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26 海

 施設を出てGPSが使えるようになると、思ったよりK市の中心よりの場所にあったのが分かった。クラージュが行きたい場所はK市からはちょっと離れてたから、バスだと二時間弱くらいかかる。

 私のおこづかいではタクシーを使えない。体力は大丈夫かと聞いたら、クラージュは、大丈夫、と返事してくれて、じゃあそうしようと、バスターミナルへ向かった。


 外は変なお天気で、雲が重たく垂れこめているのに空はへんに明るく、雲の切れ間から幾本も天使のはしごが落ちていて、そこら中が煌いている。

 見上げていると、まだもちろん昼間の時間なのに、空はカーテンを引くように暗くなっていって、夜になり、虹と星空がいっぺんに見られる。いい香りの風。

 クラージュの歩く跡は重力がおかしいみたいだった。

 石ころや舗装の煉瓦なんかが少し浮いたり、地面に押し込まれたり、ざわざわ落ち着かない。

 私は反対に、身体が羽根のように軽かった。今までとは正反対。クラージュと手をつないでないと、私ひとりが空へ飛んでいってしまいそうなくらいだった。



 バスが来るまでひまだったから、ターミナルの売店を冷やかした。売店ではぽーっとした表情のおばさんが空を眺めていて、私たちが……特に血まみれの金ぴかローブっていう、明らかにおかしい恰好をしてるクラージュがキーホルダーやおかしなんかを手に取っても、まったく気にするそぶりがない。

 私たちはお店を出て、今度はアイスクリームの自動販売機をながめる。クラージュは何を見てもめずらしがって、ここにお金を入れるんですか、とかにこにこしている。

「私このアイス全部一気に買うの夢だったの」

「すてきな夢ですけど絶対やめといたほうがいいと思います」

「いいから選んで。おごってあげる」

 クラージュはずいぶんながいこと考えて、マカダミアナッツのに決めた。私はクラージュがもう二つ悩んでいたように見えた、キャラメルアーモンドと、キイチゴとチーズケーキのミックスのを立て続けに買った。

 クラージュは左手も右手も埋まっていたから、私が差し出して食べさせてあげていると、アイスはどんどん溶けてきて、折り悪くバスもやってきて、私たちは手がべたべたなまま慌ててそれに乗り込む。どこかで手が洗えるといいんだけど。バスの中には平日の昼間だからか、運転手さん以外誰もいなくって、私たちは一番奥の席の真ん中に腰かける。


「みんな大丈夫かな」

 途中で我慢できなくなって、一度だけ聞いた。

 クラージュは、しー、と金の腕をくちびるに当てる。

「多分、大丈夫。こちらを見るので輝神はせいいっぱいなんじゃないかな」

 希望的観測。でもクラージュが言うならそうかな、って思う。

 ていうか、ほんとにそうなんじゃないかな。


 輝神は大盤振る舞いだ。

 行くては闇夜。虹が、幾重にも重なっている。

 クラージュは、今なら引き返せますよ、なんて気休めは言わない。



 海は凪いでいた。砂浜には誰もいなくて、静かだ。

 海はもっと不思議なお天気で、雲の無い星空から、きらきら光る星粒がちらちら落ちて空は暗いのにあたりは変に、昼間のように……昼間なんだけど、明るい。

 海はエメラルドグリーンや紺碧に、まだらもようを作ってさざ波と光っている。

「クラージュ、大丈夫? 砂の色とか……。思ったより白くなかったとか……青くなかったとか……ふつうじゃなかったとか……」

「いいえ。とっても綺麗です」



 クラージュは砂浜に直接すわって、波の音を聞いている。私も隣に腰かけた。

 もうクラージュのつけていた装身具のほとんどが真っ黒に錆びていて、クラージュの無くなってしまった左腕を形作っていた金色の粉も、随分薄くなっている。


 私はうつむいた。

 クラージュは私の考えていることを、目を見るだけでどうしてかなんでもわかってしまうから。

 クラージュといっしょでも、死ぬのはこわいし。

 でもクラージュは私の重たい顎を無理やり指で上げさせて、私の目をのぞき込む。


 クラージュはわかるのかな。

 私は、自分がどうしてこんなに頑張ってるのか自分でもわかんないのに、なんで一緒に死ぬ決心までできたのかわかんないのに、クラージュは、なんだか幸せそうだった。

 クラージュだって死ぬのに。あの金の粉が終わったら、クラージュは血を流して死んじゃうのに。

 でもクラージュはわらっている。

 クラージュは死んじゃうのに。道連れにはなってあげるけど、道連れになってあげる以上のことは、私、なにもできないのに。

 クラージュは隣に並んだ私の頭に、ことんと自分の頭をかたむけて預ける。

「ね、花奈さん。このまま石になってしまいたいな」

 そうかも。このまま石になっちゃいたいかも。

「石になったら、ずっとこうして、砂になるまで二人だけで話すんです」

 うん、うん。

「……ぼくらは友達だから、きっとおしゃべりは尽きないでしょうね。砂になっても話していられるかも」

 うん、うん。

 私は小さい声でつぶやいた。

「そんなふうにできたら……いいかも……」

 そしたら、クラージュは自信ありげに、嬉しそうに笑う。

「できないと思いますか、花奈さんは?」

「そんなことしたら、葉介とか幹也とか、泣くし……」

「そのことは忘れてもらうとしましょう。ぼくは、悪い魔法使いですから。お姫様を一人さらって、石に変えて心中するくらいわけないんです」


 うそつきだ……。それも救いがたいやつ……。

 でも、私はそういううそを聞きたい気分だった。

 うん、うん、と口だけで繰り返す。

 頭は動かなかった。クラージュがかけてくれる体重が、重たくて。


 うん、うん。

 でも、そういうわけにはいかなかった。


 動かした唇は、声にならない。

 声にならなかったけど、でも、クラージュはその気配を感じたみたいだった。おびえたみたいに、残された、私とつないでたほうの指に力がこもる。

「……石になったら、もったいないよ……こんなにさらさらの髪なのに……」


 私さえいなければ、ほんとはクラージュは助かったんだって、分かっていた。

 地球になんか来ることもなくって、ちゃんとした手当も受けられたんだって、わかっていた。

 さっきから私の心をさぐりまわされているのを、なんとなく私も、わかっている。

 クラージュと同じように。

 ひとつがいの鉱脈の姫君と従者の行く末を見ている。


 私たちは、もう終わり。そのことを、輝神に教えてあげなくちゃいけない。

 もう見てても、何もありませんよって。



 だって、待ってる。物語が進展して、終わるのを。



 少女と竜のつないだ手が離れ、少女が元の世界に帰っていくのを。

 失敗に終わった革命と青春を讃えた、大合唱がうたわれるのを。

 王女と記者がさよならも言えず、ただ別れて二度と会わないのを。


 今、幕が下りたらな。

 クラージュが毒を飲んで、私が剣を胸に刺す前に……でも、でも……これは現実だから、適当なところでフェードアウトしていってくれないから、だから……


 困り果てて、本当に砂になってしまうかというほどの沈黙のすえに、ようやっと私は声をしぼりだす。

「クラージュ……」

 でもそれきり話せなくなって、けっきょく、クラージュの方が私のびしょびしょの涙の膜の向こうで話しだした。


「ありがとう、花奈さん」

 うん。

「あなたに会って……あなたと……、友達になれたことは、ぼくにとって最良の出来事でした」


 ああ、こういうの、前にもあったな。

 うん。ううん。

 今の私には、うなずくことしかできない。


「大うそつきの悪党に生まれついて、親しい人にも呆れられるほどのぼくが、一度でも、善人になりたいと、そう思えました。あなたのために。あなたのように。……結果的には、失敗したけれど」


 私こそ。

 私こそ、背伸びしても背伸びしても届かなかった。クラージュがしてくれるように、クラージュのことを守ってあげたいと思ったけど、できなかった。


「今、こうして……あなたに、わがままをきいてもらって、ぼくは……」

 逡巡がある。

「悪党に戻ってしまったようです。あなたの心に消えない傷を残したい。許してくれますか……?」

 答える前から、もうクラージュの顔は近づいて、鼻がふれあいそうなほどだった。

 すぐにこたえる。私からも贈り物をしたかった。


 いいよ。傷つけていいよ。


 答えてすぐ、キスがあった。

 触れ合うだけの……たぶん、友達同士でももしかしたらするような……。


 それから、クラージュは自分の小指から、クラージュらしくない、ただ細い、小さな金色の指輪を一つ抜いて、私の薬指にはめた。たまたまかもしれないけど、左手の薬指だった。

「い、いやだ……クラージュ、それはいやだ……」

 拒否する力もない。ないけど、私は震えた。

 クラージュのアクセサリーはもうほとんど全部が真っ黒に錆びていて、もう金の粉は尽きかけて、クラージュの左腕からはとろとろ血が流れだしはじめている。この指輪はまだきれいな指輪で、これを使えば、まだクラージュは、一分でも十秒でも、まだ長生きができるかもしれないのに、なのにクラージュは、私を傷つけるためにこれを私の指にはめる。

 胸にいやおうなく、悟らされたことがある。一緒に死ねるなら、こわいけど、いいか、と思ってた私に、クラージュはもっと怖いことをしようとしているのだと。

 クラージュは笑った。私のことをまだ傷つける。

「さよなら、花奈さん」

 クラージュは立ち上がって、私とつないでいた指を一本ずつほどく。

 ほどかれると私の身体はずしりと重くなって、砂にじりっとお尻がうまる。


「……ここまで連れてきてくれてありがとう。あとは、ぼく一人で行けます」

「そんなつもりで来たんじゃないよ……!!」

 あなたを一人で死なせるためにここに連れてきたんじゃない。

 さっきのお別れは、輝神のためのもので、私たちは、手をつないで、ふたりで、怖い思いなんて一つもしないですむように……


 でもクラージュは、私に『魔法』をかけたみたいだった。

 クラージュはもう一回私にキスをする。今度は悪い魔法使いが、お姫様にするようなやつ。

 ずっと前、クラージュのいうことを私が無視することにしたとき、クラージュが意趣返しに、あのときは指で唇にふれてかけた『魔法』の。

 体の動きを止めてしまう、『人魚』の魔法。


 もう私にもわかった。

 クラージュは一人で毒を飲み、胸にナイフを刺し、形見の指輪を合図に、怪人の死亡記事を載せようとしている。


「実は裏でジュノたちと連絡を取り合っていたんです。あちらはもう準備がいいようですから、ぼくももう、行かないと」


 前にもこんなことがあった。幹也と、裏でこっそり、やりとりを……。でも以前とは、状況が違う。ちょっと私が拗ねてそれで終わりにできるような問題じゃない。


 クラージュ、やめて!! 私も連れてって!!!

 叫びたいのに唇が動かない。

 今まで、声にしなくてもクラージュは私のこと、なんでもわかってくれてたのに、今は名前を呼んでも聞こえないみたいだ。

 クラージュはざぶざぶ波を割って海の奥へ奥へ進んで行く。


 終わったんだ。というか、終わるんだ。私とクラージュの物語が。

 輝神がそう判断したんだって、これもわかる。なんでかって……だってそうだと思ったから。


 読む価値のない本は閉じられて、二度と開くことはない。その物語の主人公は、それから先どうするんだろう?


 私はいつの間にかわんわん泣いていた。

 クラージュが見えなくなって、私の身体が本当の重さになって、多分私から鉱脈の力としおりが失われてただの女の子に戻り、空は明るくなり、星は降りやみ、昼が戻って、あなたがいなくなって、輝神のための物語は終わりを告げ、世界に平穏が戻っても、ずっとずっと泣いていた。


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