこめかみへキスすると、なぜか私のブラウスのボタンをもう一つ外した。

「やっぱりぼくは、あなたの善性を差し出してもらえるほどの価値はないようです」

 クラージュは私の胸元へかがみこむ。

「え、え、え、え、」


 傷痕へくちびるが触れるかと思ったちょうどそのとき、車が揺れるくらいの強さでガンガン外からドアが蹴りまくられる。私は我に返ってクラージュからはねのいた。

「いい加減にしろよお前!!! タバコひと箱吸っちゃったじゃねえか!! いいかげんにしねえと追い出すぞ!!!」

 シバイヌだった。ドアが閉まっててもわかるくらいの大声で、車の外から怒鳴りつけている。シバイヌってこんなに口悪かっただろうか。

 車の解錠キーを連打しすぎてドアロックが開いたり閉じたりを繰り返し、ガタガタドアを引っ張って、開かなくて、シバイヌはもう一回ドアをけりつけた。

 クラージュはため息をついた。後部座席から手を伸ばして、運転席のドアロックを手動で解除する。

 即、ってタイミング、ロックに指をかけてたクラージュがけがしそうな勢いでドアが開く。

「――だからぼくが運転して帰れるからさき行ってていいですよって言ったじゃないですか」

「君もな!!! 君だぞ!!! 多良木さん!!!! わかってんのか!!!! 俺は君が高校生のときから君を知ってんだぞ!!!! 男見る目ないな君は!!!」

「……………」


 私はその場で後部座席のシートに突っ伏す。

 恥ずかしくて消えちゃいたかった。


 でもこれは現実だから、消えたりはしなかった。

 ずっとずっと、永久にそのままだった。




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