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閑話:愛と臓物をささげよ

二十年前のお話です。


 九十八番目の軽銀鉱脈(エギナリンガ)である矢車菊は病みついてしまってからもうずいぶんになり、九十八番目の真珠鉱脈(フラウリンガ)、大魔術師ハヌムヤーンとほとんど日課としていた口げんかもなくなって久しかった。

 ハヌムヤーンは、宿敵であれ親友であれ誰かの見舞いになど出向くたちではなかったので、矢車菊が手塩にかけて育てた二人の幼子へ、ハヌムヤーンは思うさま悪事と魔術を吹き込んだ。

 吹き込まれながらも、なお幼子らは矢車菊を慕った。

 二人は手に手土産を、背にメイドを二人従えて、矢車菊を訪う。


 金茶の髪の子の名は大火炎。

 紺色の髪の子の名は優し月。


 いずれもまことの名ではない。草原では折々に吹く風のごとくあまた名を持つのがあたりまえだったので、矢車菊が子どもらをいつくしんでつけた。


「来たな。二人か?」

「メイドがいるので、四人です」

 矢車菊は目をつむったまま微笑む。彼女の、本来布に巻いて隠すはずの黒髪は枕上に解き放たれ、まつげは軽銀(アルミニウム)の粉で銀色に凍り付いている。


 心の動きに応じて価値ある石を生み出し続ける、鉱の姫と呼ばれるそのいけにえ達にはありがちな病と症状であった。

 病というか、行き着く先、というか。



 鉱脈とか鉱の姫とか呼ばれる彼ら彼女らは、恵星グラナアーデとはまた別の、あまたある世界、あまたある星からやってくる、神が選んだ(かんなぎ)で、心のうごきに応じてそれぞれ定められた輝石を生み出す。


 黄金鉱脈ならば黄金を。

 金剛鉱脈ならば金剛石を。

 人ならばみなもとめてやまぬ宝石たちは、鉱脈たちが心きらめかすたびに身よりいずる。


 しかし、はじめは強いきもちを持ったときにだけあった神からの贈り物は、いつのまにか、涙ひとつぶ、しわぶきひとつが石に、挙措ひとつ、愁眉ひとつが重荷と化す。


 優しい心がうごくたび、アルミニウムを生む軽銀鉱脈こと彼女、矢車菊は、もはやほとんど生きた宝石のごとくなって久しい。



 広くとられた組み硝子の窓からは、中庭からさすとりどりの光がちりぢりに、真白い床と壁、矢車菊の頬を照らし、銀粉とみだれて輝く。

 矢車菊は清潔な宝石箱の女王であり、また囚人でもあった。



 矢車菊の居室には常にもう一人いて、看護を欠かさない。

 そのおとなしげな表情の少女は名を、白き帯というほかに、軽銀鉱脈の従者(エギナリンガ)なる名も持っていて、彼女が従者らしく化粧筆でやさしくまつげと頬をはらってやると、ひとごこちついた様子で、矢車菊はようやっと身を起こす。

 すかさず白き帯は洗面に使えるたらいを手渡し、そっと水差しからそこへ水をそそぐ。矢車菊は丁寧に顔を洗った。目は水をかえてまた洗う。そうしないと目も開けられない。



 褥には銀の石があまた散り、寝返りのたび矢車菊の肌には痣とひっかき傷が増える。眠りも浅い。 

 この段階に入った鉱の姫のために、けがをさせないための工夫をした寝床はいろいろあるのだが、矢車菊は寝心地がどうとかで、草を固く編んで革をかけた寝台と枕を使い続ける。これは内装にはこだわらなかった矢車菊が、これだけは譲れぬと、まだ健やかだったころに自ら作った。


「こんにちは、矢車菊。今日はプレゼントがあるんです」

 大火炎は矢車菊の枕辺へ歩み寄り、胸に片手を当て、もう片方をゆったり広げるおとな風の礼をした。手足の長さが足らず、あどけなさのほうが勝ったが、もしかするとそこも計算のうちかもしれぬと思わせるようなそつのない仕草だった。


 伴ったメイドふたりが、手土産のそれぞれ端と端をもって、左右に別れる。三日月の夜舟のごとく広がったさまは、(いさ)(あみ)に少し似ていたが、そのためのものよりずっと柔らかそうな、布を割いて作ったひもが使われている。

 はでごのみの大火炎らしいような、あるいは矢車菊の故郷の細工を思い出すような、多色づかいの吊り床だった。

「二人で作りました。裁縫部屋をかなり散らかしたから叱られたけど、寝転がるとたのしいんですよ。これなら石だけ下に落ちるから、寝ていてもふまずにすむと思うんです。

 最初はなれないかもしれないけど、揺れているとたのしいし、運動にもなります」

 はなしている間に、メイドふたりはさっさと壁にとりついて、吊り床の設置にとりかかっている。

 矢車菊は四人を固い床から見つめてしみじみした調子でつぶやいた。背では白き帯が床をほうきで手早く清めている。

「……()()らの行く末が案じられてならぬ」


 大火炎はすこしどきりとした表情を見せた。おとなっぽく振舞おうとはしているものの、まだうまく感情は扱いきれない。

「……ぼく達もあなたのことを案じていますよ、矢車菊」

 すこしたどたどしい言葉遣いで、大火炎は言った。




 見舞いを終えた子どもたちはメイドとも別れ、今度は大魔術師ハヌムヤーンの部屋をたずねた。

 ハヌムヤーンは入室のゆるしを求める声にいらえもしない。二人は静かに彼の居室の小さな扉を、身をすべりこませるのに必要なだけ開き、すぐに閉じた。


 ハヌムヤーンの部屋は昼でも暗い。広く明るくとられた組み硝子の窓のことごとくを、厚い暗幕で覆っている。

 明り取りと最低限の換気のための小窓を高いところに勝手に取り付けているが、部屋のそこかしこに灯明やらストーブやらを置いて、えたいのしれない生薬やら、灰に埋められた呪物やらをあぶっているし、古い書物も床から林のように積み上がり、さらにはハヌムヤーンには水たばこをふかす癖もあるから、いつ来ても胸が悪くなるようなにおいがして、息苦しい。

 真珠の粒が床のそこかしこに散らばり、部屋の雑多であやしいおもむきに拍車をかける。

 部屋の主はその中心に寝椅子を据え、房かざりのついたじゅうたんをかけ、長枕を置いたところへ、しどけなく横臥していた。


「あれは受け取ったか」

 優し月がうなずいたのはその目の端で確かめたが、ハヌムヤーンはうなずきを返さない。ただ鼻で笑った。

「ばかな女だ」

「矢車菊はぼくらがハヌムヤーンから教わって準備したのを分かっていたみたいでしたよ。ぼくらのことが案じられてならないと」

 だからばかではない、と大火炎が言い返すが、ハヌムヤーンはきっぱりしたものだ。

「だから、ばかだと言うのさ。分からぬか。まだ分からぬだろうな」

 ハヌムヤーンは水たばこの吸い口へけだるく首を伸ばす。九十八番目の(フラウ)真珠鉱脈の従者(リンガ)としか名前のないどれいにささげもたせていた吸い口へ。両手は書物で埋まっている。

 大魔術師はしばし煙で遊ぶ。

 (りゅう)となった煙はしばしあたりでとぐろをまいていたが、やがて天井まで躍り上がって消えた。


 ハヌムヤーンは消えていった女のりゅうをぼんやりと見上げていたが、それもつかのまのこと。あごでしゃくって大火炎を呼ぶ。

 大火炎は床に散る真珠を蹴りよけながら寄っていって、寝椅子の端に腰かけた。


 ハヌムヤーンは書物を床へ放り出し、どれいから吸い口を奪い取ると、大火炎の幼い顎をその長い柄の反対ですくいとる。

「いいか。女に言うことを聞かせたければな、愛と臓物を捧げよ。清らかなるものとおぞましきものを一度に差し出せ。

 お前のために削ったのだと肉の塊を見せてやれ。脅迫するのだ」


「ええー……」

 まだ齢五つにしかならない大火炎は、顔をしかめる。ハヌムヤーンはますます機嫌よく、半分身を起こしてまで大火炎へ顔を近づけた。

「おまえたちも今捧げたのだぞ。現に、おれの差し金と知っていてあの女は受け取ったのだ。そのうち文句がくるぞ。臓物あてにな」


 大火炎は首をかしげただけで口はつぐみ、悪事の極意をまたひとつわが物とした。



 優し月は悪事への不向きがわかっているので、聞き流してランプの一つへ相対し、やがて大魔術師をまねて、煙で一匹の(りゅう)を生した。

 しかし水を通さなかった煙から生まれた虹は気性剣呑で、透明硝子の瓶や壺をいくつも割りながら、部屋中を所狭しと駆け回る。

 ほこりをかぶったシャンデリアの周りをなわばりとして、周囲の煙を吸ってますますふくらんでいく虹を、ハヌムヤーンは短く鋭くした吐息一つを合図に消し去ってしまった。


「ふん。学んだな?」

 優し月はゆっくりとうなずいた。


 ハヌムヤーンはこの若い弟子たちを気に入っていた。

 何しろのみこみがいいから気が向いたときに少しからかうだけですみ、手間がかからない。口先で軽くほめておくだけで喜んでなんでもする。


 たとえば、このように。


 ハヌムヤーンはあごをしゃくって、ある棚をさすと、大火炎は立ち上がって置かれてあった水晶玉をとってささげもつ。

 どれいはハヌムヤーンの端正な顔をうっとりと見つめて動かないままだ。このようなことも元の世界から慣れているが、役には立たない。


「この世界での魔術の進歩はあきれはてるほど遅れているが、石の透明度だけは優れているな」

 ハヌムヤーンがえたいのしれない力……魔力とか本人は呼ぶ力をこめると、手のひら大の曇りなかった水晶が、中央から銀色にうすぐもり、大魔術師にしかわからぬことばで語りかける。

 先ほどの二人に届けさせた吊り床の結び目の中に、この水晶の対になるものが仕込まれており、乗ったものの重みやエーテル量の増減の他、その他もろもろの情報を収集できるようになっている。


 気まぐれなハヌムヤーンの大魔術に、いまちょうど、病み女の嘆きがいるのだ。


 大火炎は先ほどさりげなくすりとった、矢車菊の産んだアルミニウムのひとつを袖から出して、寝椅子の端に置く。この子どもは、すりの手技もハヌムヤーンから学んでいた。


「お前たちはよくできた弟子だ」

 ハヌムヤーンは大火炎と優し月とを目玉だけ動かして見比べた。

 大火炎と優し月にとっても、ハヌムヤーンはよくできた師匠だった。ハヌムヤーンの言った通り、ハヌムヤーンの部屋の小さな扉にノックがある。


 矢車菊からの、子どもを使って我を通すのをやめよ、という長い文句の手紙だった。




 ある夜中、矢車菊の祝福がとうとう喉まで達し、息がとまった。

 軽銀鉱脈の軽銀は身よりこんこん湧きいづるものだから、ふつうの手術ではもう追いつかない。これから矢車菊の喉は切り開かれたまま閉じないことになる。

 医者に取り囲まれた矢車菊は、みずからの固く凝った関節を鎚で割らせ、大火炎、白き帯の二人を、病床の胸へ抱き寄せて、銀色の粉で冷たく重く縁取られた、よく開かない両のまなこで伝えた。


 ――吾は汝らをいつも思うておる。口で言わずとも目や指で話そう。この身が唄を忘るるとも詩は忘るるまい。


「矢車菊。白き帯に、唄をください」

 ふだんおとなしい白き帯がすすりなく。

 矢車菊はいま、ほほ笑んだのだろうか。

 彼女の唇から、ざらざらかさついた呼気が漏れ……大火炎は耳をすます。大魔術師の足音へ。



 部屋の扉が音高く開け放たれ、矢車菊は重たく冷たい銀のまなこをみしみしいわせながら見開いた。


 月光をとりどりに刻んだがごとき、ステンドグラスの輝きを背に、大魔術師は悪しき煙をまとってあらわれる。その横に、小さな助手ふたり、優し月と大魔術師の従者も。

 ハヌムヤーンはつかつかと、最近もう矢車菊が乗ってあそぶこともなくなっていた吊り床へ歩み寄った。

 ナイフを一閃し結び目の一つをほどくと、うちから石が一つ転がり出る。

 大火炎が埋めたときには曇り一つなかったこの石はいま、銀色の軽銀そのものとなり、ハヌムヤーンの手の中にある。


 矢車菊にはもはや、招かれざる客の蛮行をとがめる力もなかった。養い子からの贈り物をだいなしにされても、薄い背を抱き起こされ、やせた顎を魔術師の冷たい指先ですくいとられても。

 ほとんど鼻の触れ合うような距離まで詰められても、その大魔術師がせせら笑いを浮かべても。

「恩に着てもらおう。永劫な」

 その声が聞こえたかと思うと、やにわに奪われた唇から、いかずちのごときものを矢車菊は感じた。

 見開いたままの口づけ。唇はせせら笑いのまま。

 だが、ハヌムヤーンの目だけ、目だけはなにごとかを矢車菊につよく語りかけていた。なにかを。

 矢車菊には、顔を合わせれば言い争いばかりのこの男が、まなざしに何をこめているのか分からない。


「――なにをする!」

 ひさびさの大声が、矢車菊の肺から喉へ突き抜けた。

 殴りつけるような抵抗がハヌムヤーンの頬へくわわり、ひとかたまりは二人に戻った。

 ハヌムヤーンの手から、一つ何かが寝台へ落ちる。いや、放り出したのか。

 軽銀からそのまま削り出したような、細工物の小函であった。側面には水、花、小鳥、星、糸の絵図。矢車菊が大火炎たちへ語って聞かせ、又聞きしてはハヌムヤーンが鼻で笑った、とるにたらないもの。それに、誰もきづかぬ端のほうに、涙をこぼすうつくしい一人の女。


 そのうつくしい小函のふちから、銀の小石がころころこぼれだしている。

 かわりに、矢車菊は身軽くなった。胸へいっぱいに空気がとりこまれ、まばたきを繰り返すうち、目はぱっちりと開かれる。銀色に染まっていた髪は、病の汗でしめっていたが、指を通せばアルミニウムの砂がばらばら落ちた。手で強く払うだけで、体から殻のごとくよろっていたものが落ちていく。


 体がやわらかく、かるい。

 まるでまだ草原にいたころのようだ。


 あの函が、矢車菊の苦しみすべてを肩代わりしている。矢車菊はそのことに気づく。

 部屋の皆が、飲んでいた息をゆるゆる吐きだした。

「…これは、ハヌムヤーン……そなたが?」

 いらえはない。

「なぜだ。汝は吾を……嫌っていたのでは」

 ハヌムヤーンは矢車菊を腕の中から放り出し、夜着の上に羽織ったガウンを翻して去った。

「湯を使え。におうぞ」


 室にはもはや病み女ではなくなった矢車菊と、未だ奇跡を信じきれぬ看護のものたち、すべて知っていた大火炎と優し月、ハヌムヤーンのすてぜりふだけが……。


 いや、もう一つ。


 矢車菊の口中に、真珠がひとつぶ残った。






 大魔術師ハヌムヤーンと草原の娘矢車菊は、また顔も合わせぬ口もきかぬ生活に戻った。

 もう分かった、難ないと、ハヌムヤーンは自分のための真珠を生む函、そのほか今いる者のみならず、今現在空席となっている鉱脈の分まで、数多い、ほんとうに数多い小函を作り、もはや肉体的に苦しむものはなくなった。

 鉱脈たちの涙ながらの礼の言葉も、ささげられた宝石類も、ハヌムヤーンには何の価値もない。大魔術師は無聊をかこつようになった。


 もともとなにごともおっくうがるハヌムヤーンだったが、その性はますますいちじるしくなり、もはや本の頁を繰るのも人にやらせるようになった。フラウリンガは書見台として何時間もハヌムヤーンの目前へ書物をささげもつ役目を喜んだが、優し月は思案げであった。


 すべてを見通す目を持つハヌムヤーンは、おろかでおさない弟子の考える程度のことくらい、やはり見通していて、口に出しては言わせなかった。

 大魔術師とその弟子は、さとっていたのだ。


 星々の海底(うなぞこ)には、悪しき好奇心がうずまいていることを。




 他方、もう一人のおろかでおさない弟子、大火炎は、今まで以上に矢車菊の部屋をおとなうようになった。

 その性は与えられた名のとおり剣呑だったが、矢車菊の糸かせに両腕をとられても、大火炎はおとなしかった。矢車菊の唇からこぼれるすこやかな詩のせいだった。

 


 空のぬか星、地のくさ原。

 小さな火をかこみ語らう、男たちの歌。あこがれてたばこをまねる、幼い子たち。

 生ぐさくあたたかい、生まれたての仔やぎ。


 矢車菊は多弁な娘だった。

 唇に詩をのぼらせるだけでなく、手指で織ったうつくしい絵巻のなかに、物語を残した。

 うれしいときもかなしいときも織る、手ばた。


 太陽を食らう鷹、月を食らう(うお)。雨と風の婚姻により、騒乱に満ちたりゆく大地と、青いくちびるの怪物、山羊追いが持つ銀のらっぱ。

 母から娘へつたえられる文様は、言葉を使わず物語を紡ぐ。

 大火炎と白き帯が息をひそめて見ていると、矢車菊はまたたく間に一編の詩、一抱えの絵巻を作り上げてしまう。


 矢車菊が声をひそめて怪物と英雄の一騎打ちを物語るそういうとき、運命すらもが身を乗り出して彼女の語りに聞き入るような、えもいわれぬ雰囲気があった。



 矢車菊は陽気な娘だったが、やがて、かなしい歌をうたうようになった。

 故郷を持たぬ草原の民に、望郷のうたはない。

 だから別のうたを、この世界になにか面影を見つけるたびうたった。


 わが子を胸にだきながら、わが母を恋う歌。

 水たまりに取り残された、小さな月。


 ひそかなささやき声の歌はしかし、ハヌムヤーンの耳にとどく。





 

 矢車菊は図書室にも熱心に通い、グラナアーデの歴史や説話をあつめては作品に取り入れた。室はまたたく間に絵巻で満たされる。

 百も二百も織り上げたころには、さすがの矢車菊もつかれはて、また枕から頭が上がらないほど体が重くなっていたが、しかし織女は力をふりしぼり、また一着を織り上げる。


 それは、恩人のための真心こもった、うつくしいガウンだった。


 (かめ)を作って漬け染めするほどには量がとれない貴重な染料は、小さな鉢ですりつぶしたものを布でつつんで摺り染めに使う。

 指と刷毛で何度も生地をなで、いとおしみ、矢車菊はガウンの背へ、白玉で装った帝王をみごとに染め抜いた。



 顔を合わせるといつもけんかになるので、ガウンは大火炎が持って行った。

 ガウンを誇らしく、ばんざいの形で目前に広げられてすぐ、ハヌムヤーンの表情に一瞬去来したものを、大火炎はガウンの影で見逃した。子供の大火炎にはあまりに大きすぎたのだ。



 ハヌムヤーンは悪態をつくと、すぐさま重たい身を起こして真珠鉱脈の従者に命じ、矢車菊の部屋の絵巻を、ガウンもろともにすべて、焼き払わせた。







 それから、大魔術師は図書室の歴史書、説話、小説、画集詩集歌集にいたるまで、物語という物語を焼き払ってしまった。


 大魔術師を止められるものなど誰もいない。

 矢車菊のささやかなたのしみはことごとく失われ、さすがの矢車菊も鬱々として、重たい頭を枕からあげられなくなるようになった。


 ハヌムヤーンと矢車菊の不和、確執は、もはや埋めがたいものとなり、二人の間を行き来するのはおさない大火炎のみ。大火炎は懸命に養い親のふたりの仲を取り持とうとしたが、もはやならなかった。


 大魔術師は寝椅子で新たな魔術の開発に没頭し、草原の娘は無地のじゅうたんを一枚織り上げたきり、固い腰掛けから、ガラス細工のはめ殺しの窓を見てばかりになった。


 いや、やはり、もう一つ。


 矢車菊の口中に、詩が。

 詩が一編残った。

 (かがよ)う神を物語る詩が。



 ハヌムヤーンの大魔術は理論上仕上がって、あとは実践を待つのみとなった。

 ハヌムヤーンは実験台に矢車菊を指名した。


 なにも知らせぬまま、またなにも問わせぬまま、大魔術師とその弟子たち、優し月と大火炎の三人は矢車菊の部屋を訪れる。


 夕暮れのことだった。


 燃えるような夕焼けがステンドグラス越しに部屋へきらめきを投げかけるはずのころだったが、廊下の窓は彼女の居室に近づくにつれ無地の分厚い布を縫い合わせたものでおおわれだし、またその居室内も同様であった。

 まるでハヌムヤーンの室と同じように。

 驚きさざめく侍女たち、何もわからないで微笑んでいる白き帯をしたがえ、矢車菊は、静かに侵入者を見返す。


 大魔術師ハヌムヤーンは、小さな腰かけにかける矢車菊を見下ろして、魔王のごとく言い渡す。

「――借りを返してもらおう」

「吾にできることならば」


 矢車菊はなにもかもわかっているかのようにすばやく答えた。

 いいや、なにもかもわかっているのだ。


 大魔術師はその魔術の素養から。

 草原の乙女はあつめた物語の、今はもはやうしなわれて矢車菊の胸にだけあるその断片から、星辰の奥底にひめられた真実のおそろしさを悟っている。


 乙女は別れの前に、子らを3人まとめてかきよせるように胸に抱いた。


「――大火炎、まことあいすまぬがそなたを見込んで頼む。一つ伝言を頼まれてくれ」

 大火炎はかなしみながらもうなずく。

 大火炎は、わるがしこさにかけて、ほんとうにずぬけていたので、たった一度聞いただけでその長い詩をそらんじることができた。

「これからは正直に生きよ」

 大火炎は答えられなかった。これからすぐ、矢車菊を三人でだますのだ。


「――優し月。苦労をかけてまた、そなたにもあいすまぬ。吾はよき母ではなかったが、このあといかなることになろうとも吾はちっともうらみはせぬと覚えておおき」

 寡黙な優し月もこれには涙を一つぶこぼした。

「矢車菊……今まで優しくしてくれてありがとう」

「吾はいつも、吾が子らを思おうよ」


 そして白き帯をひときわかたく胸に抱いてから、矢車菊はその肩をおした。


「白き帯、花を摘んでおいで。夜、湖のほとりに月光花というのが光るという。吾はいちど見てみたい。次の手慰みの手本にしたいから、いちばん明るいのを選るのだぞ」

「はい、矢車菊」

「大火炎、そなたもついていっておやり。帰りが夜道になろうから」

 それを聞いた瞬間の、大火炎の目が一瞬黄金に輝いたのに、まわりの誰も気づかない。

 大火炎本人だけが思った。

 ――この胸のざわつきは、最後のわかれを言えないほうにぼくがえらばれて、怒っているのだろうな。よりよい反応は悲しむほうだろうし、もっといいのは受け入れることだろうけど、と。



 他方、その場にのこったハヌムヤーン、優し月、矢車菊の三人のほうでも、うるわしき別れにはならなかった。

 事情をとうとう知らぬままとなった侍女たちを残らず室の外へと追いはらうと、調度のすべて、無地のじゅうたんさえもくるくる巻いてはじへ避ける。大魔術師とその弟子は、冷たい白い石の床へ、暗黒の炭を光の水で溶いた墨と、水晶の筆でもって、おそろしき魔方陣をえがきだす。


 輝かぬ月、咲かぬ花、足もたぬ獣、目のない男それらいろいろ、なにかを求めてやまぬものども。

 それらを深淵の幾何形に分けほどいて描いた魔法陣の中央に矢車菊をすえる。あたりは紫の煙がたちのぼり、大魔術師は何があっても陣から動かぬように言いわたした。


 何があってもとはそう、たとえば、血まみれの大火炎を引きずって、血まみれの白き帯が室の扉をあけ放ったとしても。





 廊下は血の川が流れていた。

 大火炎を半殺しにし、廊下の侍女たちの息の根をとめた、返り血にまみれた白き帯が、じっと矢車菊を見つめている。

 もはや白いところなどどこにも残っていない白き帯の、悲しい声が静寂の室内へ響く。

「――矢車菊。わたしは捨てられるのですか?」


「……!!」

「……ばかな……!」

 絶句した矢車菊のかわりに、ハヌムヤーンはうめいた。

 あの悪だくみのうまい、ずるがしこい、そつのない大火炎が、まさか白き帯相手にしくじるとは。


 血を流していないところなどどこにもないまま、長い長い引きずられた血痕を廊下に残していた幼い大火炎の目は、あまたの殺人を目前とし、また半死半生まで追い込まれた怒りによって、息も絶え絶えながらいまや黄金に炯々と輝き怪物のごとくなっていたが、ほんとうの怪物に対しては何事かあらん、

 ……いや。ほんとうは、大火炎のほうの悪だくみする力がうしなわれていたのだ。悲しみのあまり。

 いま怒りくるったところでなにになろう。確かに大火炎は、やしない親からの永久なる離別を前にして、みずからの悲しみにとらわれ、だましきらねばならない悪しき怪物をだましきれなかった。


 大火炎は知らなかったのだ、

 人の心をわからぬ白き帯こと、親の遺灰から生まれた、人の姿を模してほほえむ怪物が、人の心はわからずとも、あるじの心のうごき、気配をさとるのにだけはあまりにもたけていることを。黙りこくって花を選ぶ大火炎のしぐさ、たったそれだけから、音もとどかぬほど離れた城の中で、おこっていることを悟るくらいには。



 臓物はささげられた。



「出るな、矢車菊」


 この、わかれのときにやっと呼ばれた名のことを、では、それと呼べるのかは、だれにも分からない。 

 


 ハヌムヤーンの大魔術は、悪しき力が気まぐれに呼び出した鉱脈たちを、あるべき世界にもどすわざ。

 まだ呼び出されぬよう番をする必要がある。

 その番を、ハヌムヤーンはみずから務めんとしていたが、しかし、いまとなってはいかんともしがたかった。



 矢車菊は、魔法陣よりもとの世界へ。

 ハヌムヤーンは、消えゆく矢車菊を追って、穴の中へ飛び込んだ白き帯の魔力によって、術式の暴走の余波をうけた。からだは裏返り、白き帯と共に虚空へ消え去り、二度と戻らなかった。


 白き帯こと、九十八番目の軽銀鉱脈の従者の最期は悲惨なものであり、遺灰の残らなかった体は、二度と復活しなかった。


 ハヌムヤーンを追って、時空に空いた穴へ片手をつっこんだ大火炎は、穴の中でわが身が消え去り、またなにものかと(いつ)となり、そしてまたなにものかが探りまわり、引き抜いた片手が、いや、わが身すべてが、もはや元のわが身ではなくなっていることを悟った。


 気の短い、悪だくみのへたな、あわれな幼子、これがやがて九十九番目の軽銀鉱脈の従者となる。


 異界わたりの穴は大魔術師の弟子、優し月の肌へと折りたたんでしまわれた。


 あまたいた侍女たちは皆殺しにされたきり、自動人形がその席を埋め、城は静寂で満たされる。

 そう、この失敗から二十年、仲のよかったクラージュとジュノ、ふたりはほとんど一言も話さなくなる。


 残されたのは、詩。

 矢車菊が残した、(かがよ)う神の、おぞましい詩。





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