今までも、これからも
応接間を出て、すぐ近くにいたメイドにフィリップ様の部屋へと案内してもらい、歩いていく。
やがて辿り着いた彼の部屋の前にはセドリック様がいて、わたしを見るなり困ったような表情を浮かべた。
「待たせてごめんね。やっぱり駄目みたいだ」
彼は再び溜め息を吐くと、肩を竦めた。
「……あの、セドリック様。申し訳ありませんが、しばらくこの場はわたし一人にしていただけませんか?」
「うん、わかったよ」
「ありがとうございます」
兄さんを頼むね、と微笑むと彼はメイドを連れ、その場を後にした。セドリック様には改めてお礼をしなければと思いながら、わたしは一人ドアに向き直る。
「フィリップ様、ヴィオラです。突然訪ねて来てしまい、すみません。けれどどうしても、お話がしたくて」
「…………」
「少しの時間でいいので、会って頂けませんか」
それでもやはり、返事はない。
……先ほどのヴィオちゃんの言葉がなければ、ここで諦めて帰っていたに違いない。けれど、今は違う。
彼はまだ、わたしを好いてくれている。その事実がわたしを何よりも支えてくれていた。
「では、このままどうか聞いてください」
きっと彼は聞いてくれている。そう信じて、わたしはドアにそっと片手を添え、続けた。
「……子供の頃からずっと、フィリップ様は遠い存在だと思っていました。わたしには釣り合わない、完璧な人だと」
身分も容姿も、勉学だって何だって。何もかもが釣り合わない、何でも完璧にこなしてしまう彼と、不器用なわたし。
そんな彼が生まれた時から一緒にいること、周りからもそう言われることで、つい自分と比較してしまっては卑屈になり、何度も何度も自己嫌悪に陥った。
「そんなフィリップ様はいつも素っ気ない態度で、その上本人の口からも、そんな言葉を聞いてしまったんです。だからこそずっと、わたしは嫌われていると思っていました」
そんな状況で結婚したところで、お互い幸せになんてなれるはずがない。彼にはもっと釣り合う人がいるだろうし、わたしもこれ以上、自分を嫌いにならなくて済む。
あの頃のわたしは、そう信じて疑わなかった。
「その結果、記憶喪失だなんて嘘を吐いてまで婚約破棄をしたいと思ったんです。それなのにあの日、フィリップ様が愛し合っていた、なんて嘘をつき始めた時には本当に驚きました。新手の嫌がらせかと思ったくらいです」
そんな突拍子もない嘘を吐くくらいなのだ。彼からの愛の言葉だってなんだって、全て嘘だと思い込んでいた。
「けれどそれからのフィリップ様は、わたしが知っていたフィリップ様とは別人のようで……わたしも人のことは言えないけれど、とんでもない嘘ばかり吐くし、想像もしないような変な行動ばかりで、本当に、もう訳がわからなくて、」
だんだんと、視界がぼやけていく。まだ泣くな、と必死に自分に言い聞かせる。
「本当は、全然、完璧なんかじゃなかった」
デートで川に行ったり、変な本を読んでいたり。わたしの下手すぎる刺繍で恥ずかしくなるくらい喜んでくれたり、わたしに似たインコに、何でも話していたり。突然、アイスペールを被ったり。今思い出してもおかしいことばかりだ。
それでも。
「けれどわたしは、そんなフィリップ様が好きなんです」
そんな彼を、わたしはいつの間にか好きになってしまったのだ。ずっと側にいたいと、思ってしまった。
「っ優しくて一生懸命で、不器用だけどまっすぐなフィリップ様が、わたしは、大好きなんです」
瞳からは再び、涙が溢れていて。声が震え、言葉が途切れる。それでもわたしはきつく掌を握り、続けた。
「これからは自分の意思で、フィルと呼びたいです。これからもフィリップ様の婚約者でいたい、です」
「フィリップ様と、ずっと一緒に、……っ」
そこまで言いかけたところで、不意にドアが開いて。そこに片手をついていたわたしは突然前のめりになり、ぐらりとバランスを崩してしまう。
けれど身体が、倒れていくことはなくて。気が付けばわたしは、フィリップ様によってきつく抱きしめられていた。
「……すまない」
そう呟いた彼の声は、震えていて。大好きな体温に、匂いに、声に。余計に涙が出る。
「本当に、すまなかった」
「…………」
「俺のせいで君を泣かせて、傷付けて」
「フィリップ、様……」
「いくら謝っても、謝りきれない」
それからしばらく、抱きしめられていたけれど。やがて彼はそっと離れると、不安に揺れる瞳をわたしに向けた。
「ずっと避けていて、すまなかった」
「いえ、あんな嘘をついたわたしが悪いんです」
それでも彼は「俺が悪い」と言ってきかない。ここまでくればもう、お互い様な気がする。
「……君の言う通り、俺は完璧でもなければ、口下手なくせに嘘吐きで、とても格好悪い男だと思う」
「はい、知っています」
そう答えれば、フィリップ様は眉を下げて困ったように笑って。そっと右手でわたしの頬に触れた。
「それでも、誰よりも君のことが好きな自信だけはある」
熱を帯びた瞳が、まっすぐわたしを捉えている。
生まれた時からずっと一緒に居たというのに、今になって初めて、わたしは彼とちゃんと向き合えた気がしていた。
「もう君に、嘘はつかないと誓う。……こんな俺でも、これからも君の側に居てもいいだろうか」
「わたしも二度と、嘘はつきません」
そして「ずっと、一緒にいてください」と伝えれば、彼は戸惑ったような表情を浮かべて。やがて5分ほど謎の沈黙が続いた後、フィリップ様は躊躇いつつ、口を開いた。
「その、君は、俺のことが好き、なのか」
「はい」
「…………本当に?」
「はい、大好きです」
即答すれば、フィリップ様はずるずるとしゃがみ込み、両手で口元を手で覆うと「はー……」と長い溜め息を吐いた。
その顔も耳も、驚くほど真っ赤で。わたしはそんな彼に合わせるように、しゃがみ込む。そんな姿も可愛く、何よりも愛しく見えてしまうのだから、恋というものは恐ろしい。
「……言葉が、何も出てこない」
「こういう時くらい、何か言ってください」
「今なら、死んでもいい」
「だめです」
だんだんと、その表情は今にも泣き出しそうなものへと変わっていく。今度はわたしが、そんな彼の頬にそっと触れてみる。すると金色の瞳からは一粒、涙がこぼれ落ちて。
「……本当に、ずっと、君が好きだったんだ」
そう呟いた後、ぽすりとわたしの肩に顔を埋めたフィリップ様を抱きしめながら、わたしは過去の自分が報われていくような、そんな気がしていた。




