24 灯台の乙女ら3
――少女同士の悲しき争いは、ナルドリンガの紅の両手剣で二十合、あるいはソワレの双剣で数えて四十合ほど打ち合わせたところで終わりを告げた。
……また別の悲劇が、始まっただけでしかなかったが。
男はとうとうあらわれる。
実を言って、彼はすでにもう満身創痍であった。
着ているものは血と煤となにかで薄汚れ、衣服の下の肉体の惨状も、おぼろげにうかがわせる。
身体にあまたまとっていた『計算尺』、不滅であったはずの黄金のメダルや指輪やチェーンや腕輪、彼の『魔法』を起こすのに使うデバイスの、そのうち半ば以上は、灰色や黒や茶色に酸化して、見るだに使用に耐えうるものではない。
大気は重い。その場のみなが呼吸をもとめてあえぐ中、『物語』は世界のすべてをほんのわずかに震わせて、その男の訪れをよろこんだ。
「……フラウリンド、やめなさい。真珠鉱脈の命が惜しいなら。
シダンワンダも、ナルドリンガも、やめなさい」
もはや開け放たれたままの扉から、クラージュが静かに言った。
背に長い葬列を伴って。
彼がしたがえていた自動人形たちの手には、すべて、鉱の小函が携えられていた。蒼玉鉱脈の小函も紅玉鉱脈の小函も、そしてむろんのこと、うるわしく輝く真珠でできた、真珠鉱脈の小函も。
クラージュはそれを手に取って、図書ホールにいるすべてのものへ高々掲げて示して見せる。
葉介は、思い出していた。
今となってははるか昔のことに感ぜられる、自分たち三つ子がこのグラナアーデを訪れるようになった二日目の晩のこと。
あの日葉介は、その小函を壊したらどうなるか、と脅したつもりが反対に、それをすればこれまで宝石を吐き出した小函は反対に、絶望を呑むようになるだろうと脅し返されたことを。
「神よ」
クラージュの甘い声は、善の心を忘れてしまったような、またこの場の悪のすべてを引き受けたような、懈怠なる粘性をもってその場にいるみなの耳を侵した。
みなが不吉と悲劇の気配を、濃密に感じ取っているのに、だれも止めることができないでいる。
坂道を転がり落ちていく乳母車から、目をそらすことすらできないように。
今まさに水底へ沈みゆく舟から、助けを求める声を聞くように。
ただ固唾をのんで、ことの推移を見守っている。
ことによれば、いまこのとき主導権をにぎっているはずのクラージュすらも、そうなのかもしれない。
クラージュは、九十九番目の軽銀鉱脈の邪悪なる従者は、甘く、何者かへ……重たくのしかかる空気そのものへささやいた。
「あなたのいとしごを、今あなたにお返ししよう」
――なぜ、今まで従者のかいなに抱かれたまま真珠鉱脈は目覚めなかったのだろう。まるで何者かに眠らされ、ときを待っているように。
フラウリンドの撥無の咆哮があった。いやむしろ、命乞いの懇願であったやもしれないが、しかしそれでうずまいて燃える大火炎が鎮まろうはずもない。
クラージュの手から、真珠の小函が投げはなたれた。それが宙にあるうちに暗い磁石色に塗られたクラージュの指先から、青い雷光が放たれて、真珠が本当は燃えようはずもないのに、なぜだか小函は、妖しの炎で燃え上がる。
ひび割れのような、あるいは焼き払われた枝木のような焼けこげが入って、フラウリンドの痛哭の叫びとともに小函は無惨に砕け散る。
次いで、大気が……いや、また世界がふるえた。不気味なよろこびの気配。
クラージュは絶望とともに地にくずれおちたひとかたまりの怪物と、乙女をつめたく見下ろす。
「……あとはどうぞ、ご自由に。
真珠鉱脈が窒息するまでここで抱きかかえていてもよし、地球に帰して来世のめぐりあいに望みをかけるもよし」
――真珠鉱脈が今このとき、やっと目を覚ます。
やせぎすの体の、柔らかく細い黒髪を生まれたてのひな鳥の羽がもつれたような、はかないベリーショートにした乙女は、自分をかいなに抱く者の姿を目にして、目を真ん丸にした。
口から出た言葉は
「あなたは……フラウリンド……?」
喉を使った拍子に、彼女の口からかすかなしわぶきがあって、鉱の姫君はおどろいたように、口元に手をやった。吐き出したのは、炎と煙に照らされてうすべに色に光る、真珠の玉だ。
小函が作られてより二十年のとしつき、肌から離されていた真珠鉱脈の姫君が、輝神の手元に戻ったのだった。
「……塔子」
今までもはや言葉さえ忘れてしまったように咆哮をあげていたフラウリンドの小さな小さな声が、なぜだかみなの耳にも届いた。
――もはやずたずたに針をあらかた折ってしまった、はりねずみのシダンワンダにとって、そして悪しき軽銀鉱脈の従者クラージュにとって、フラウリンドは敵に値しなかった。
傷つき、一塊のバロックパールとなり果てた怪物は、かろうじて主人を抱きしめる格好で、しばし動かない。
やがて……かよわき乙女は、その場の人々すべてに見守られながら、いつもなら気おくれしてなにも話せなくなるようなものであったが、白く冷たい真珠の鎧を、その柔肌に抱き返す。
「フラウなんだね」
怪物はなにも答えない。
「なにがあったの? けがしたの? 痛くない? してあげられることはない?」
「…………」
従者がなにも言わないので、真珠鉱脈は心細げな顔をする。でも、従者は黙ったままだった。
だからきっと、彼女は、この男が一体何を求めているのか、けんめいに考えたのだろう。
でも、フラウリンドは城戸塔子のいったいなにを欲しがるだろう。二年ものあいだ、二人きりで過ごして。何もかも与え、何もかも奪いあった二人が、まだ互いのものでないものを、残しているだろうか。
なにかするためには、二人のために残された時間はあまりにすくない。
なにか、奇跡でもおこらないことには。さだめかなにかが二人にささやいて、なにをすべきか教えないことには、ふたりともなにもしないまま、ときは尽きたかもしれない。
……真珠鉱脈は何もしらないはずだった。
この世界で今起こっていることも、従者の思いも、彼がしたこともされたことも、今このような姿になっている理由も。
なのにすべて解っているいるかのようだった。
真珠鉱脈は、城戸塔子はかつて耳のあったところへささやいた。
「――今まで、私の靴になってくれてありがとう。
――私の目と声に、なってくれてありがとう。
――私のために、こんなにもがんばってくれて、ありがとう」
その小さな小さなささやきも、なぜだかみなの耳に届いた。
まるで誰かが聞かせているように。
「でも、フラウはまだ、私にフラウの全部をくれてないよね」
塔子は知ってか知らずか、まどろむような表情でささやきつづける。
「フラウの心ぜんぶを私とみんなにちょうだい。
……私に花束をくれたら、ほかの子にも一輪あげて。私をほこらしい気持ちにさせて。
あなたが与えてくれるものを、よりいっそう価値のあるものにして」
「……塔子、それはなりません」
これが、奪われつづけ、あるいは与えられつづけた塔子が、自分のためでなくフラウリンドのためにした、はじめてのおねだりであったが、恋人は……フラウリンドははじめてだめという。
今まで、からめとるようにして塔子の自由をうばいながらも、塔子の望みはすべてかなえるよう努めてきたのに。
「わたしはそういうふうにできてはいないのです」
塔子はますます強く抱きしめる。
「これから覚えていこう。私の傷をフラウが真珠でつつんでくれたみたいに、私がフラウリンドの足りないところを補うよ。
そうして、きらきらになったフラウリンドで、また私をかざって」
塔子のまなじりから、真珠があとからあとからこぼれだし、床に落ちた小粒の真珠は、かつんかつんと軽い乾いた音をたてた。
乙女の抱擁によって、真珠の鎧は崩れだした。光る真珠の粉が重たい風に吹き散らされて、やがて怪物の鎧の奥底から、まったき真珠のような、美貌の男があらわれて……
しかしもう、そこまでだった。
命を削る戦いによって傷つき、すべての力を使い果たした従者は、力尽きて、塔子を腕に抱いたまま、指先からくずれてゆく。
「フラウ……フラウ!! だめ、死なないで!!」
塔子の悲痛な叫びもとどかない。あとには砕かれた真珠のような砂を残して、恋人たちの片一方だけが残った。
……………………。
「……ジュノ。真珠鉱脈を地球へ」
階下のクラージュは、目の前にした悲劇も、意に介してはいない。階上のジュノへ、冷徹に呼びかける。おさななじみは傷を抑えたまま動けない。
「――けがをしたのですね、ジュノ」
静かな声は、男の血臭をかぎ取っている。臭いが届かない程度には遠く離れているはずの、そして自身は返り血をあび、出血もしているクラージュが、なぜそれを感じ取ったかは、理屈では説明がつかないことだった。
クラージュは薄ら笑いを浮かべる。
「……ちょうどいい。みな這いつくばって鉱脈をもとの世界に返してくれと願うようにしてあげます。もう君を傷つけること能わぬように」
「……………………」
葉介が息をのんだきり、悲痛な静寂が満ちる。
今、目の前で起こったことに気圧されて……あるいは驚きか、恐れか、悲しみのあまりに、誰も言葉を発せない。
――クラージュはある意味で従者たちを信用しているのか……いや、鉱脈たちの命などどうでもいいのかな。
……と、いわば人質にとられた幹也は、頭の冷めた部分で考えた。
クラージュはどんなに従者が鉱脈に執着していても、心中の道は選ばないだろう、と、思っている。
……という態で、動いている。
幹也はそうは思わない。自分の姿もはりねずみに変え、ずたずたになって戦うシダンワンダや、止められても笑ってそれを聞き流し、人を殺そうとするナルドリンガが、自分や葉介の命を尊重し、地球に帰そうと翻意するなどとは。クラージュもそう思っていそうだ。おそらく。
クラージュが守らねばならないのはジュノの命だけだ。それが最低限、絶対の攻略目標。あとは……ほかの鉱脈の命とかは、トロフィーとか、アチーブとかの、ちょっと誇れる努力目標みたいなもの。ジュノの命が脅かされるなら、簡単に捨ててしまえるていどのもの。
とき同じくして生まれた、自分たち三人のきょうだいは……ともすると今ここでふたり欠け、花奈ひとりしか残らぬやもしれないと、なんとなく、思う。
……それでもいいか、とも、幹也は思う。
このグラナアーデで、一番に苦労したのは、間違いなく花奈であろう。
自分はシダンワンダから逃げ回っていただけだし、葉介は竜と遊んでただけだし。
ちょっとくらいは、花奈が報われても。
……一人だけ生き残るのが、報われるにカウントできるのかは定かでないが。
たとえばナマケモノは外敵に遭うと苦しんで死なずにすむように体の力をすべて抜いて弛緩するとかいうけれど、昨晩からストレスにさらされ続けた幹也の状態はまったくそれにあたる。
幹也は疲れ果てていた。
花奈がこの場にいたならば、それはハヌムヤーンの形見の品でもあるではないかと止めたかもしれなかった。
が、誰にとっても不幸なことに、花奈はいない。
クラージュは小函をもう一つかかげる。
それは紅色をして、ひとつのルビーから彫りだしたような美しいすがたの、紅玉鉱脈のための小函だった。
「いやああああああ!!!!!」
ナルドリンガのつんざくような悲鳴があがる。
今まで戦っていた彼女の敵、ソワレにはもはや目もくれない。自分の背を襲われる心配もせず、手すりに足をかけ、階下のクラージュめがけて飛びだす。
やめてくれ。
幹也は心底から願った。
壊すなら、蒼玉鉱脈の小函からにしてくれ。
願いはつぶやきとして口に出たかもしれない。
しかし出たとしても、本当に小さな声だった。
なのになぜ聞こえるのだろう。ナルドリンガの悲鳴に、かき消されもせず。
階下でぼろぼろになって戦っていたシダンワンダが、はじかれたように階上を見上げる。
戦いの終わりとともに体の針はすべて抜け落ちて、ようよう、丸はだかではあるものの、乙女の姿と戻ったが、その美貌にあるのは、絶望の表情であった。
シダンワンダは砂と化したかつての敵にも、ぽろぽろ真珠の涙をこぼすその主にも目もくれず、階段を駆け上ってゆく。
「幹也さんのもとへ駆けつけようというのですか? ……意味なんてないのに」
ナルドリンガの着地は間に合わない。クラージュがさっきしたのとまるで同じように高さまで小函を投げ上げると、磁石色をした爪から雷撃が放たれて、木っ端みじんに粉砕する。
ナルドリンガの手がせいいっぱいのばされたが、彼女の指につかまれたのは、ルビーのむざんな破片だけ。
ナルドリンガの痛哭のさけびはもはや、断末魔に等しくひびく。
クラージュは顔色一つ変えず、床に倒れ伏したナルドリンガに歩み寄り、その体を足で踏んで、『じゅう』とやった。
ナルドリンガの絶叫。全身から臭う蒸気があがる。
「やめろ!!」
取り残された葉介の口からも絶叫があった。
その目からはすでに、血涙のごとくあとからあとからルビーがこぼれている。
「……あの箱はなんだ? お前たちの大事なものなのか?」
唖然としたままナルドリンガを取り逃がしたソワレがひそひそ声で聞いたが、それに答える余裕は幹也にない。
幹也は葉介のところまではいつくばって寄って行って、血まみれのジュノのところに押し付けた。
「ジュノ、葉介を戻せ。はやく」
葉介が、ナルドリンガがこれから……これ以上どうなるか見る前に、地球に戻さねばならない。
「やめろ、幹也!! やめろ!! 離せっ!!」
葉介がもがいたが、幹也ははなさない。
「もうおれ達にできることないから。ジュノはやく」
血涙くらいならまだしも、すでに葉介は口からも血のように赤いルビーがこぼれだしている。真珠は消化できるかもしれないがルビーはむりだ。飲み込んだら摘出手術ものだ。命にかかわる。
怪我のせいで集中力が保てないのか、なかなかジュノの魔法陣は発動しなかったが、もはや猶予はなかった。次の瞬間、何が起こるかもう誰にもわからない。
「……花奈さん、ごめんなさい」
クラージュはつぶやいて、また一つ、小函を手に取った。
それはあかがね色をして、槌の跡も華やかな、誰の目にも見おぼえのない小函だった。それと絆を持つソワレにすら。
――あとになって、理屈をなにかつけるとしたら。
このときのクラージュも、倦み疲れ果てていた。
だから、背後から迫る者に気づかなかった。殺した者の顔も数も忘れていたし、あとで従者の遺灰を集めて、函に中身がない者を探しに行けばよい程度に考えていた。
しかし、それだけでは、かほどのうかつをしたのか、説明がつかないとするならば……。
導かれていた。
物語に。
そうとしか言いようがない。
なぜ次に破壊する小函を蒼玉鉱脈のものにしておかなかったのか、なぜソワレの小函を選んだのか、そしてなぜ、彼女の狼、九十八番目の百銅鉱脈の従者を勘定にいれていなかったのか。
彼方より爪が床を傷つけるざりざりとした音がする。
止めることはできない。
背後からやにわに襲い掛かったラグルリンガ、名のラグルの部分だけ残して、山のごとき大狼の姿をとっていた鉱の姫の従者は。
邪悪なる軽銀鉱脈の従者クラージュの、百銅鉱脈の小函を、掲げた左腕ごとかじりとり、口の中におさめた。
クラージュの唇から苦痛の声がもれる。
しかしクラージュは……魔法使いではなかったので、殺しに呪文は必要とはしない。首にかかったくびかざりの一つがひときわ輝いて、それが灰色に焼け焦げたのと引き換えに、ラグルリンガの絶叫があって、次の瞬間にはもう、彼の体は蒸し焼きにされていた。
「なんで……なんで!!」
ソワレも青ざめて、階下のホールへ飛び降りてゆく。
そこにいる皆が傷ついていた。無事な者などひとりもいない。
ソワレがまるで自分の小さな体で手当てするように、大狼の首根っこにかじりつくように抱き着いてほおずりする。
ラグルはうっすら目を開けて、ソワレの日に焼けた、しょっぱい頬をぺろりとなめた。
「人間を……襲っちゃだめだって約束、やぶってごめん……ソワレ」
「お、お、お前……!!」
狼の喉で無理やりだした人間の声はしわがれていたが、幼い言葉遣いだったので、ソワレにもわかりやすかった。
わかりやすかったというのは……彼の正体のことだ。
「おまえ、おまえ、おまえ……ラ、ラグルリンガ……?」
「……」
ラグルリンガの喉から、何かがつぶれたような、悲しげで甘えたようなくぐもった声がして、その体はぐったりとなった。
主の小函を咥内に守ったまま、そしてクラージュの左腕を食らったまま。
息絶えたのか意識を失っただけなのかはわからない。確かめるような余裕はなかった。
食いちぎられた片腕を、クラージュが纏う種々の計算尺から沸き立つように浮かび上がった金の霧が覆う。噴き出していた血は止まった。血だけは。
クラージュはさすがに一度よろめいて、膝をついた。倒れ伏すかに見えたが、歯を食いしばって、もはやあの貴公子然とした立ち振る舞いも忘れたように、底知れぬ暗黒めいた呪詛を吐く。
「……おまえたちすべてを塵に返し、異世界に返し、大地を焼野に変え、神さえ虚空の彼方に追放するまで、ぼくは死ねない」
残された右腕をラグルリンガに伸ばす。
今攻撃をくわえれば、百銅鉱脈、ソワレも道連れになるだろう。
しかしあわやというとき、息をひそめていた物語は見計らったように最後の手ごまを動かした。
「――照覧あれ、暗黒とふるえの間にいませたもう我がまことの主、×××××よ。
ここがまことの地獄、わたくしがまことのしもべ」
その乙女が呼んだのは、人の耳では聞き取れない名だった。
それが名なのだろう。
『輝神』とか『物語』とか『世界』とか『あれ』とか、大海の塵芥に等しい人間たちから適当に呼びならわされたものではなくて、もしかしたらそれ自身が自らに与えたもの。
先ほど階下から階段を駆け上がって以降、幹也のそばに駆け寄っていかなかった忠実であったはずの従者。
シダンワンダは、幹也と二人、ときを過ごしていたあの、黄色いテープでかこわれた、踏み入れるのを禁じられた範囲に足を踏み入れて、幹也に与えられていたタブレットを、資料の山から引きずり出していた。
幹也は知らなかったが、シダンワンダはすでに幹也の書く文字をすでに読めるようになっている。
幹也がさぐりあてていた、広い広い宇宙における、グラナアーデと地球の位置関係を、シダンワンダも見つけ出している。
今までそれを言わなかったのは、あれほどそっけない幹也が、本を探せというだけは、シダンワンダのために、シダンワンダのためだけに、グラナアーデの言葉で文字を書くからだった。
シダンワンダは知りたかったのだ。愛する男の研究成果を、愛する男の住む国の場所を。
訪れることのできない愛する男の故郷の場所を目でなぞり、心に思えば、シダンワンダは満たされたから。
しかしいまこのとき、神が読めなかった、また誰にも読み上げられなかった、物語に今まで登場しなかったキー・ワードを、シダンワンダは高らかに読み上げる。
こうすることでどうなるか、シダンワンダにはわからない。
ジュノによって幹也が返されれば、そのまま永久の別れとなるはずの、あるいはジュノが殺されても末永くは添い遂げられないことを悟った彼女が、できる唯一のことが、しかし、これであった。
小函を壊されて幹也が窒息をするくらいならばクラージュに目にもの見せようという思いはもちろんのこと、シダンワンダには勝算があった。はかないものだが。
×××××が、敢えて鉱脈とその従者を引き離そうはずがない。
大海にうかぶひとひらの木ぎれの位置さえ『それ』が知ったなら、このこわれかけのつまらぬ世界を見捨て、新たな世界に鉱脈と、わが身の分身、鉱脈の従者らを投じなおすに違いないという、期待と願望が。
……いや、あるいはそれも、物語がそうあれかしと定めただけのことなのやもしれない。
彼ら彼女らに自我などないとクラージュが断じるように、鉱脈の従者は、神の耳目、手指、あやつり人形にすぎないのやも。
あとからならばどうとでも理屈はつけることができるし、またあるいはどう考えようともしっくりとはこない。
とにかく、シダンワンダはささげて見せた。
焚書もままならぬほど稚い世界を。
こわれかけのグラナアーデの代わりに、地球を。
これが物語がむりやりにいざなった、役者たちの険しい道のゆくすえである。




