第18話 伊根家の風呂、海になる
伊根家には元気な小学生男子が二人いる。
ひとりは六年生のかっちゃん。
もうひとりは三年生のよっちゃんだ。
性格的に二人は正反対のタイプだ。
二人が同時にご飯を食べ始めたら十五分後にはかっちゃんはゲームをしようとしてる。
でも、よっちゃんはご飯茶碗を手に持ったまま、ぼーっと考え事をしている。
そういう感じの兄弟だった。
ちなみにその間、お母さんはてんてこ舞いだ。
かっちゃんにはゲームをする前に学校の用意をするように注意し、よっちゃんにご飯は箸を動かさないと食べられないことを思い出させなければならない。
ようやく自分の夕飯を食べようとすると、今度はタイミングよく二人が好きなおかずを取った取らないで喧嘩をし始めるのだった。
ようやく平穏が訪れるのは喧嘩をなんとかおさめ「宿題も学校の用意もしないならお風呂に行ってらっしゃい」と送り出した後のことだ。
この日もそんなふうにいつも通りの風景が繰り広げられ、忙しいお母さんはくたびれ果てていた。
「おかあさーん!!」
風呂に入ってるはずのかっちゃんが大きな声を出した。
「おかあさーん!! 《《おふろがうみ》》ーーーー!! おかあさーん!!」
「何言ってんの。お風呂が海ぃ? バカなことばっかり言ってないで、肩までつかってから出てきなさい!!」
お母さんははっと気がついた。
「うるさくしたら、お隣さんに迷惑でしょう!!」
大声をだしてしまった以上、近所迷惑は避けられない。
でも、一応、隣近所に配慮しているのだということを知らせておこう。
そういう心遣いである。
風呂から上がった兄弟はリビングでゲームをし始めた。
宿題も学校の用意もしていないが、宿題と口に出した途端、二人が蜘蛛の子をちらしたように裸で走り回ることは目に見えていた。
そうなったら、伊根家はもうコントロール不能になり、なす術がない。
せめてまだ、お風呂が暖かいうちに。
お母さんは投げやりな気分で自分も風呂場に向かった。
浴槽の蓋を外した。
よほど疲労が深いらしく、いつも変わらないはずの浴槽の内側が妙にキラキラ輝いて見えた。
波紋を浮かべてアクアマリン色に輝く水底に、サンゴ礁がある。
眼下を黄色と黒の縞の熱帯魚が悠々と泳ぎ、エイやウミガメが横切っていく。
比喩ではない。
ほんとうに、風呂の中にそんな光景が見えるのだ。
「……………お風呂が海だーーーーーーーーっ!!」
お母さんは力いっぱい叫んだ。
裸のまま、リビングでゲームをしていたかっちゃんは「だから言ったのにー」と答えた。
*
翌日、変わり果てた姿となった風呂のことをパート先の同僚に相談したら満場一致で「組合に連絡するしかないだろう」という結論に達した。
やつか町で暮らして長いパートのおばちゃんたちは、こういうとき誰が派遣されてくるかも把握済みで「伊根ちゃんちなら、スクモさんね」と言われた。
「あの子はやつかの子だから大丈夫よ、お母さんの顔もよく知ってるし」とも言われた。
狭すぎる世間である。
さて、お母さんはパート先から帰ってすぐに怪異退治組合やつか支部に連絡した。
そして大方の予想通り、狩人の宿毛湊が派遣されてやって来た。
顔を合わせてわかったのだが、ご近所さんであった。
念のためダッシュで帰って必死に風呂掃除をしたのだが、洗面器の裏側にこびりついている湯垢に気がつかれないかどうかヒヤヒヤものだ。
その努力を知ってか知らずか、狩人は浴槽を覗いて「海ですね」と茫洋とした口調で言った。
風呂の中には広大な南国の海が広がっている。
栓を抜くと水が流れ出ていくにつれて海の風景は消えていく。
しかし再び水をためると元通りだ。冷水でも温水でも同じことになる。
水は風呂にためた瞬間に海水に変わるため、きのうから伊根家の面々はシャワーしか使っていなかった。
「浴槽を使いましたか?」
「いえ、なんだか怖くて……」
「よかった。海の中に入るとどこに行くかわからないんで、使わないでください。かっちゃんとよっちゃんが帰ってくるのを待ちましょう」
そう言って駐車場の軽トラに戻っていった。
なんだか、さらりと怖いことを言われたような気がした。
かっちゃんとよっちゃんが順に帰宅すると、狩人は二人を順番に風呂場に呼び出した。
それぞれ十分くらいで解放された。
「伊根さん、原因がわかりました。風呂を海にしたのは、よっちゃんです」
狩人はお母さんを呼びに行き、もう一度、よっちゃんを風呂場に呼び出した。
そして手にした『海のおもしろい生き物図鑑』を見せた。
狩人が見せたのはクラゲのページだ。
透明な美しい触手を二本伸ばしたクラゲの写真が大きく掲載されていた。
「よっちゃん、これはヤジロベエクラゲ。ヤジロベエに似てるクラゲだよ」
狩人がそう言うと、よっちゃんはじっと写真を見つめる。
「伊根さん、浴槽の中を見ててください」
南国の海の風景に一匹のクラゲが現れた。
「よっちゃん、ヤジロベエクラゲは光が当たるとエメラルドグリーンに輝くんだよ」
狩人の言葉にうながされるように浴槽の中のクラゲも明るい緑色に輝きはじめた。
「よっちゃんは、空想をして遊ぶほうですか」
訊ねられたお母さんは戸惑いながらも頷いた。
確かによっちゃんは、友だちと遊ぶよりもひとりで絵本を眺めては、ぼーっとしていることが好きな子供だった。それは幼稚園の頃からだ。
「これは海外からの報告ですが、子供のイメージが反映される怪異があります。子供が怖がっているトイレにオバケのようなものが出たり、今回のように浴槽の中が水槽みたいになってしまったり……」
「どうしたらいいんですか?」
「時間の経過と共に、自然と納まったというふうに聞いてます」
「どれくらいの時間で?」
「少なくて三日、一番長いケースは十年」
十年も、とお母さんは絶句した。
もしも一番長いケースが伊根家に該当したら、十年ものあいだ風呂は水族館状態である。
「なんとかなりませんか?」
「これといった対処方法はないんですが、よっちゃんに空想をやめさせるよう働きかけることは有効だと思います。よっちゃんの想像力が問題ですから」
お母さんは、よっちゃんと向き合った。
よっちゃんに空想をやめさせる……。
「家族の迷惑になるから想像なんてするなって言うんですか」
「そうです。魔女に依頼して治療する手もあります。高度な魔術で精神に働きかけ、想像力を押さえ込みます」
「でも、それって……魔法で頭の中をいじるってことですよね……」
「精神科の治療では一般的に行われてる手法です。魔法で一時的に考え方を変えても、魂まで変容することはありません」
お母さんは迷った。
迷ったが、とてもひとりでは決断できないことに思えた。
その後、伊根家の話し合いが行われ、しばらく風呂問題は見送ることとなった。
そして宿毛湊は週に一度、伊根家に通ってよっちゃんと基礎的な魔法のトレーニングを行うこととなった。瞑想することや初歩の魔法を覚えることは、想像力をコントロールすることに似ているからだ。
根本的な解決にはならないが、風呂場で起きていることが自分の想像力によることだと自覚できたら、浴槽を元に戻すこともできるようになるかもしれない。
もちろん想像力がコントロールが可能になることで今度はシンクやトイレの中までもが水族館になってしまうことも考えられるが、国内での発生例があまりないケースなのでやってみるしかない。怪異退治にはそういう場当たり的なものも多い。
*
第一回目のトレーニングが終わった後、遅い昼食をとるために宿毛湊は自宅に戻った。
月三万という破格の家賃で借りている一軒家だった。
風呂場は一階の奥にあり、普段はシャワーだけを使う。
彼は閉め切っていた窓を開けて、久し振りに浴槽に水を流した。
満杯になる直前で水を止め、青いタイル張りの床に座ってしばらく待つ。
すると、ふいに水滴が跳ねた。静かな水面に波紋が立つ。
浴槽を覗きこむと、そこはどこか知らない海だった。
底のほうには白い砂が敷き詰められていて、波は穏やかで優しい。
そこを、ひとりの女性が横切っていく。
年は四十代くらいだろうか。
下半身は濃い青の鱗に覆われ、足のかわりにヒレがついていた。
彼女はヒレを小さく動かして、優雅に浴槽の端から端へと泳ぎ去っていく。
この家には、こうしてときどき人魚が現れる。
大家が言うには、人魚の顔は突然いなくなった前の住人にそっくりだそうだ。
人魚のぼんやりとした瞳は、浴槽を覗きこむ宿毛湊の存在には気がついていない。
ただまぶしそうにこちらを見あげるだけだ。
彼女の心は既に、あちらの世界に去ってしまったのだろう。




