閑話:怒りと真心を捧げよう
物語を終わらせろ。
エージェント・シバイヌの声が聞こえて、葉介はおぼろに思った。
看取ってやらなければならない。
三つ子の末弟、葉介は疲れ果てていたが、三きょうだいの中で、自分が一番『まとも』だと……人としてするべきことを分かっているべきだと……自認だけはしていたので、今このときも……彼は、それを心掛けた。
「母さん、巻き込んでごめん」
たった今娘を失ったことを悟った母親は、半狂乱で泣いていて、しかしなにかに……もっと大きな存在に縫い付けられたように、立ち上がることさえできない。
皆が皆傷ついていて、物語の進展は望めそうにない。
葉介はようやく、おぼろげに悟った。今この場で、まともでいることこそ、まともではないのではないかと。
そして、まともでない者が、これからどうするだろうかと、考えてみて……思った。
看取ってやらねばならない。かわいそうなナルドリンガを。
たとえままごとみたいでも。与えられた物語の小さな小さな小さな枠組みのなかで、認められた中でもがいてやりたい。
葉介は虫の息の、ナルドリンガの軽い身体を引き起こし、壁にもたれさせてやった。
花奈が今まで横たわっていたベッドの横の、据え付けの冷蔵庫をあけると、緑茶のペットボトルと、買ってきてそのまま入れたと思しい、ビニール袋に入ったままの安っぽい三連プリンが入っている。
葉介はその三連プリンの一つをもぎとると、袋に一緒に入っていたプラスチックスプーンの封をやぶった。
プリンのふたも剥いて、葉介もナルドリンガの隣、病室の壁に背を預ける。
「ナルドリンガ、分かる? ここ、俺んちね」
身を起こされ、名を呼ばれ、ナルドリンガはうっすらと目を開けた。
あれほどの美少女も、血を一瞬にして沸騰させられた彼女は体中を真っ赤にして、目や耳や鼻や口から、血や黄色い液体を流して、もはやお世辞にもきれいではなかったし着ている服も奇妙だったが、それ以外はただの女の子だった。
葉介は病室の中のものを次々指さして、ままごとにふさわしい調度を彼女に紹介した。
「これ、俺のベッド。これ冷蔵庫。あれ母さん。あれ兄。あれ近所の家の子。あれはペット。俺んちペット飼ってないけど柴犬。これお皿。あっちが玄関で、ここから俺の部屋」
リノリウムのクリーム色の床を、葉介は爪先でなぞって見えない線を引く。
そうしたら、目には見えない、二人にしか見えない小さな部屋が出来て、葉介とナルドリンガは二人きりになった。
「ほんとは、ケーキとかカフェオレとか女子が喜びそうなもの出してやりたいんだけど今日はプリンでごめんな」
葉介がプリンを一口分だけすくって、ナルドリンガの口元に差し出してやったが、ナルドリンガは、口を開けるともはや制御不能の唾液や血やリンパ液が流れてくるので、ほんのわずか、かぶりを振るだけだった。
葉介はその一口をひとまず自分の口に入れ、同じスプーンで再度すくい、ナルドリンガの口元へ持っていく。
とうとうナルドリンガは、口をうっすらあけて、たらたら血反吐を吐きながら、プリンを一口ふくんだ。味など分からぬだろうに、ナルドリンガは唇を笑みの形にする。
葉介のポケットの中のハンカチはナルドリンガの膝にひろげてやり、口元は葉介の服の袖口で拭った。
「彼女ができたら、部屋に呼んで、甘いもの食って喋ったりゲームやったりしたいなって……思ってた」
ナルドリンガはうっとりとした表情で、やっとその両の目を、血の涙をながしながら開き、恋人を見つめる。
ナルドリンガは幸福だった。
たとえままごとみたいでも。
女の子と付き合ったら、いつかそうするかもと思っていた通りに。
「……ようすけ」
ナルドリンガのかすれた声が、葉介を呼ぶ。
「ぷりん、おいしい」
葉介がもう一口、口元に運んでやると、ナルドリンガは砂に戻った。葉介がつまんでいた透明のプラスチックスプーンも同様に、塵となって、空に消えた。
離すのが遅かった指の、爪の先が少し削れて血が流れているのに気づいて、葉介は、倒れる力も泣き出す力もうしなって、ただ、血だまりと砂と灰の前で、うなだれている。
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軽剣士のソワレは、その齢、十にしかならない。ふつうの女の子がこういうとき、どうするのか知らない。
ラグルリンガの、血あぶくを噴いた口元をしきりに舐めてやり、血液をうしなって冷えていく身体をあたためるために、血で汚れた毛皮をかき分けるように自らの身体を埋める。
小山のごとき、あかがね色の毛並みを持つ大狼は胸で息をして、そのたびソワレの小さな頭が上下する。
ふと思い立って、ソワレは服をすぽんすぽんと脱いで、まはだかになり、ラグルリンガの毛皮に身を埋めなおした。
ソワレの知る戦場では、野営地にときどき娼婦がきて、もう手当しても助からないのにあてがったり、ゆくゆくは処刑されるであろう敵将にあてがったりしていたのをまねたのだ。
死にそうな男は女の肌を必要とするというのを、幼いソワレも知っている。
ソワレは差し出された真心の受け取り方も知らないし、差し出し方も知らない。今まさに死んでいこうとする者に、ほかに出来ることもない。
「お前、うそついたのか……?」
ラグルリンガは答えない。
ソワレは知っている。恋人になるためには運命が必要で、ラグルリンガの運命の相手はソワレだったかもしれないが、ソワレの運命の相手はラグルリンガではなくて、なのにそれをねじまげて、姿まで変えて、うそをついたことを。でもなにもかも許して、見送ってやらなくてはならないときがあることを。
娼婦たちが、どんなに自分が傷ついていても、生活のためだけでなく、思いやりのために、肌を貸してやるときもあることを。
父も母もなく、狼の流儀しか知らず、発達したおとなの身体さえ持たず、ソワレ自身に差し出せるものの少なさにくらべ、ラグルリンガのささげたものはどれほど大きいだろう。
そして、その真心に、以前も今も、今このときでさえ、応えられない。
もはや愛する人を抱き返す腕さえ、見つめる目さえ、返すべきことばさえうしなった狼は、腹にあるじの気配だけを感じながら、息絶えた。
ソワレは、ここがどことも知らぬまま、帰るすべさえあるのか確かめることもしないまま、ラグルリンガの魂が抜けきるまで、抜けきったあとも、そうしていた。
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エージェント・シバイヌは、城戸塔子を見つめている。
二年前、助けられなかった少女がなにもかもうしなって泣いているのを、ただ見つめている。
彼のポケットに、二年間、ずっとなにがあったのかを、ここで物語るわけにはいけない。
シバイヌはただ立ち尽くして、見ている。
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幹也は……幹也は、シダンワンダになにかしてやれるほど、情緒が発達していなかったので……そして、人目がある中でなにかできるほど、ずぶとくもなかったので……、血を流しながらうつぶせに倒れていたシダンワンダの腕を取り、引きずるように背に負った。そして、部屋を出ていく。
引き留めるものはなかった。シダンワンダはぐったりとなって、幹也の肩に頬を預けて、動かない。
二人の通った道に点々と血が落ちる。背中がじわあと温く湿って、肌にシャツが張り付いたが、
「俺にさわりたいんじゃなかったの」
血の濡れのほかに、背中にわずかな鼓動を感じる。それに、頬にわずかな吐息。
「名前呼びたいんじゃなかったの」
ふう、と幹也の頬に吐息がかかる。断末魔かと背筋がぞっとするが、それは、シダンワンダの微笑の気配だったらしい。シダンワンダが、吐息で話す。
「……みきやさま」
「様はなし」
「みきや……」
幹也の背に感じていた、鼓動が高鳴った。血の流れるのが増えたのが分かる。こういうとき、あまり話すな、と言うのが本当なんだろうな、名を呼ばせてやる約束と一体どちらが優先するのだろう、と幹也はぼんやり思った。
「なんであんたは……」
ここで、とうとう今まで、一度も名前を呼ばなかったことを思い出した。
「なんでシダンワンダは、俺のことを追い回したの?」
また、血の流れる量が増えた。吐息が答える。
「……あなたのことがすきだから」
「俺が食べたアイスの棒を拾ったのも?」
ふふ、と吐息が笑う。
「クラージュに……とられて……。……あれ……ほしかった……」
「キモいよ、悪いけど」
吐息は吐息だけでいらえを返した。幹也は少し考えて、言う。
「……購買行く?」
「……?」
「アイス食べる?」
吐息は吐息でいらえを返した。秘密組織に購買とかいうものがあるのも変な気がするが、実は、とにかく、ある。
思えば、シダンワンダとは歩いてばかりだ。ああして歩いている間に、ずいぶん足が強くなった気さえする。
幹也は行きたいところばかりに歩いていって、シダンワンダや花奈を引きずりまわしてばかりいた。
「購買行きたい?」
しかしもう、吐息での答えもかえらない。
幹也は背の少女をしょいなおし、急ぎ足で向かったが、たどり着く前に背は風が通ったように軽くなる。
あとには遺灰のごとき砂の山と、血で真っ赤に染まった、シャツだけが残った。




