22 灯台の乙女ら1
また三人称に(ごめんなさい)
「――どうぞ。開いていますよ」
ほんの数秒で万端ととのえてから、クラージュは扉の向こうへ声をかけた。
はたして開かれた扉のすきまから、訪問者の顔が見えたか見えないか……要するに、あちらからもまだこちらの状況が分かったかわからないか、のうちに、短剣が放たれる。
狙いは正確であったろう。
しかし銃声か砲声とも聞きまごう炸裂音とともに、扉に這わせるように張っていたいかづちの網が短剣を粉砕した。
そのついでに、襲撃者の右腕も室内に侵入した分だけ、切り刻んだ。
たとえばちょうど、たまご切り器がゆでたまごを粉々にするように。
赤く濡れた賽子ほどにも細かな肉塊の山となって、襲撃者の……フラウリンドの右腕は崩れ落ちていく。
すべての血濡れの破片が床に落ちるよりも早く、ふたたびの耳をつんざく炸裂音。
まばたきよりも短いわずか一刹那、室内を照らした。
いかづちの網がフラウリンドの無事な上腕までもをからめとりつつ、クラージュがはなった雷撃が一直線にフラウリンドを狙ったが、そして雷撃はあやまたずフラウリンドの胸のあたりを見舞ったように思われたが、閃光が晴れたとき、もはやその場に彼の姿はなかった。
勝機なしと見て一度退いたのだろう。
クラージュの雷撃音のほかには、死ねとか殺すとかの悪罵の一つすらない、もの静かな襲撃であった。
「……もう一つ手前に網を張ればよかったな。そうしたら肘まで崩せていたかも」
赤く汚れた床を見つめて、クラージュはひとり言を言う。
「……さっきの、誰……?」
幹也はフラウリンドを知らない。
「九十九番目の真珠鉱脈の従者です。真珠鉱脈が地球に帰るのが気に入らず、地球への道を永久に閉ざすために、ジュノの命を取りにきたのでしょう」
手短な説明を聞くと、幹也はせいいっぱいの礼節を保ちつつ、胃の中のものを少し吐き戻した。プレッシャーに耐え切れなかったのだ。華美な洗面器があったので遠慮なくそれを使う。
顔を洗うための実用品か、ただの調度品かは定かでなかったが、たいしたものは出てこなかったので、幹也はすこしほっとした。昨日の昼からなにも食べていなかった。
「……帰りますか、幹也さん」
いちおうクラージュは再度聞いた。幹也はかぶりを振る。
もはやこの城の中で安全なところはどことしてないが、しかし逆に、今、花奈のための本だけは選ばせておかなければ、あとで幹也を安全に呼び出せる保証がない。
投げ捨てた装置を拾いあげつつ、洗面器のものを続きの部屋の洗面台に捨てに行く幹也を見送りつつ、おとなたち二人は短く話し合った。
「すみません、ジュノ。こうなると分かっていたのに」
「いや、かまわない」
ジュノはかぶりを振る。
狙われたのが自分の命だったとは、あるいは今まさに襲撃者の血だまりを前にしているとはとても思えない、気負いのない調子だった。
――こうなると、とは、フラウリンドを人払いせずに、塔子に地球への帰還の話をさせたことを指す。
フラウリンドには輝神の重圧が垂れ込める以前から、ジュノの命を狙う動機がある。
そうしてしまえば塔子は二度と日本には帰らないからだ。
もう二年もの間、蜜月を過ごしてきた塔子を、フラウリンドは一時的にも手放さないだろうとクラージュはわかっていた。
フラウリンドはその二年間、主人とながい時間を過ごすよろこびに酔いしれきって、今後、塔子に制御できるとはとても思えなかった。
それがわかっていて、なぜ、聞かせたのかといえば……花奈に、ごまかしていると思われたくなかったからで……そして、いざとなれば塔子をこちらに引き戻して二度と帰さないか、あるいは……塔子が望まないならば、殺してしまえばいいとも思ったからだった。
さすがの花奈も、あちらから命を狙ってきたのだとしたらとがめないだろうと。
すくなくとも昨晩までは、やむを得ない状況においてのみ、フラウリンドの命ひとつを消すつもりだったものを、いまや例外をみとめずすべての従者を殺すことになろうとはそのとき思ってもみなかったけれど。
そして、このように輝神の気配が満ち溢れる状況下で、その手ごまと相対せねばならなくなるとも、考えていなかったけれど。
あと……すべての従者の命をねらうなら、フラウリンドを最初のひとりにするのは少し『もったいなかった』かな、とクラージュは思う。
二十年前、九十八番目の軽銀鉱脈の従者であるところの白き帯は、クラージュが引き離していたにも関わらず矢車菊の帰還を察知して、あのような惨劇を引き起こしている。
心当たりといえば、矢車菊の帰還の儀式の席から、九十八番目の真珠鉱脈の従者を人払いしなかったことくらい。
従者が輝神の耳目にして人外であるからには、不知の手段によって、あるいは輝神をとおして、互いに何らかの意思のやり取りをしていてもふしぎではない、とクラージュは思う。
どうせ殺意をもって攻撃してくるのなら、ひとりかふたりは不意を打っておけるうちに打っておければ楽だったかもしれない。とくに、ラグルリンガあたり。
「……やることが多いな。どうしましょう?」
幹也に本を探させること、従者を尽く消すこと、たまたま今ここにいる不運な鉱脈たちを故郷にかえし、ジュノを目立たぬところに……少なくともこの城から離れたところに隠すこと。
少なくとも自分をふくめた従者すべてを消し去らないと、世界が終わるかもしれない。となるとそうなる前に鉱脈たちのことは早く返してやらねばならない。
「今ここにいるのは、真珠鉱脈、蒼玉鉱脈のみだ。深夜から早朝にかけてだったのが幸いしたな」
「おや、そうでしたか。では……幹也さんのことは任せても?」
「かまわん」
クラージュはさらに思案した。
鉱脈を帰し、従者を殺し、ジュノを逃がして自分が死ぬとしたらこの城は無人になる。
「――『焚書』はぼくがすませます。まずはこの部屋を出て、フラウリンドの息の根を止めておかないと危なっかしくて仕方ない。
もうよしとなったら連絡しますから、それまで幹也さんと図書室にいてくれます? 少なくとも資料を揃えて幹也さんに持ち帰ってもらえるようにしておかないと。花奈さんが地球で死んだらぼくのほうだって死んでも死にきれない」
この際ステンドグラスも含めて城ごとすべて焼き払ってもいい。
焚書は徹底しなければ、焚書とは呼べない。
「シダンワンダはどうする?」
「最後に回さざるを得ないでしょうね。幹也さんに死ねと命じてもらうのが簡単かもしれないけど」
「クラージュ」
ジュノの静かな声にたしなめられ、クラージュはほんのわずかだけ、目元をゆるめた。
「……こうして話すのは久しぶりですね」
「…………」
ジュノはうなずいた。
かたや輝神にしおりを挟まれたクラージュ、かたや輝神のお気に入りをこの世界から引きはがすジュノ、それぞれに与えられた役割に気づいて以来、二人はほとんどの接触を断ってきた。
二人が顔を合わせるのは、鉱脈たちの召喚、帰還の限られたとき。
それ以外は目も合わせないようにしている。
優し月が黒き魔法陣にからめとられたときも、大火炎の心中を不可視の指が荒らしまわったときも。
だから、クラージュはこう声をかけた。
「息災でしたか」
もう二十年、ジュノとはまともに口をきいていない。ジュノは頭一つ分小柄なおさななじみを見下ろす。
「……それなりに」
「ぼくもそれなりに元気でした」
のこされた時間の少ないことは、ふたり、わかっていたが、しかし、お互い話したいと思っていたことのほとんども、ながい年月の間に摩滅していた。
だから多分、一番考えないようにしていたことだけ、今口をついて出る。
「……あのとき、なぜ月光花を摘みに行ったのが俺でなかったのだろう」
「それはもちろん、きみが優し月で、ぼくが大火炎だからでしょう。二十年、ぼくはほんとうにうまくやってきたと思いますよ。きみだったらここまでやれたかな?」
「そうも思う」
ジュノは挑発的なことばなどに乗るような男ではない。そうでなければ長い年月、受け継いだ魔法陣を守ることなどできなかったろう。
「しかし今このとき、結末を見れば、俺は命を拾われ、汚れ仕事を担うのも、犠牲となるのもお前となった」
「ぼくは忍耐を試されるほうがよほど嫌いですから、それぞれ適任に収まったのでは……」
ここでようやく、クラージュは年上のおさななじみが自分の十分の一ほどもしゃべらない、寡黙のたちだということを思い出した。
「……ぼくも考えましたよ。ぼくだけ魔法を伝授されなかったのはなぜだろうと。ぼくが邪悪だったからかな、でもハヌムヤーンもわりと邪悪だったけどな、と。
でも、ぼくはきみと違って悪がしこかったので、きみと離れて三日で気づきました。
ぼくが魔法ではなく悪だくみを教わったのは、ぼくが火炎のごとくはげしく、きみが月のように優しかったからだと。
きみは気づいていなかったのですか? では二十年さぞ辛かったでしょう」
大火炎は大柄の優し月の正面へ行って、背へ手をまわし、三秒ほど抱擁した。
自分の主人が自分を思いやったように。
そうして、すぐ離れた。ジュノを見上げてクラージュはにやりと笑う。
「幹也さんに誤解されるといけないので」
ちょうどそのとき、まるでクラージュには目が二つ以上あるように、隣室から洗面器を片付けて口もゆすいでやっと人心地ついた幹也が戻ってくる。
帰るなり幹也は眉をひそめた。
「ドアのとこの、片付けといてくれたらよかったのに」
「たしかに。失礼、気が利きませんでしたね」
清掃用の自動人形がやってきて、床のものをかき集めて去っていく。
道が空いて、クラージュはもう一度、おさななじみを見上げて笑う。
「この人がぼくを殺すのだと思いながらする恋はなかなか刺激的でした。
でももうそれも終わり。逆の準備はしていません。
……稀代の天才も兵器も医療も役に立たないような、未曾有の大災害を前にして、たった一艘、愛する人を乗せるための小舟としてわが身が使えるかもしれなかったら、それは、底が破れているかもしれなくても、舟ごと嵐に飲み込まれるとしても、それだけで賭ける価値はあるでしょう?」
クラージュがふと窓際の花に目をやる。
花奈が来る前に一輪つんでコップに挿していた、マーガレットの花だ。
もはや昨日までの、日常の形見になり果てたもの。
花は昨晩からのことで萼からうなだれながらも咲いていたが、ふと一片、花びらが散った。
そしてまた一片、また一片。
ひとりでに、いや、見えざる手が花うらないをしているように、順繰りに解剖された花は、しまいにはおしべめしべもひとつひとつもぎとられ、窓辺に一列に、大きさ別にならべられる。
コップのふちには逃げおくれたてんとう虫が一匹、飛び立つ場所も見つけられずにぐるぐると駆け足で回っており……
三人は息をのんでそれを見守った。
大いなる存在にとって、花一輪と虫一匹、そしてにんげん一人、いかほどの違いがあろうか。
それきり二人と一人は別れた。
工芸技術の粋を集めたステンドグラスが、朝日でぬらぬらと輝き、磨かれた白い床、壁、クラージュの白皙へ、色とりどりの影を落とす。
クラージュは廊下の血痕を追った。
深手に対し、血の量はあきらかに少なすぎたが、通常とる人間の姿さえ仮のもの、男にも女にも狼にもなる従者であるから、傷を埋めて血をとめるくらい造作もないのだろう。
すすむにつれ、落ちた血の量は更にも、明らかに減ってゆき、クラージュは自分の血を踏んだと思しき汚れた靴跡だとかを追った。
痕跡の持ち主が身を隠しただろう一室をつきとめて、クラージュはしばし思案した。
彼は勇者でも大魔術師でもないから、気配を殺すだとかあるいは察するだとかの技術をもたない。
結局クラージュは、袖を軽く振って、その隠しからひとつ計算尺を取り出した。
彼が身に着ける宝飾品は、花奈が翻訳装置とかいろいろの名前で呼ぶメダル、指輪、かたちはそれぞれでも、すべて計算尺とひとまとめに呼ばれるが、これは中でも特別製の計算尺。
最初はただの小さな玉だったものが、クラージュの意志に従って、点が線に、線が面に、面が球に、そしてその球に光の粒が取り巻いて、球の奥底からも光の走る、立体回路に展開する。
地球で同じ名前のついたものとはまったく異なる姿の計算尺は、クラージュの身に着けた金銀財宝と共鳴し、ひときわまばゆく輝いた。
放たれた光は草木のごとく節立ってゆっくりと伸び、城の床、天井を這うようにして、やがてすべてを掌握する。
光の枝木が扉の隙間に忍び込んで数秒ほどして、扉がけり開けられる。
クラージュはとびのいた。
室内はもうもうと異様な熱気がこもっていた。
扉をけり開け、部屋を飛び出したフラウリンドの目は真っ赤に充血し、全身からもうっすらと湯気をたちのぼらせている。
「――部屋にはいりなさい。ここでは真珠鉱脈があなたの無残な死体を目にすることになるかもしれませんよ」
冷たいことばに、フラウリンドはただ、引き下がり、また熱い室内に下がっていく。クラージュは追わずに、ただ戸枠だけが残る扉の前で待った。
――クラージュはただ、室内の水分子をふるわせただけ。
花奈が、電子レンジと一緒だ、すぐお湯が沸く、だとか言ってお茶のたびに喜んだのと同じ技術。
「見逃してはいただけませんでしょうか」
真珠がどんなに輝いても、光の根源は漠としてつかめないように、端正ながらも特徴のうすいフラウリンドの白皙から、表情は読み取れない。唇のかたちだけが弧をえがき、笑みの体裁をとっている。
「もう二十年、口もきかなかった男の命をなぜ救う必要があるのです? 道など閉じてしまえばよいではございませんか。
あわれな軽銀鉱脈は水に沈めて閉じ込めておけばよい。切り花程度には保ちましょう?
知らぬところで幸せになろうと、それこそ我らの知ったことではない。
鉱の姫君は、我らの腕の中で幸福にとろけてゆけばそれが我ら、鉱脈と従者の本望。
百年の蜜月と、末の心中こそが幸い」
「……雑な誘惑ですね。ふうん、従者の愛ってそのていどなんだな」
たちまち、調度としておかれた、人ほどもありそうな陶製の花瓶が、目にもとまらぬ速度で投げつけられた。
人の身がこれほどのものをこれほどの速度で投げとばしたら、――もしそんなことが可能だとして――それだけで、投げたほうが大けがをしそうな花瓶は、クラージュへあやまたず飛びかかり、激突せんとしたその瞬間に、彼の黄金のコインチェーンの幾列かが赤熱する。チェーンが内包する回路ごと焼ききれ、灰色に錆び、ちぎれとびながらも、衝撃は防がれた。
クラージュの計算尺がきらめく。
「――ほんとに、ばかだな。そんなことしたら花奈さんに嫌われるじゃないですか」
彼の、元は金茶をしていた目は炯々と黄金に輝き、指輪や腕輪や耳飾りは、もう高く上がった、ステンドグラスごしの朝日に照らされてもなお明るく、青い火花を散らしている。
クラージュはただ立ったまま、フラウリンドを見つめた。
「……ぼくはね、善人になりたかったんですよ」
一歩だけ歩み寄る。
「本当に、今でも、狂おしくそう思っています。
でももう、せっかく花奈さんが灯してくれた、他人のための胸の火は消えてしまった。もう戻らない。……おまえたちのせいで。
こうやって別れてそれきりにしておかなければ、せめて花奈さんの心の中だけででも善人として生きることも叶わない。
――君たちは違うんですね。人形同士が互いに互いを飾りあって、自分の見たい姿を見るみたいな、おままごとの恋で十分だったんでしょう?
だからあんなばかげたことを、さも魅力だろうみたいに、最後の手段みたいに、提案したんでしょう?
まあ、それでいいと思いますよ。君は人間じゃないんだから」
クラージュの黄金のコインチェーンがまた幾列かがちぎれとんだ。
と同時、フラウリンドも不可視の衝撃によって吹き飛ばされ、壁に打ち付けられぐったりとなる。
クラージュの掌の中で浮く球の計算尺が、二度ほどわなないた。
「……ぼくもこんなばかげたものを振り回したくはないんです。下がりなさい。
さもなければ真珠鉱脈の居室におなじことをします。彼女は何秒もつかな?
……死んだふりはよせ。起き上がって膝をつけ、フラウリンド」
体中の血液を沸騰させたあわれな犠牲者の、身の毛もよだつような絶叫と、怨嗟の声にも、クラージュは眉ひとつ動かさなかった。
あわれなフラウリンドがもがくこともしなくなると、ただでさえ息苦しい城内の空気が、吸っても肺腑の奥まで息が届かぬ気がするほど、重さを増す。
輝神はとぐろを巻いている。
従者を損なったことできげんを悪くしているのか、それとも物語の進展を喜んでいるのか、矮小な人間には、推しはかることすらもできない。
大悪人はしばしフラウリンドを見下ろしていたが、そばの自動人形に言いつけて、死体が遺灰に戻ったら、小函におさめ、持ってくるように伝えた。
そして続けて、九十七番目の黄金鉱脈の従者を手にかけるべくきびすを返す。
連なった葬列は長く長く伸びた。
その先頭を、クラージュは歩いている。
城中から呼び集めた自動人形たちを一列にして、霊廟から持ち出した鉱の小函をひとつずつ捧げ持たせた、静かな葬列だった。
小函は、まだ主人を持たずぎっしりと灰をおさめたままながいこと過ぎていたものもあり、すでにクラージュが手を下し、まだ熱いままの灰がおさめられたものもあった。
すべての小函を満たすために、クラージュはいくつもの部屋をまわった。
善人に、なりたかったかといえば、本当になりたかったけれど。
もともと、向いてはいなかったな、とも思う。
――生物的にいうのなら、これは惑星すべての生き物と鉱脈の従者との生存競争であり、道徳的にも自らの心になにひとつ恥じるところはなく……いや、そのこと自体が恥だろうか。
――こうするしか方法がないのかといえば、本当はそうではないのかもしれない。
ただ、これ以外にできることが思いつかないだけ。
焼き尽くされた書籍はもどらず、当時五歳にしかならなかったクラージュと、その二つ上のジュノに継承できた知識は少ない。
もしかしたらひとこと唱えればすべてがかなう、魔除けの呪文でもあったのかも……。その程度のことは想像して笑う権利くらい、クラージュにもあろう。
これに効果があるのかもわからない。ないのならこれは、ただの……。
……いや、赤い血を流しきったあと、ただの砂になってしまう、『これ』を、クラージュは人間だとは認めていない。人間らしい倫理観もないし……いや、いや、いいや。これは自分を棚に上げた考え方だ。クラージュは思った。
ただ……ただクラージュは、たとえば培地に目的の組織が目的通り増殖しなければ、自分だったらその培地を放棄するなと、想像しただけ。
クラージュは思った。
ほかにできることが思いつかない以上、あがかないほうが恥だと。と同時に、今していることを、花奈には知られたくないとも思う。この感情も、恥に似ている。
花奈ならどうするかなと想像することもしていないし、心に住まわせると言って花奈を慌てさせたもののことも、意識して思い出さないようにしているし……
クラージュは自分に甘かったので、やってはいけないと知りつつ、ようするに『シロクマのことを考えた』。
心の中の、奥まっていちばん日当たりのよい、温かい窓辺に腰掛けさせている花奈は、風に吹かれながらうつらうつらとしていて、クラージュのほうを見なかった。
それを思うだけで、胸の消えた灯りがともるような思いがしたけれど、やはり現状は窮したままで、しかし、それでよかった。
灯台の乙女はうつらうつら、クラージュの一番よいところで、舟をこいでいる。
クラージュは、それだけでよかった。
――物語には、ありがちなことだが……。
そして今、クラージュは輝神の作った物語の、逃れんとも逃れがたい、中心にいるがゆえの、いわば必然である、と言えることだが……。
輝神の耳目にして手足である、九十九番目の真珠鉱脈の従者の、殺害現場となったあの一室。しばらく無人となっていたあの一室が、熱気と断末魔の余韻も冷めてひえびえとなったころ。
たしかに息絶えたかに思われたフラウリンドの指が、ぴくりと動く。
たしかに鼓動をやめていた心臓も、ぴくり、ぴくりと動き出す。
そして、自らを抱え上げようとしていた自動人形の首をつかみ、その掌が握りつぶす。
まったく、物語にはありがちなことであった。




