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18 星は満ち足りゆく2

 塔子さんの部屋の前に二人並んで、扉をノックする寸前、クラージュは涼しい顔で切り出した。

「花奈さん、三つ目のお願いをしてもいいでしょうか」

「ねえ、カウントしてるの? そしてマジで九ついうことを聞かせようとしてるの?」

「手をつないでいてくれませんか。フラウリンドがあまりにおそろしいので」

 ばかな……。


 手をつながれながら空いた手でしたノックに返事があって、私たちは入室した。

「会いに来てくれてありがとう、花奈さん、クラージュさん」

 緊張した様子だったけど、はじめて聞けた、塔子さんの落ち着いた声だった。


 塔子さんは靴を履いていた。柔らかそうな室内履きだったけど、とりあえず履いていた。

 さらにその首にはクラージュ、幹也ともおそろいのメダルがかけてある。

 あの装置だ。どうやら吃音の矯正用にもう一つもらったらしい。

 塔子さんはそれにくわえて、細くてはかない、銀色のリムレスのめがねをかけている。

 めがねを見てる私の視線に気づいたのか、塔子さんははにかんだ表情をうかべる。

「めがねはいま五つも持っているんだよ。……これは、フラウリンドがくれたののひとつ」


「塔子のきれいな目がさえぎられるのは悲しゅうございますが、他の男が見立てたものを使うなど許してはおけませんので」

 まあそうか……。その、使われてない四つのうちにクラージュのがあるんだろうな。で、そっちは使わないんだろうな……。


 なおフラウリンドが塔子さんのほうだけを見つめて甘くささやいているのはどうでもいいことなので私もクラージュもあえて無視している。


「もともと持っていた眼鏡は地球に帰らなくなってからすぐの頃、壊しちゃって……そのあとずっと、そのままだったの。

 よく見えないのに歩くのはいけないから、って靴も履かないようになった。

 たしかに、不便はあんまりなかった」


 言葉をじゅうぶんに使いこなせるようになった塔子さんは、でも、ゆっくりゆっくり、時間をかけて一言ずつしゃべっていた。

 くちびるはわなないている。塔子さんにのこってしまった後遺症みたいだった。


 ……たぶん、もともと持ってた眼鏡はフラウリンドがさりげなく壊したんだろうな。

 で、クラージュは見捨ててほったらかしたんだろうな。

 ……既に謝罪を受けているという時系列からして、同じ件について何度もとがめるのはよくないなと思いつつ、やっぱりクラージュってマジどうかしてる、って気持ちが沸き上がる。

 目をすがめてにらむと、クラージュはすずしげな顔で言った。

「四つ目と相殺してください」

 ばかな……。


 私とクラージュのやりとりも入ってこないというくらい、塔子さんは思いつめた表情で、つぶやく。

「……悩んでたことの、結論がでて」

 たぶんこの話なんだろうなと、呼び出されたときからそんな予感がしてたから、私はただ、おとなしく待った。


「やっぱり、このままの自分じゃいけないと思うから……。きちんと話せる自分になって、日本に一度、帰ろうと思って」

「うん」

「……でも、一人だと心細いから……」

 うつむきがちの塔子さんの目と声に、じわっと涙の気配がうかぶ。

「花奈さんに、私の家までついてきてもらえないかなって……」

「…………」


 私がこたえる前に、クラージュはちらとフラウリンドを気にするそぶりを見せつつ言う。

「……花奈さんのお好きなように。

 お願いを使わせてくれるなら、そうしたいけれど」

 私はまずそれに同意してないし、っていうかどうお願いされても気持ちは変わらないから、私はかぶりを振る。

 で、塔子さんを見つめる。

「――先に、フラウリンドに口挟まないでってお願いしてもらっていい?」

「え……うん」

「そんな、塔子。私はあなたを守りたいその一心のみでございますのに」

「席をはずせとは言わないから」

 塔子さんの頭が、フラウリンドを振り向いたり私を見つめたり忙しく振られる。まるでさっきまでのナルドリンガだ。私はぶっきらぼうに聞こえるくらい、早口で言った。

「とにかく口を挟まないでくれたらそれでいいから」

「うん……」

 塔子さんはその通りしてくれた。

 フラウリンドが塔子さんの死角からめちゃくちゃにらむから、めちゃくちゃこわい。

 でも脅しに屈したわけじゃなく、塔子さんかあるいはクラージュにほだされたわけでもなく、言った。

「ごめんね。私に地球側でお手伝いできることはもうないと思うから」


 はじめ、塔子さんと会ったころ、協力しようか悩んでたときとはもう状況が違う。

 勇気が出せないよっていうならお手伝いすることもあるだろうけど、勇気は出たみたいだったから。

 私がいないと話せないような相手だったら、私がいたって好転することは1000%ないだろう。


 で、ついでだと思って私はもう一つ言った。

「――塔子さん、フラウリンドに私とクラージュをにらむのをやめてって言って」

「えっ」

 私に言われてはじめて気づいたみたいで、塔子さんはびっくりしてフラウリンドの顔をまじまじ見つめた。

 フラウリンドはすでに、心外なこと言われた、みたいな驚きとかなしみの入り混じった表情にとりつくろって、塔子さんの顔を覗き込んでいる。

「身に覚えがございません」

「え、え、え……? に、に、に、にらんでないけど……?」

 塔子さんはまたちょっと吃音が出ている。しゃべることが決まってないのに話し始めたときのどもりは、さすがに治せないみたいだ。


「塔子さんにはわからないようににらむんだよ。クラージュはフラウリンドが敵意まるだしにしてきて怖いから塔子さんのこと助けてあげられなかった、って一応、理由はあったみたい」

 たぶん1%分くらいしかその理由まざってないけど、フラウリンドがにらむのを止めてくれなかった塔子さんも1%くらいは悪いと思うから、一応言った。私はクラージュの友達だし。


「私が塔子さんを助けてあげられないのは、私にできることがないからっていうのもあるけど」

 私は本来、自分が別に行きたくなくてもトイレに誘われたらついていくタイプだ。別に役割がないからっていうだけではついていかない理由にはならない。私的には。

「あるけど、もうひとつの理由は、フラウリンドが塔子さんと自分の仲をじゃましないでってにらむから」

「ばかばかしい。私は塔子を守り、願いをかなえるために生まれた存在です。軽銀鉱脈に従うためのものではございません。

 塔子の願いをかなえないなら、存在価値はありません。にらむだとかいうほどの価値さえも」

 フラウリンドが吐き捨てるように言った。ここに裁判官はいないから、静粛に、って注意してくれる人はいない。

 言葉だけをとれば、確かに。鉱脈にとってはそりゃそうだろうな、って気はするし、睨んだ睨んでないでケンカするのはゆうに小学校以来だ。けど、とりあえず続ける。


「頼まれてもさ、いいよって言いそうだとにらむし、断ったらなんでいうこと聞いてあげないのってすごむし、こっちはばかばかしくなっちゃうじゃん?」

「被害妄想も甚だしい。塔子、塔子は私を信じて下さいますでしょう?」

「花奈さん、そのへんで」

 フラウリンドにまためちゃくちゃにらまれながらまくし立ててると、クラージュがやんわり口をはさむ。このへんにしとくことにする。とりあえずこれから、そうなんだよってことだけ知っといてくれればそれでいい。

 

 今まで眼鏡がなかった塔子さんだから、相手の顔とかもよく見えてなかったんだろうと思う。自分と一緒にいる相手が、どういう顔をしてるかとか。ふだん接する相手も、いいところ他の何人かの鉱の姫か、クラージュとジュノくらいだったんだろうし。


「にらまれない範囲でだったら、手伝えると思うな。たとえば、えーと……『組織』の人が、塔子さんが元気にしてるか知りたいって言ってた。カウンセラーもたぶん手配してくれる気がするし、連絡をとってみて、ちょっと手伝ってくれませんか、って頼んでみ……」

 るのは、損じゃないんじゃないかと。

 そういおうとしたそばからフラウリンドが敵意にみちみちた声音で遮る。

「頭がおかしいのですか」

 気に入らないようだ。

「なら……様子を動画サイトで配信してもらって、ここで上映会するとかで……やばってなったらジュノに呼び戻してもらって……」

 ここでクラージュが再度口をはさむ。

「動画サイトについてはぼくはあんまり詳しくないですけど、あちらとこちら、連絡を自由にとりあったりはできないんです。

 電波が入らないんですよ。これはうそじゃありません」

「あ、そっか。じゃあ……心細いっていうだけなら、お守りていどに、地球にいる私とアプリで通話しつつ何分かおきに私が定時連絡をこっちにするのは……」


 ……やっぱりにらむな。

 にらまれると胸がつまったみたいな恐怖感が、どんなに気構えしててもきてしまう。

 というのと、この期におよんでまだにらむんだというあきれに似た気持ちがわきあがってきて、私はたぶん、いろいろ複雑な表情をしたんだろう。塔子さんが不安げにまたフラウリンドを見上げる。

「通話しつつというのは、1時間に1回とか30分に1回とかを想定していますか? それほどの頻度で、間をおかず、時空の穴を通じて世界を往来した鉱脈はおりません。これは、花奈さんの従者であるエギナリンドとして、ぼくから強く反対します」

 クラージュはまたも一応フラウリンドのほうをちらと見つつ言った。

「役に立つことを一つも申せぬとは、塵芥にも価値が劣りますね」

 フラウリンドは私の身の安全なんかまったくどうでもいいから塔子さんを守れっていう感情と、自分よりも近い位置に立つんじゃないっていう嫉妬心がちょうど半々くらいになったような顔をしている。

「うーーーん……」

 腕組みして、思いっきり首をかしげる。これは考え込んでるふりをしつつ心の防御反応を隠してる動き。だってフラウリンドがこわいから。

 


 ほんとはクラージュは、フラウリンドがいるところではいろいろしゃべりたくないんだろうな、ってことはもう分かってるんだけど、もう塔子さんには隠しごとしてほしくないから、今ここで全部話していたい。

 心にやましさがあると、なにかで帳消しにしなくっちゃって気持ちがどうしても働くし、なによりなにかの拍子になにかを黙ってたのがばれて「なんでおしえてくれなかったの」ってなったときのフラウリンドからの制裁がこわすぎる。


 ……やっぱり、私がついていくべきだろうか。

 一緒にくっついてなくっても、せめて翻訳装置が、たとえば不具合で動かなくならないか、吃音が出ちゃって塔子さんが傷つかないか、見守れるくらいの距離感で見てて、話せなくなったら割って入るくらいなら、やっても悪くはないかな。

 じゃなければ、あの組織とつなぎをとるとか。

 組織と塔子さんとは何か因縁ありげだったけど、少なくともあの女装の人は、塔子さんのことをそれなりに心配してたように見える。捕まったって、本当の意味で捕まえることはできない。召喚にあらがう方法は、地球上にないんだから。

 これ提案したら、フラウリンドがどうなるかわかんないけど……。


 いやだな、いまここで引き受けたら安請け合いになるんだけどな、って気持ちを意識しておさえながら考えてると、突然、いやみっぽい言い方でクラージュが言い出す。

「……鉱の姫の従者を前にして、その姫の内心を推し量ろうとすることは不遜ではありますが……。

 このままの自分じゃいけないと思っているんですよね、塔子さんは。でしたら花奈さんの付き添いがあっては、今までのままなのでは?」

 それはまあ、私にとっては重要なことじゃない。F県までの交通費をどうするかはなやましいけど。


 しかしこのクラージュの発言をしおに、フラウリンドの刺すような視線は私からクラージュにうつる。

「塔子が今までどんな目にあったか知りもしないくせに、愚かしいことを。淡水魚を海にはなすようなものです。

 ……塔子、あんまりにございます。塔子を守ってあげられるのは私だけ。なのに塔子は、どうでもよいことばかりにわずらわされて、浮気ではございませんか。ここで幸せに暮らしましょう。今までずっと幸せだったではございませんか」


 ナルドリンガとかシダンワンダとかに比べたらフラウリンドってかなり感情豊かだ。

 で、多分もう、その感情がめちゃくちゃなんだろうな、フラウリンドは。

 塔子さんを地球にほんの一時期のことでも帰らせるのはいやだから、塔子さんにはあきらめさせたいけど、でも塔子さんがないがしろにされてるのも我慢がならなくて、こういうわけのわからないことを言い出すんだろうな。


 私も、立ち向かうだけが人生じゃないと思う。

 せっかくいやなことは全部忘れて、おもしろおかしく暮らす選択肢を準備されてる身の上なんだから、そうしたっていいと思ってるけど、でも、やっぱり塔子さんが自分でそうしたいって言い出したことは、尊いとおもうし……


 フラウリンドがどんなに冷たい、怒りの表情を浮かべても、クラージュは涼しい顔でだまっている。反論する価値もない、みたいな演出だ。

 本来口げんかで負けるタイプじゃないんだろう。それがかっこいいことかどうかはさておき……。



「もういいよ、花奈さん」

 塔子さんがふと言った。うつむいて、視線は自分の膝の上のこぶし。傷ついた声音だった。短すぎる、もつれた小鳥の羽みたいなやわらかいショートカットは、目のふちにたまった涙のつぶも隠せない。

「こういうとき、黙ってるのって卑怯だよね。ごめんね。

 無理なこと言ったのもごめん。こういう自分が嫌いだったのに。ごめんね」

「…………」


 ああー傷つけた。断った瞬間から罪悪感が押し寄せてくる。

 この、『私にできることはなにも無い』っていう絶望感、無力感が、ものすごくきらいだ。最近めちゃくちゃ感じてるけど、きらいだ。


 だから口から、あがきの言葉がもれそうになる。こっちこそごめん、いうとおりにするよって。

 うつむいた塔子さんの次の言葉で、たまたまさえぎられたのは幸運としかいいようがない。罪悪感の逃がし先がなくなっても。

「ひとりで行くよ。ママに会ってくる」

「……」

 塔子さん、ひとりで大丈夫? ほんとうに?

 私が口走る前に、クラージュが素早くうなずき、私のつないだままの手をすっと動かして、退室をうながす。クラージュは塔子さんのつむじのあたりを見下ろした。

「あなたの決定に従います。あなたに幸福がありますように」

 あまりにも雑な別れの挨拶だった。

 何かあったら言って、と言おうとして、それは飲み込む。今たぶん、クラージュは私をかばってくれたんだと思ったから。じゃあなんて言ったら良いかはわからなかったから、結局黙ったまま、私たちは部屋を出た。



 月明りの廊下は今日もきらきら輝いていた。

 何度見ても見飽きない。白く磨かれた石のタイルへ、月光を透かしたステンドグラスが、青、黄、赤、緑、ちりぢりに、とりどりの光を投げかけている。


 模様は木漏れ日のような幾何学模様のような、何をあらわしているともわからない。けど、『物語』をすべて手放し、代わりに自然からの贈り物こと、宝石の原石をむりやり詰め込まれているこの城を装わせているのは、宝石ではなくこの、人の手による芸術作品、ステンドグラスにほかならない。

 これは文字でも絵でもないけれど、戦記なんだなとぼんやり思った。矢車菊の織物と同じで。

 人知を超えた抗いきれないものと、それでも戦ったしるし。


 

 私の、重みがかかりすぎないように力を入れて浮かせた腕を引いて、クラージュは靴音を立てて私の半歩前を歩いた。


「……もっとたよってください。あなたひとりで成し遂げられることなど、たかがしれているのだと、まだわかりませんか」

「そこまで言わなくても……」

 冷たい声ではなかったけど、怒った声だった。最近メンタルやられ気味だから、わりとマジで傷つく。

 クラージュは立ち止まって、横顔で振り向いた。もしかしたら顔も見たくないのかもしれない。 

「花奈さんひとりが立ち向かっているのを後ろから見ていて、ぼくがうれしいと思いますか? そもそも最初から手に余るとわかっていて、なぜぼくに相談しないんです? ばかげている」

「や……」

「結局ぼくが出て行くんじゃありませんか。そうすれば片付くんですから、最初から頼ってくれるほうがお互い気持ちがいいでしょう。なぜそうしてくれないんです?」

「……いやまあ……やっぱり自立したほうがいいかなと思って……」

 完封だ。マジでつらい。

 しかしクラージュは私が言い訳にまぎらわせて暗にあげた白旗が見えないのか、それともまだ追い詰め足りないのか、横顔だけで話していた姿勢からぐるっと振り返って、正面に立ちふさがる。

 金銀のコインチェーンの縁取り、メダル、バッジ、ネックレスで武装したクラージュのふだん通りのローブが、ものすごく圧迫感をあたえてくる。

「きょうだい離れとぼくに頼らないのと混同してませんか?」

「あの……」

 クラージュからの自立も、しなくちゃいけないと思ってはいる……。

 じゃないと……

「……ぼくがいないと何もできなくなればいいのに」

 溜息といっしょに、クラージュが吐き捨てるみたいに言った。

「そうしたらぼくは、あんなにも軽蔑していた、従者たちみたいにもなるでしょう。あなたから靴を取りあげて、スプーンの一本も持たせず、あなたをどこへでもつれていき、あなたをどこへもいかせない」


 それは……いやだ。そうなりたくない。

 だってそうなったら、そんな関係性になったら、クラージュとはもう、友だちではいられなくなる……。



 考えたら胸が詰まったみたいになった。喉からきゅっとうめきがもれる。

「……花奈さん?」

 クラージュが戸惑った顔で私の目をのぞき込む。

 私も驚いて、頬をなでると指が濡れた。ひとつぶ分の涙が頬をつたっている。


 そのことに気づいたらもう、なぜだか黙っていられなくなって、立ってもいられなくなって、その場に自分の膝に顔を埋める姿勢でしゃがみこんだ。


「――助けてクラージュ」


 クラージュの顔を見るのがこわい。クラージュがすぐさま私のそばに膝をついてくれたのがわかるけど、動けない。

「花奈さん?」

「…………」

 のどが震えた。

「言って、花奈さん。ずっと待ちますから」

「…………」

「…………ほんとにずっと待ちますよ」

「…………」


 だまり続けてもしかたないのがわかってからもしばらく言い出せなくて、でもやがて、床に向けて言った。

「――体重が」

「え?」

「体重がふえた」

「……花奈さん?」

 いったい今、何を話し出すのか、みたいな感じだった。

 上手に伝わってないことが分かって、言い直す。

「今、私の体重、100キロ超えてる。体型はかわってないよね? むしろやせたよね? なのに最近歩くのもつらいの」


 すぐそばで、クラージュが息をのんだようだった。

 一、二秒、凍り付いたみたいな時間が流れると、クラージュは私をむりやり立ち上がらせて、正面から私を抱え上げた。


 最初あがらない。

 くっともう一段、力を入れなおすような声がして、ようやくつま先が浮いた。三秒ほどの抱擁。


 かかとがまた床について、体を離す間も惜しいみたいに、クラージュは私の頬を両手で包んで、大うそつきのクラージュのくせに私のうそは許さないみたいに、じっと私の目を見つめようとする。

「なぜ」

「わかんない」

 なんでこうなったのか。

 なんで、だまってるつもりだったのに今言っちゃったのか。

 なんでいま、恐怖に耐えきれなくなったのか。

「違う」

 いらだってクラージュはかぶりを振った。

 さらさらの金茶の髪に、ステンドグラスの光が落ちている。

「なぜだまっていたんです!」

「だって」

 言ったらきっと、クラージュは怒るだろうと思ったから。

 そう口には出せない。悲しい気持ちが喉までこみあがって、なにか言ったら泣き出しちゃいそうだった。


 クラージュの、私の肩をつかんでいた手が落ちる。代わりに、私の両手をつつむみたいに握る。持ち上げられると重たいかもしれない。それがはずかしくて、みじめだった。

「花奈さん、……どうして、こんなになるまで……」

 どうしてこんなになるまで気づけなかったのか。

 どうしてこんなになるまで言わなかったのか。

 クラージュの言葉には両方の気持ちがこめられていて、それだけに悲痛だった。


 ――私は、ただ、なんていうか……。

 私のからだが、どうにかなりそうだってバレたら、そしたら、もうクラージュとは会えないんじゃないかって、そう思ったから。

 呼んでもらわなければ、永久にお別れになっちゃうから。

 だって、クラージュは……すごく、すごくだいじな、友だちだから……


 クラージュはそれ以上、声をあららげることもなかった。

 ただ、ふるえる指が私の額をなでる。気づかないうちに、前髪がぺたんこになっていた。

 見られちゃいけないものを見られた気がして、身をよじるけど、もう遅い。耳鳴りがして、ただでさえ重たいからだが、ますますずしりと重くなる。

 来ている。今またクラージュのこころが荒れくるい、それを察した輝神が、この城へ。


 物語をながめに。私たちが苦しんでいるのを見に。



 『これ』のせいだ、と、なんとなく、私たち二人とも悟っていた。


 『しおりをはさまれた』クラージュと違って、当代の軽銀鉱脈は、大いなる輝神の顕微鏡の上から時折逃げ出す。それによる執着心のせいだと。


 ふつうの鉱脈はこうならないんだろう。

 クラージュが多分、特別な存在だから、だからそれで、輝神も観察の仕方を変えているんだろう。

 大きな存在にくらべてあまりに矮小な私たちには、そのていどに想像することしかできない。アメーバが飛行機のことを考えることなんてできっこないのと同じで。


 こわかった。

 変わっていくからだも、からだのことを悟られるのも。


 女装のひとはクラージュを頼れって言ってたけど、言いたくなかった。一晩寝て覚めれば、今まで通りの体に戻っているんじゃないかって。

 でもそんなことはなくって、むしろどんどん悪化していって、いつか隠し切れなくなることも理解していて、クラージュにもきっと、どうしようもないってことは想像できていた。


 それなら、できるだけ隠しておいて、楽しい思い出をふやそうってそう思ってたのに、変質するからだを私ひとりだけで抱え込むのが苦しくなった。

 重荷を分かち合ってほしくて告白したけど、今はもう、後悔しかない。

 でもじゃあほかに、だれを頼れるだろう? この、このことを知られたらもう、二度と会ってくれなくなるかもしれないともだち以外に、だれを?



「人のことなんか助けてる場合じゃなかったのに」

 クラージュは廊下のそこかしこに設置されてるソファの一つへ私を支えて歩き、横たわらせた。というか、押し倒した。今にも私が死にかけてるみたいに。


 クラージュの目は『ぼくのせいです』と言っている。

 そうじゃないよって言いたいのに、口に出しては言ってくれないから、口に出してそうじゃないよって言ったら、クラージュのせいだよって意味になってしまう。 

「……私のこと助けてくれる? じゃなかったら、また遊んでくれる? 羽のはえた猫とか、湖に金色の針が落ちてくのをまた見せてくれる? そのほとりに、月光花っていうのが咲いてるのを?」


 体が重たい。

 でも一生懸命起き上がりかけながらすがるような思いでいうと、クラージュは、一瞬無表情になった。きっと表情もとりつくろえないくらいに傷つけたんだと、そう悟る。

「……ジュノを呼びます」


 これからどうなるかが分かった。

 私を日本に追い返す気だ。


 この、今も充満している大きな気配、輝神のことはどうする気だろう。

 この前、クラージュは進展しない物語をせかされて、首をしめられたばかりなのに。役者の片方を消し去って、これからクラージュはどうされてしまうかわからない。

 せめて、せめて、この気配がどこかへ行くまで……

「クラージュ…」

「あなたが心配することじゃない」

 つめたい声だった。


 でも、ぎゅうとソファへ押し倒した私へ、クラージュは上半身でかぶさる。

 さらさら落ちてきたクラージュの肩までのその髪が、私の頬をさらさらなでながら、ステンドグラスごしの、七色に輝く月光をさえぎった。

 そうやって、まるで二人きりみたいになって、クラージュはささやく。

「あなたは……」

 何か言おうとして、でも声にならないみたいで、少し言いよどんで、また話し出した。たぶんきっと、最初に言おうとしたのとは別のことを。

「……あなたはぼくの、ぶあついかさぶた、火炎に触れて広がるバンクシア、世界を破滅させるファムファタル、運命のあいて。

 ぼくが世話せねば枯れてしまう、焼け地に萌えるかわいいつぼみ」

「……」

 また、クラージュは話しやめた。彼の金色に燃える目が、私の目を射る。

 自分の、言いたいけれど言葉にならないことを、なんとかして伝えようとしているような探るような眼だった。

「……ぼくが焼きましょう。あなたへ注ぐ日差しをさえぎるものすべて。

 焼けた大地に一輪でも、あなたが咲くのをぼくは見たい」


 唇が……。

 唇が触れ合うかと思ったけど、そうはならなかった。

 息をのんで待っていたけど、そうはならなかった。


「――本当の従者でなくて、そうなれもしなくてごめんなさい。

 でもいつか、ぼくにも少しは誠実なところが残っていたなと思い出してくださいね」

 このまま時間がとまったらいいのにと思ったのに、現実にはほとんど間無く、クラージュは立ち上がって、丈の長い重たいローブの裾をさばいて私に背を向ける。


 おねがい、待って。

 待って、クラージュ。


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