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第19話 100均の吸盤と家鳴り



 20代で家を買う――。

 若者世代の低賃金化が叫ばれている昨今、これは偉業(いぎょう)といってもいいだろう。


 宮川五依里(みやがわいより)はかつては目標だったそれを自信という(かて)にして人生を邁進(まいしん)していた。


 ただ、得たもののかわりに失ったものがいくつかあるような気もする。

 二十代の前半のほうなど、息をするほかは仕事ばかりしていたので、忙しすぎてほとんど記憶がない。きっと後から思い返して、旅行のひとつも行っておけばよかったなあなどと思う日が来そうである。


 しかし、今のところ彼女に過去をのんびり振り返る(ひま)はない。

 デザイナーとしてもフリーランスになったばかりで忙しく、週末にはグラスアートの教室を開く予定もある。


 さあ、集中しなければ。


 自分に言い聞かせたそのときである。


 カターン!!

 カラカラカラ……。

 

 新築のにおいが残る家の中に、大きな音が鳴り響く。

 五依里はびくりとして身を強張らせた。

 音の正体はわかっている。風呂場に設置した吸盤つきの石鹸(せっけん)トレイだ。

 百円ショップで購入したものなのだが、吸盤が弱いのかしょっちゅう壁からはがれて落ちてしまっていた。


 実は、何度か買い替えてみもしたのだが、結果はあの音であった。


 まあ外れたものは後で付け直せばいい。無視しよう。

 そう思うのだが、五依里の頭に浮かぶのは一昨日見た心霊特番であった。

 彼女は二階の仕事部屋にいる。大きくとった窓からは、やつかの海岸線が一望できた。

 砂浜につなぎを着たひとりの若者がいる。





「心霊現象……?」


 宿毛湊(すくもみなと)はおうむ返しに呟いた。

 砂浜の上を走って彼の元に現れた宮川五依里は、恥ずかしそうに顔を真っ赤にしていた。


「そういうのって、本当にあるのかなって、ただそれだけ聞きたくて。……いえ、なんでもないです。忘れて」


 宿毛湊は首を傾げた。

 なぜ、聞いておいて否定するのか。彼女は真っ赤になって自分を恥じているのか。

 そういう疑問である。

 しかし、深くは追及せずに、(たず)ねられたことだけを答えるのがこの男の性分だ。


「あるといえばあるし、無いと言えばない。基本的に霊感という才能がなければ感じ取れない世界の話だと言われてる。宮川さん、霊感は?」

「ない。……ない、はず」


 だったら、と言いかけて、宿毛は思いとどまった。

 五依里は目の下にくまができていた。

 なんとなく全体的にちょっと疲れているようにも見える。

 他人から見ると大した問題ではなくても、本人にとっては大問題、ということも大いにあるのが怪異業界だ。


「不安なようなら、今から行って見てみようか」

「宿毛くん、霊感あるの?」

「ない。でも、狩人には霊薬(れいやく)があるから」


 胸ポケットから銀色の缶を取り出す。

 健康ドリンクの入れ物のような細長い缶だ。


「人に化ける怪異とか幽霊のたぐいを見るとき、普段は鏡や狐の窓を使うんだが、それだと間に合わないときや、より高度な看破(かんぱ)が必要なときはこれを飲む」

「へえ。おもしろそう。あ、でも、それを私が使えばいいんじゃない?」

「色々と余計(よけい)なものも見えるから、怪異の知識がない人間が飲むと、かえって危険だ」


 中身はどろりとした緑色の液体だった。

 それを飲み干すと、じきに変化があった。

 狩人の瞳が獣のような金色に変わったのだ。

 宿毛湊はその状態で宮川邸を見て回った。

 吸盤がよく落ちる風呂場を中心に、床下や屋根裏(やねうら)、押し入れの奥までもぐりこんでライトで照らす。


「幽霊らしいものがいた痕跡(こんせき)はない」


 床下収納の(ふた)をしめた狩人がそう言うと、五依里はほっとした。

 でも、それも束の間のことだった。


「たぶん、家鳴(やな)りだと思う」


 狩人が続けて言う。


「え、何かいたの?」

「家鳴りだ。家を揺する妖怪。小さな鬼の姿で描かれることが多い」

「鬼って……完璧に強そうなんだけど……」

「妖怪たちは一部の種族を除いて現代ではあまり強くない。家鳴りも、最近は工法が発達して家を揺するほどの力がないから、百均の粘着力がない吸盤を落とすことばかりしてる。それに鬼というのは、元々は姿形を持たない影や霧のようなものなんだ。だから、安心して暮らしていい」


 五依里はじっと宿毛湊の顔を見つめていた。

 そうしていると、なんとなくお互いに高校のときのことを思い出す。

 一瞬で過去にタイムスリップしたかのようだった。


「おねがい、宿毛くん。本当のことを言って……」

「本当のことだ、五依里さん。俺のことを信じろ」


 宿毛湊は、力強く、(おび)える独り暮らしの女性を見つめた。


「あなた、そう言って史上初のディカプルカウントで私のことをボコボコにしたのよ」

「あれは君がつらそうだったから……」

「他人のせいにするの? 私はあれでけっこう傷ついたわ」


 宿毛湊は唇を噛んだまましばらく黙っていた。

 彼なりに、過去の行いは反省しているのだ。

 そして無言のまま、さっき蓋をしめた床下収納に潜っていって「よいしょ」と言いながら戻ってきた。

 その両手はテディベアくらいの何かを抱いている格好(かっこう)で固定されていた。

 五依里からは空気を抱いているようにしか見えないが、それにしてはしっかりとした質量が腕に抱えられているのがわかる。


「見えないけど、けっこうでかい!! いやだ!! 信じたくない!!」

「だから言ったのに……」


 その後、五依里はしつこく吸盤を落っことしてくる謎の透明な生き物とひとつ屋根の下で暮らすことになった。

 狩人いわく百円ショップではなくきちんとした量販店で買った品をつければ()がれることもなくなり、やることがなくなった家鳴りもどこかに去って行くらしいが、それは何だかかわいそうな気がした。


 霊感のない五依里には相変わらず姿も見えないし、どこにいるのか気配も感じない。


 ただ、たまに畳んだタオルの上に吸盤が落ちてるのを見ると、同居人の存在のことを思い出すのだった。

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