21 多分、きみのために
行ったり来たりですみません。(まだ行ったり来たりします)
今度は地球なので、花奈視点です。
誰かに名前を呼ばれた気がして、私は目を開けた。
この人が呼んでくれてたんだったらいいな、と思う人はいたけど、目の前にいたのはお母さんだった。
「花奈ちゃん、具合は?」
具合。ちょっと頭を動かしてみようとしてみて、めちゃくちゃ重たいってことにようやく気付く。真っ白い枕と布団にほっぺたがうずもれて、窒息しそうだ。その私を、お母さんがのぞき込んでいる。
そうだった……組織のとこまで来て、病室を一つもらったんだった。あのままだったら、家の床が抜けそうだったから。
「よくないかんじ……」
「血圧のお薬を寝てる間にちょっと入れてもらったから、感じが違うかもしれないね」
ごりごりごり、と石臼をひくような音がしそうなくらい重たい首をなんとか回して左腕を見ると、点滴用のハンガーと、予防接種のあとみたいな小さい四角いばんそうこうが貼ってあった。
「起き上がれる? お風呂に入ろう。それで重たいのは楽になるよ」
横になってた白いベッドは介護用ベッドで、ハンドルで高さや背もたれの角度なんかを変えられるタイプ。隣においた丸椅子に腰かけてたらしきお母さんは、背もたれをぐるぐる回して、私の角度を変えていった。
「重たくない?」
「重たくないよ」
お母さんはせっせとハンドルを回している。背もたれはゆっくりゆっくり起き上がっていった。
病室はリノリウム張りの床で、壁と床と天井は曲線でゆるやかにつながれて、『角』がない。宇宙船みたいにのっぺりした印象だ。
窓かなと思ってたものはプロジェクターで映された風景映像で、作り付けの棚に学校用のかばんと、教科書とかノートとかが置いてあった。
ドアはデザイン違いで二種類、ひとつずつ。
デザイン違いっていうか……ごく普通の、たぶんトイレかお風呂かに通じてそうなドアがひとつと、もうひとつ、たぶん廊下に通じてるんだろうドアがあって、そのとなりに椅子、元女装のエージェントが、私が眠る前と同じ、ラフなシャツとパンツの恰好で腰かけている。
そのドアは潜水艦に使うみたいな、金属製でいかにも気密性の高そうな、ハンドルをぐるぐる回して開けるドアだった。中のものを空気も含めて外に出さないっていう強い意志を感じる、やばそうなドアだ。
「女性の寝室でくつろいでて悪いね」
元女装の変態は、目が合うと、座ったまま言った。多分、これ以上は近寄って行かないよアピールだと思う。
お母さんにぐるぐるやってもらいながら、私はそっちへ声をかけた。
「……いっつも、脳内で……」
「うん?」
「いっつも脳内で、女装の変態って呼んでる……」
「無理ないね」
彼は笑った。
「ここではみんなコードネームで呼びあうんで、本名は職員同士、みんな知らない。女装の変態って呼びたかったらそのままでもいいけど、一応、エージェント・シバイヌってコードネームがある」
私はまだしぱしぱする目をこすりながら、まじまじそのシバイヌを見つめる。
「シバイヌ? シバイヌでいいの?」
「子どもを担当することが多いんでね。名乗るだけでかわいいーってなるの、メリットなんだよね」
エージェント・シバイヌは言った。そうか……高校生はまだ子どもか……。
うながされたとおり、お風呂に入った。
二つあったうちの薄っぺらそうなほうのドアの向こうがユニットバスになっていた。
わりとしっかりした、両足を伸ばしてつかれるサイズのバスタブにはぬるめの白いお湯がすでになみなみ張られていて、まだ別に歩けないほどじゃないんだけど、心配性のお母さんが支えてくれて、しょうがないから子供みたいに助けてもらいながら服を脱いで、かけ湯して、さっさとつかる。
「寒くない?」
「ちょうどいいよ」
「冷めちゃったら追い炊きするから、頭だけちょうだい。洗ってあげる」
お母さんはバスタブの隣におもちゃのじょうろを持っていて、お湯をそこに汲んでから、お風呂のお湯で私の髪を洗ってくれた。その間に私はお湯につかったまま体を洗う。
泡はシャワーのお湯で流して、肌から流れちゃった入浴剤は、じょうろに取り分けてあったお湯を頭からかぶった。
「なつかしいね。ちっちゃいときはよくこうやってじょうろとか水鉄砲とか使って、お風呂で遊んだね」
頭のてっぺんから私をびしょびしょにしながら、お母さんは楽しそうに言った。
目に入るとちょっとしみるから、ぎゅーっと目も口も閉じて耐える。たしかになんとなく、既視感のある感じだった。胸がふくらみはじめたころからは一人でお風呂に入ってたけど……
お湯がかかってこなくなったタイミングで顔を手でごしごしこすりながら上げると、お母さんは泣いていた。
「ごめんね。ごめんね、花奈ちゃん。お母さん、気づいてたのに。放任のいいお母さんを気取って、花奈ちゃんをこんなことにしちゃった。ごめん。ごめん。ごめんね」
「………………」
胸に後悔の大波がおしよせて、私はもう一回顔をごしごしこすった。涙が出ていた。お母さんはじょうろを放り出して、濡れるのもかまわずに、びしょびしょの私をぎゅっとする。
「ごめんね、花奈ちゃん」
「ごめんなさい、お母さん」
何やってたんだろう、私。
こんな風に親を悲しませて、成し遂げられたことは結局なにもなかった。
幹也も葉介も、ソワレも、塔子さんも、ナルドリンガ、シダンワンダ、ラグルリンガ、そしてフラウリンド、誰に対しても結局、何にもしてあげられなかった。
私が自分のことを、黙ってさえいなかったら、こんなことになる前になんとかなったかもしれない。
そうでなくても、クラージュにお別れくらいは言えたかもしれない。
ちょっとでも一緒にいたいなんて思ったばっかりに、たぶんもう、二度と会えない私の……友だち。
バスタブのお湯が抜けきるまでのちょっとの時間で泣き止んだお母さんは、入浴剤を肌に残すように、タオルでおさえて水気をとってくれる。
クラージュからもらったこの入浴剤は、説明書によるとナノマシンの塊で、お湯に溶いてつかれば、肌表面に吸着して筋肉組織の働きをうんぬんかんぬん。湯上がりは久しぶりに体が軽くて、今なら体育の授業もらくらく受けられそうだった。
湯上りにさらっとした肌触りのワンピースを着て宇宙船の部屋に戻ると、エージェント・シバイヌはいつの間にかいなくなっていた。3分くらいの間ドライヤーを使ってもらっていると、そのうち帰ってくる。
出入りされて初めて気づいたけど、この部屋の出入り口は少なくとも二重になっているようだ。
ちらっと見えた扉の向こうは、またもう一つのハンドル付き扉だった。
「朝ごはんを調達してきたよ。おなかが減ってなかったらあとに回して」
シバイヌは全粒粉入りの茶色っぽい食パンで挟まれた、たっぷりのトマトとレタスと卵とチーズの、健康に良さそうなサンドイッチと牛乳を差し出す。
部屋のテーブルはコーヒーテーブルで小さかったので、私はベッドに腰かけて、お母さんがテーブルで、シバイヌはテーブルなしの椅子でそれを食べる。
シバイヌは食べながらいろいろ話した。
「体重を増やすようなことはおすすめしない。
今使ったナノマシンはあくまで筋肉の動きを補うもので、重力自体を和らげてるわけじゃないからね。体重が重くなれば、重力の影響も増えるし、特に内蔵への負担は大きくなると思うよ」
「ローカロリー・高カルシウム・高たんぱくの食事、規則ただしい生活と日光浴。
ほどよいストレス、たっぷりのリラクゼーション、と、ここらへんがこれからの君に課されるノルマかな。まあキャンプファイヤーの無い林間学校みたいなものだと思ってくれればいいよ」
「君のナノマシンの解析は今のところまだ進んでいない。部品になる素材の精製技術が地球にないんだよね。このことはきみの兄弟ふたりには伝えてある。二人とも今グラナアーデに出てってってるとこだから、そこの説明書も多分もらってきてくれると思う。多分精製機材の作り方とかをまた聞かなきゃいけなくなるだろうけど」
「高校はとりあえず急病ってことで連絡してある。休学することもできるし、通信制の高校に転入って手もあるから、ま、それはおいおい。
高校はちょっと怪しんではいたかな。ストーカーがどうのこうのって話もしてたんでしょ? しょうがないけどね」
「……ちなみにこのプロジェクターで動画サイトとかも見れる。コメントや投げ銭を送ったりはできないけど……」
あんまり必要なさそうなことまで一通り話し終わって、シバイヌは黙った。
たぶん沈黙がつらかったんだろうと思う。お母さんも私も泣きはらした目をしてたから。
やがて、私もお母さんも食べ終わって、たぶんシバイヌのほうでも話すことがなくなって、
「……お母さんもお休みになってください。すぐ隣にもう一部屋用意しています」
お母さんは気丈そうに断る。
「いいえ、けっこうです。こちらに簡易ベッドかソファを用意いただけましたらこちらで寝起きいたします」
「申し訳ありませんが、セキュリティ上そうすることができません」
ベッドの有無がセキュリティにどう影響するのか私にはさっぱりわからなかったけど、シバイヌはそう言って断った。
「では椅子を使わせていただきます」
「お母さん、夜は並んで寝よ。踏んだらごめんだけど」
「多良木さん、わるいけどセキュリティっていうのは一人一部屋って意味なんだ。それにこれからもっと重くなっていったりして、きみが寝返りをうったらお母さん、そのうち骨折するかもよ」
なお多良木というのはうちの苗字だ。私のことを多良木さん、お母さんのことをお母さんと呼ぶことにしたらしい。先生っぽい。
「とりあえずじゃあお母さん、ここで寝なよ。私はいっぱい寝たから。あとのことはあとで話そう」
「花奈ちゃん、花奈ちゃんに関するお話は全部、お母さんも聞くから。この人がいる間、寝られるわけないでしょ」
「はい……」
にべもないとはこのことだろうか。
シバイヌはちょっと困った顔をした。
たぶんシバイヌは私と二人きりになりたいんだろう。グラナアーデでのことを聞き取りたいとかそういうことで……。
お母さんもそれがわかっていて、花奈ちゃんに関するお話は全部お母さんも……って宣言したんだろう。
お母さんをかたくなにしてしまったのは全部私の失敗のせいだ、とわかっているので、私はもう黙ってることしかできない。
「あー……じゃあ、今日だけ特例で……」
シバイヌはちょっと困った様子で天井を仰ぐと、シャツの胸ポケットから小さいレコーダーみたいなのを取り出して、軽く私たちへ振って示して見せた。
お母さんは黙ったまま、茶番だわ、みたいな険しい顔。
「……レコード03、記録開始。対象は仮称GRN004-fA17、およびその母、fA17-2。インタビュアーはシバイヌ。〇〇年×月△日、天候は晴れ、K支部にて……」
ややこしそうなことをぼそぼそ言って、レコーダーを胸ポケットへ戻す。シバイヌは空いていた丸椅子に座る。
「……さて、やってくれたな。前に会ったときは創世神話の話なんてしてなかったよね?」
尋問が始まったみたいだった。私はちょっとの時間言い訳の言葉を探して、見当たらなかったので、正直に言う。
「……そのときはどうでもいいかなと思って……。ていうか、シバイヌさんもやってくれたな、だよね」
高校で会ったときがレコード01、今がレコード03ってことは、間にひとつありそうだ。多分、家で、録音しないでって言ってたやつを録音してたんじゃないだろうか。
そのことについては答えてくれなくて、シバイヌはサンドイッチの乗っていた三人分のお皿をコーヒーテーブルに積み重ねてから丸椅子に戻った。
「ここに来る前に、君は君の身の上に起こったことについて話してくれたね。
録音と再生ができるくらいの内容にして、とりあえずざっとしたところをもう一度話してくれる?」
またかとは思ったけど、その通りにした。
――私は軽銀鉱脈。グラナアーデに召喚され、グラナアーデにいる間だけ、心の動きにしたがって、鉱の小函からアルミニウムを生み出す。
――鉱脈の力と、従者はしおり。小さい人間につける、贈り物をかねた、些細なしるし。
「君が知っている鉱の姫について教えてくれ。わかってる限り全員」
「…………」
言いたくない……。
最初は隠しておけていたのに。幹也が盗聴とかの対策をちゃんとしてくれてたおかげで、家族全員、監視対象になったりしないですんでたのに。
でも仕方ない。視線に負けて、私はしぶしぶ口を開いた。
きょうだいたちの名前、塔子さん、ソワレ、矢車菊にハヌムヤーン。
「先代の二人はご存命なのかな?」
「たぶん……少なくとも、矢車菊は……」
「たぶんというのはなぜ?」
根掘り葉掘り聞かれるとつかれる。
「ええと……ジュノとクラージュとハヌムヤーンは、矢車菊を助けるためにいろいろ頑張ってたわけだから、生きててほしい……、というか、助かってると思う……」
シバイヌは、ふむ、とため息みたいな喉を鳴らすみたいな声を口の中でころした。根拠はないのかよ、みたいなことだろう。
「ひとつの宝石につきひとりの鉱の姫が存在するんだよね。
どういう風に鉱の姫が代替わりするか、聞いたことはある? 能力をうしなった鉱の姫のことは?」
「いわれてみれば、聞いたことはないかな……」
「きみがこういう異常事態になって、たとえば、君の代わりになるような……百代目の軽銀鉱脈を選び出そうとかいう話にはなった?」
「なってない。そもそも鉱脈を選ぶのは人間じゃないんだし」
途方もない話だ。私はかぶりを振った。
「能力をうしなった鉱の姫の従者がどうなるかは?」
「それも知らない……」
「ふうん……」
それまで私の目を見ていたシバイヌは自分のこめかみのあたりを気にするような、視線の動かし方をした。
「……先代の真珠鉱脈と軽銀鉱脈の従者がほとんど同時に消え去って、次代のうち一方は本来の従者としてあらわれ、一方は代役を立てざるを得なかった。
ここらへんに謎を解くヒントがありそうだけど……君の兄弟ふたりが帰ってきたら、知らないか聞いてみよう」
「たぶんふたりは知らないと思う……私も、クラージュがほんとは言いたくないことを無理に聞いて知ってるだけだから」
あんまりふたりには聞かないでほしい……とくに幹也には。
幹也は神経が細いのだ。
「……ふたりはそれぞれ、ナルドリンガとシダンワンダ、という従者がついている。君はついていない。クラージュという人物が代理を務めているんだったね」
「そう」
「代理にしたのは誰?」
「名前の言えないあの人じゃない?」
ヴォルデモート的な……
「なるほど。……要するに彼も、人間側で決めた代理ではないんだね。
……鉱脈の従者は、どうやって決まっている? 鉱の姫のように選ばれた存在なのかな?」
「選ばれたとか決まってるっていうより……従者の材料がもともとあって、鉱脈が出てきたのに合わせて、従者が作られるって感じ。
鉱の小函の中から、砂っていうか、遺灰みたいなのが出てきて、人間型にこねあがっていって……」
「鉱の小函の中から?」
「そう」
「……鉱の小函を作ったのは、二十年前にいたハヌムヤーンという人物で、それまでは、宝石類は鉱の姫君たちの感情にともなって、体から直接出ていたんだったね。涙になったり、吐き出したり。矢車菊は喉が結晶化して手術しようかという瀬戸際にもなった」
うなずく。
シバイヌはレコーダーのある自分の胸ポケットを指でさした。疲れる……。ちゃんと口で言いなおした。
「……そう」
「じゃあ、まず、鉱の姫の能力のほうは、二十年前からしおりの位置が変わっている……というか、本人からは半分外れているに等しい、ということだ。人物そのものから、その鉱の小函へ」
「そういえば、そうだね」
宝石は小函から出てきて、鉱脈たちは実質的にはトリガーを引くだけという現状と、過去とを比べれば、そうかもしれない。
「従者たちもハヌムヤーンという、ひとりの人間が作った箱からあらわれるんだよね?」
「そう」
それまではどうやって現れていたんだろう。宝石と同じように、鉱脈の体から出てきてたんだろうか。
「……ふしぎだね。プロキシサーバーをひとつ経由してるような感じなのかな。
……しかし、君以外の鉱の姫たちが持つ正規の従者たちは、みな、しおりの位置にかかわらず、鉱の姫に対する忠誠心、執着心を例外なく持っている。
これはもともと二つ用意されていたしおりのうち、鉱の姫に従属するただの能力と、自律行動をする従者、という違いから、従者というしおりはまだある程度しっかりしたまま残っているとみていいのか……いや、これはちょっと飛躍してるかな。なにか別の要因があるのかもしれないし。
ともあれ君の場合は、オーダーメイドされた従者がいない。いわば、しおりが二つとも外れかかっていた……」
「意識したことはないけど、そうなのかも」
シバイヌは私をじぃっと見つめた。
「それで、なにかの拍子に、君の身体的変化という形の、第三のしおりがはさまれた」
「……そうなのかも」
「要するに、従者と鉱脈の力、グラナアーデから持ち出されることのなかったしおりが、第三の形になって、地球に持ち込まれてしまった」
そうなのかも。
言葉にならなかった。
でも、シバイヌは続ける。
「君がグラナアーデから追い出されたのは昨日の晩、体重の秘密を君の従者であり、人間でもあるクラージュに打ち明けてすぐのことだ。
クラージュは、第三のしおりをはさまれた君を、地球に追い返そうとした?」
「それは違う……!」
おなかの底から声が出なかった。全然大したことないはずなのに、尋問は思いのほか私から体力をうばっていた。シバイヌは静かに問い返す。
「それはどうして?」
「……」
……クラージュが最後にくれた言葉だったから、胸にしまっておきたかった。でもそうしてはおけないみたいだった。
ぼくにも。
……ぼくにも誠実なところはあったんだなって、あとから思いだしてくださいねって、……クラージュは。
息もたえだえ、つっかえつっかえなんとか言っても、シバイヌは軽く目をすがめた。にらんだわけじゃないと思う。ただちょっとよく考えようとしただけだと。そう思いたい。
「……だが、事実として第三のしおりは今地球にある。送り返す方法はない」
お母さんが椅子を蹴って立ち上がった。
がたんと大きな音はしたけど、お母さんは黙ったまま、つかつかと歩み寄っていって、シバイヌのほっぺたを平手でぶった。
「花奈はK県で生まれた私の子です。ここが故郷です。送り返すなんて言い方はやめて」
シバイヌは平手の勢いに合わせて頭を振って受け身をとりつつ、でもまだ話し続ける。
「――グラナアーデは焚書が進んでいる世界なんだっけ。物語に関するものは、すべて焼き払われている。地球はそうじゃない。
神はグラナアーデに飽きはてて、新たな観察対象を探している。それはきみが言ったことだよね。
地球はまだ見つかっていないが、しおりは……興味深い観察対象へのマーキングはそのままだ。
クラージュは自分に恋をさせて君を新たなしおりに仕立て上げ、地球を代価にグラナアーデの安全を買ったんだろうか?」
お母さんがシバイヌをもう一発平手で張った。
お母さんがだれかをたたくところを、二度も見たおどろきで、浮かびだしていた涙は……引っ込むまではいかなかったけど、声をあげて泣き出すほどではなくなった。
「私の娘を侮辱しないで」
お母さんが低めた声で言う。私も言った。
「そうじゃない」
クラージュはそんな人じゃない。おおうそつきだけど。大悪人だけど。
「クラージュは……善人になりたいって言ってた……」
自分の世界の破滅と、きみひとりを天秤にかけて、きみをとるのが善人の行いだろうか? きみはそう期待している?
シバイヌの声が聞こえた気がして、わかんないよ、と返事しようとして、唇が動いていなかったことに気づく。
空耳だ。幻聴っていうか。心にやましいことがあるから、聞こえるやつ……。
現実のシバイヌはただ黙って考え込んでいる。
……いや。さっきまで髪に隠れて見えなかった耳を気にする素振りをした。カナル型のBluetoothイヤホンをしてたみたいで、ちょっと失礼、みたいな目くばせのあと、何か短く、イヤホンの向こうのだれかへ応答する。
私とお母さんとを一瞬ずつ見やって、シバイヌは言った。
「……葉介君が帰ってきたみたいだ」
「葉介だけ……?」
「様子がおかしいらしい」
お母さんは聞くなり短い悲鳴をあげて、部屋を飛び出していこうとして……重たい潜水艦みたいなハッチ式のドアのハンドルをぐるんぐるん回しながら私のことを肩越しに振り返る。
「花奈ちゃんも来て!! お母さんひとりしかいないんだから!!」
小さいころはよく聞いてた悲鳴だ。お母さんって大変だ。子供が三人もいるばっかりに。
私も葉介が心配だった。今さらグラナアーデで何があるとも思えないけど、ベッドから降りようとしたら、シバイヌが止める。
「いや、多良木さんはここにいて。お母さん、葉介くんをこっちに呼びますから」
「花奈をひとりにはできません!!」
「ではお母さんが多良木さんに付き添ってください。ぼくが責任をもって葉介くんを連れてきます。
多良木さんはここにかくまわれているんです。鉛室から多良木さんを出さないで」
ここから出ちゃダメなのか……。
初耳だった。それは、いったいいつまで……?
ぐっと踏みとどまったお母さんは、ベッドに私と並んで腰かけて、私の手をぎゅうと握った。痛いぐらいだったけど、お母さんの気持ちがすごくよくわかる気がして、とても振り払う気にはなれない。
ちょっと遅いな、と焦れるくらい待ってやっと、シバイヌが葉介を連れてきた。シバイヌが葉介に半分肩を貸すみたいにして、葉介は引きずられるみたいにやってくる。
葉介の目は真っ赤に泣きはらしていて、見た目にケガをしているとかはなさそうだったけど、ほとんど自力で立つこともできないくらい、なにかにショックを受けていた。
「葉介!」
お母さんはぷらんぷらんした感じでようやく立っている葉介に駆け寄って抱きしめた。
「どうしてお母さんが代わってあげられないんだろう」
小さい背中を向けたお母さんは、また泣いているみたいだ。葉介は、お母さんに抱きしめられたとたん、なんとか、ほんの少ししゃんとして、自分も泣いてるのにその背中をとんとんたたいている。私たちがもっと子供だったころ、お母さんたちからそうされていたみたいに。
険しい顔のシバイヌは黙って何か考えてるみたいだったから、らちが明かないと見て葉介に直接聞く。
「どうしたの葉介。なにがあったの?」
葉介は私の顔を見つめて、なんとか、って感じで笑顔らしきものを作って見せる。
「お前は……無事? 風呂はいった?」
「はいった。なにがあったの? 幹也は?」
「幹也も無事だから。なにかあったわけじゃない。気にするな」
「するなって言ったって……」
明らかになにかあった顔だ。
らちがあかない。やっぱりシバイヌをじっと見つめる。やっと私の視線に気づいたシバイヌは、葉介の、やめろ言うな、を無視して教えてくれた。
「グラナアーデが押しつぶされようとしている。クラージュがすべての従者を殺して回ることにしたそうだ。多分、きみのために」




