第17話 世間様がみてる
佐伯家の姑は何かにつけて「世間様が見てる」という物言いをした。
口やかましくて細かいことにうるさい人物だった。
朝寝坊をしたときも、玄関の草むしりが完璧でなかったときも、ゴミ捨てのときにくたびれたジャージを着ていったときも、姑は「こんなところを世間様が見ていらっしゃったら、なんて言われるかわかりませんよ」と判を押したようなことを言ってカンカンになって怒った。
一度などは孫の手でぴしゃりと尻を叩かれたこともある。
結局、佐伯美優はこの姑と最後まで打ち解けることはなかった。
もちろん、夫の収入があまり良くないからといって、安易に同居に踏み切った美優にも非があったのかもしれない。
旦那の母親が実に古臭い人物であることは、婚約の段階から何となくわかっていた。
両家のはじめての顔合わせのとき、せっかく気を使わないカジュアルなレストランを会場にしたのに、姑はひとり黒留袖で現れた。
母が「気さくな関係でいましょう」と結納を断ると信じられないものを見るような目つきになり、結局、後からゴネられてやることになった。
このご時世に干したアワビなんて貰ったってどうなるというのだろう。
そして夫は夫で、妻やその実家が少なからず批判の矢面に立たされているというのに、文句ひとつ挟まない。
姑と争う気がないばかりか、それが当然とでも言いたげだ。
それにくらべると美優は大らかな家庭で育った自覚がある。
土日ともなると、家族全員、昼近くになっても起きてこず、掃除や洗濯が行き届いていなくても気にしないし、両親とも共働きで町内会や自治体のことがどうなっているかなんて何ひとつ知らなかった。
そりゃ確かに、だらしない毎日を送っていれば、噂話が好きなご近所さん方があることないこと口うるさく言ってくるのは知っている。
しかし、そんなものは気にしなければどうってことはない。
世間なんてあってないようなものだ、というのが美優の考えだ。
姑と美優とはまるで違う人間だった。
姑は毎日一分の隙もなく窮屈そうな着物を着て、誰が見ているわけでもないのに床の間に花を生け、背筋をピンと張って生きていた。
「あんな堅苦しい、肩ひじはった生き方、いやだわ」
息苦しい生活にたまらなくなって、何度か旦那に愚痴をこぼしたことがある。
優しい夫は美優の考えをある程度は理解してくれた。
だが最後は「母さんは早くにお父さんを亡くしたから、僕に恥ずかしい思いをさせないよう気丈に振舞ってるんだよ」と言って、全く取り合ってくれなかった。
そんな姑も寄る年波には逆らえず、亡くなった。
病気で半年ほど入院していたのだが、最後は畳の上でと言ってきかず、病院に無理を言って家に戻り、数日後に息を引き取った。
看取ったのは往診にきてくれた町医者の先生と、美優、そして夫の三人だった。
死の直前まで、病の床から家のどこそこに埃がつもってるから掃除をしろだの、使っていない客間に風を通しておけだの、掠れ声で命令してくるようなありさまで、亡くなったとき、美優は心の底からほっと胸をなでおろしていた。
最後の言葉は「後のことは、七尾さんにお任せして」だった。
さて――、この七尾某とかいう人物が問題だった。
てっきりお寺だとか葬儀関係の人間かと思っていたのだが、連絡先にそれらしいものがない。
困っていると、その翌朝。黒喪服姿の男が玄関先に現れて「七尾です」と名乗った。
朝といってもまだまだ日が昇らない、ほとんど夜のうちのことだ。
「お姑様からお聞き及びと存じますが、私、怪異退治組合やつか支部の七尾といいます。この度は、誠に残念なことでございました」
そう言って白髪頭を下げると、後ろに控えていたつなぎ姿の若い二人も深々と頭を下げたので『怪異退治組合』という意図しない存在に目を白黒させながらも、美優も慌てて玄関先に膝をついた。
どこから話を聞きつけたのだろう。
まだ誰にも、姑が亡くなったという連絡はしていなかった。
「では、裏から車を入れさせてもらってもいいですかな? 何しろ時間があまりありません。ご遺族の方々には迷惑をかけませんので」
それから先はあれよあれよという間だった。
七尾氏は葬儀社の人間を何人か引き連れてきており、彼らは勝手知ったるなんとやらといわんばかりに家の中に押し入ってきて――そうとしか言えないほどの素早さだった――瞬く間に姑に死に装束を着せ、化粧をさせ、大広間にしかるべき祭壇を整えはじめたのだ。
打ち合わせもなく、料金のことなど誰も口にしない。
そうこうしている間に七尾氏は連れてきた部下らしい人物らに命じて、庭に簡易テントを張りはじめた。
折りたたみの机を置き、白い布の束を並べる。
何事かと思っているうちにテントに男たちが集まりはじめた。
何人かは町内会で見かけた顔も混じっているが、ほとんどは知らない男たちで、全員紋付き袴だ。
てっきり葬儀やら通夜やらの準備に集まってくれたのかと思ったが、どうも様子がおかしい。そういうことなら、姑が自宅で開いていたお茶や着つけの教室の関係者が誰も来ないということはないはずだ。
「手順書と配置表をくばりまーす。皆さん、開始前に必ず確認してくださーい」
黒いネクタイにスーツ姿の若者がその間を縫って、何やらプリントを配って回る。
七尾氏は桶に水をはり、榊を使って袴姿の男たちの肩を清めて回っていた。
何が起きているのかわからないのは美優と、夫だけだ。
戸惑うばかりの二人に、葬儀社から来た男女が声をかけた。
「故人様の準備が整いました。お手伝いいたしますので、ご遺族様も、ご準備なさってください」
美優は初めて佐伯家の家紋がついた喪服に袖を通した。
*
佐伯家はやつか町でもよく知られた歴史の古い家柄である。
門構えからしてほかの家とはちがう。威圧感のある大きな門はかつては部屋つきの長屋門だったらしく、最盛期は下男がそこに住んで寝起きしていたという。佐伯邸の家の周りには疎水がめぐり、周囲からは隔絶された雰囲気があった。
日が昇るころ、佐伯邸の様相は普段からさらに打って変わって、異常な様相を呈していた。
門から玄関、そして玄関から祭壇が設えられた大広間にいたる途上に、等間隔に紋付き袴の男たちが座している。
男たちは両手に拍子木を構えていた。
最近はやらないかもしれないが、夜回りが「火の用心、マッチ一本火事のもと」と言って歩いて回るときに打つ短い木柱である。
さらに異様なのは、男たちはみんな、真っ白な面覆いをつけて顔を隠していたことだろう。
美優と夫はというと、大広間に寝かされた姑のそばに並んで座り、二人とも懐剣を持たされていた。
その後ろには七尾氏と、黒紋付きに着替えた宿毛とかいう青年が控えている。
もちろん、二人共、白い面覆いをつけた姿だ。
邸内は静謐に打たれたようだ。
夫はこの異様な状況にも、何も言わないで唯々諾々と従っている。
その様子は生前の姑と夫の関係そのままだった。
「あの……懐剣は、ふつう故人が持つものなのでは……?」
長い沈黙に耐えられず、美優は声を上げた。
遺体が悪いものに取り憑かれないよう、枕元に守り刀を置くという風習は知っていた。しかし遺族が持つというケースは聞いたことがない。
「美優さん、これがこの家のしきたりなんです。私が合図したら、額を座敷につけて、決して上げてはいけません。いいですね。絶対にですよ」
七尾氏は好々爺といった容姿にふさわしい優しい声音であったが、それ以外に疑問を差しはさむ余地はないとでも言いたげであった。
そして、それが始まった。
「――――さまのおなーーーーりーーーーっ!」
門のむこうで、男の声が上がった。
そして、門から玄関までに並んでいた男たちが次々に声を上げ、拍子木を打つ。
「おなーーーーりーーーーっ!」
カンッ!!
玄関を開ける音が聞こえる。
木と木を打ち合わせる素朴で小気味よい音が、ゆっくりと大広間まで近づいてくる。
よく聞き取れなかったが「お成り」というからには、誰かが来たのだろうか。
美優はどこか他人事のように考えた。
まるでお殿様みたいだわ、と。
「さ、頭を低く」
七尾氏はそう言って、手本を見せるようにその場に深く傅いてみせた。
じきに、拍子木の合間に、床をすり足で歩く足音がまざるのがわかった。
何かが近づいてきている。
何かだ。誰が、ではない……。
その何かが大広間にやってきた。
薄明りであった庭先が、ちょうど日が昇りきったのか、明るく輝いた。
桟のひとつにも埃を残してはならないと言われていた障子戸の向こうに、黒い人影の、ピンと背中を張った立ち姿が見えた。
障子戸の向こうに控えていた男たちが、一際大きい声を上げた。
「世間様のおなーーーーーーりーーーーーーっ!」
世間様。
はっきりとそう聞こえた。
姑があれだけ口を酸っぱくしていた言葉が、事ここに及んで聞こえてくるとは思わなかった。
それと同時に、疑問がわく。
世間様とは世の中の人たち、という意味あいではなかったのだろうか。
だとしたら、いったい、世間様とは何なのだろう。
カンッ!!
男たちが拍子木を打ち、戸を両側から開いていく。
ふうわりと、藤の香りが漂った。外の明かりが薄暗かった大広間を隅々まで照らしていく。まるで光の洪水だ。
夏の昼間でも、この部屋がこれほど明るくなったことはなかった。
畳を軋ませてそれが部屋に入ってくるのがわかった。
白足袋を履いた足が畳を踏むのが見えた。
それは確かな質量を持って、大広間にやって来る。
そして畳と足袋の擦れる音をさせながら、美優の前を通りぬける。
白絹の着物の裾が見えた。
美麗な刺繍の端も。西陣だろうか。
そのとき――、魔がさした。
そうとしか言いようがない。
見てやろう、と美優は思った。
それは一種の復讐だったかもしれない。
あれほど美優に窮屈な思いをさせた世間様とやらが、どんな着物を着ているか。
どんな姿をしているか見てやろう。
美優は顔を上げた。
金と紫で藤の花が刺繍された見事な着物が目に入る。
時代劇のように髪を結い上げた美しい和装の女性が、姑のそばに座しているのを見た――気がする。結局、美優はその姿をすべて捉えることはなかった。
背後で大きな音がして、それに気をとられたからだ。
振り返ると、七尾氏の連れである青年が畳の上に伏せっていた。
面覆いの下はひどく苦しげに歪んでいる。
右手を前に伸ばした不格好な姿勢は、顔を上げかけた美優の頭を押さえようとしたのだろうと思われる。
みるみるうちに、その手首や首筋に紫色の手形のようなものが浮かび上がった。
まるで見えない誰かの手が掴んで押さえつけているようだ。
それも物凄い力で、ぎしぎしと骨や肉が軋む音が聞こえてきた。
七尾氏をみると面覆いの下の表情がひどく強張っていた。
「ほんとうに申し訳もございません!」
そのとき、美優の頭を誰かの手が押さえつけた。
「うちの嫁が――ほんとうに不躾な、出来のよくない嫁で! すべては私の不徳のいたすところです」
そう言って、皺だらけで骨と皮ばかりになった手のひらで美優の頭を押さえている。その声はどう聞いても姑の声だった。
少し間があって、こちらは聞いたことのない声で「ほほほ」と笑うのが聞こえた。
「まあよいでしょう、お前さんは生前、ほんによう務めてくれましたから……」
それが世間様の声だったのだろうか。
しばらくすると、世間様と姑は手に手を取って大広間を出ていった。
まばゆい光が二人の足音とともに遠ざかっていく。
すべてが終わってから時刻をみると、信じられないことにようやく日の出を迎えた頃あいである。
大広間で倒れた若者は高熱をだし、救急車で運ばれていった。
美優は夫と共に七尾氏にも頭を下げることになったが、彼は苦々しく「まあ、次もありますからな」と言っただけであった。
「次……?」
呆気にとられてそうつぶやくと、夫は申し訳なさそうに美優のことを見つめた。
後日、美優は離婚を切り出した。
自分が死んだあと、あの「世間様」が迎えに来て、美優をどことも知れない場所に連れ去っていくのだと思うと、もう一日もこの家にはいられないという気分だった。
離婚後、夫は元の通り暮らしているようだが、何かの折に通りがかった佐伯邸の様子は以前とは違ってみえた。
古いながら立派だった門構えはただ古いだけになり、屋根瓦があちこち崩れ落ちていた。
庭や玄関先には雑草が伸び、姑が大切にしていた季節の花々は見る影もない。
しまいには屋敷に引いていた水が、水源ごと枯れてしまったといい、じきに疎水もめぐらなくなった。
かつて佐伯邸を見つめていたものは、もういなくなってしまったにちがいない。




