第73話 医聖
某スーパードクターではありません
「すまん、すまん。南陽(袁隗)さまはこれって見込んだ人物に対してはわざと試してみる悪癖があるんだ。まさか奇妙みたいな幼い子どもにまで仕掛けてくるとは思わなんだ。先に注意しとけばよかったな」
南陽郡太守、袁隗の元から退出した後、仲介の労をとってくれた書家の師宜官が謝ってきた。
じつは最初から袁隗と何進は南方交易に大いに乗り気であり、汝南袁家が全面的にバックアップすることを確約するのみならず、想定外の資金提供の申し出もしてきたのであった。淳于瓊としてはヒモ付きの資金は後が怖いのだが是非初期投資にと押し付けられる格好になり断わることもできず受け取る以外になかったのである。
「師宜官さんが謝ることではないですよ。結果的には袁家の協力が得られたんだし。しかしあまりに汝南袁家の発言力が強くなりすぎると折角の交易が袁家お抱えの使い走りになってしまう危険性もあるんだよな・・・。それにいきなり大金だけ渡されてもどうしろってんだ?」
頭を抱える貧乏性の淳于瓊に対してお気楽な笮融は汝南袁家の協力を取り付けてホクホクであった。
「金はあればあるだけ使い途があるってもんよ。なあに袁家に乗っ取られるのがいやなら揚州の周家にも頼ればいいのさ。もともと先に交易の後ろ盾になる約束をしてくれてた周家としては面子もあるからな。袁家が交易にずいぶんと積極的になってるって情報を周家に流せば乗り遅れまいと張り合って資金をだしてくれるだろうよ。そうなれば袁家の影響力も抑えられるさ」
「それって袁家の資金に周家の資金も加えてさらに増えるってことじゃないですか?いったいいきなり何をそんなに商うんですか!?まだ交易で扱う品も(大秦国に輸出する)絹以外は決まってないんですよ!」
いっぽうデキウスも笮融に同意見であった。
「商人の俺としては資金は増えれば増えるほどありがたいぞ。絹の仕入れ量も増やせるしよい船を建造することもできる。それに汝南や揚州で名家の後ろ盾が得られているかどうかで交易の成功率がぜんぜん違う。なにしろ商いの信用が段違いだし、賊だって土地の有力者の関係者は襲わないもんだからな。袁家が乗り気になってくれたのは幸先が良かったと言っていいだろう」
正論である。結局のところ淳于瓊が汝南袁家に取り込まれる心配をしているのは乱世になった後の袁家のぐだぐだを知っているからだ。未来知識がなければむしろ商売の成功率があがり、さらに商売に失敗しても袁家や周家に拾ってもらえる保険がかかったと喜ぶほうが普通の感覚であろう。
「ぐっ、それはそうでしょうけど・・・。わかりました、前向きに考えますよ。笮融さん、周家との折衝はお願いしますよ。あといくら袁家や周家の後ろ盾があるからといって道中の危険は残ります。幸いこの南陽に腕利きの知り合いがいますので彼に護衛をお願いしようと思います」
「へえ、そいつは信頼できるのかい」
「ええ。人柄も信用できますし護衛に雇うにはうってつけでしょう」
なんせ未来の五虎大将ですからね、と心の中でつぶやきながら淳于瓊は師宜官を通じて黄忠に連絡をとったのであった。
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翌日、護衛を快諾してくれた黄忠を新たに加え一行は南陽から賈郷への帰路についた。
「じゃあ師宜官さん、いろいろと有り難うございました」
「達者でな、奇妙。また酒を持って遊びに来てくれ。黄忠、皆さんをしっかり護衛するんだぞ」
「謂われるまでもない。この新調した弓矢なら相手が50歩離れていても的をはずさん。烏合の衆の賊徒など蜘蛛の子を散らしたように退散するだろうさ」
黄忠が新しい弓をなでながら自信満々に胸を張った。前に師宜官の護衛をした時の駄賃で新しい弓を新調したらしく顔がにやけている。
賈子隊で採用している投石紐は貧者の武器としては有効である。だがやはり本物の弓矢に比べれば殺傷能力も命中精度も連射能力も一段劣ることは否めない。
いっそ賈子隊の武装もちゃんとした弓矢に武装を切り替えていくべきだろうか。そう思った淳于瓊は黄忠に相談したのだが、子どもの力では遠くに飛ばせる弓は引けないのだから急ぐべきではないとのことであった。賈子の子どもたちが成長して弓が引けるようになるのに合わせて徐々に切り替えていけば良いというわけである。
「昨年 賈郷の子どもたちが野盗団を撃退した話は南陽でも噂になっていた。現状すぐにどうこうする必要はないだろう。それよりも賈彪どのは本当に大丈夫なのか?奇妙も洛陽に行っていたと聞いたぞ。都で獄を襲うというのなら俺にも手伝わせてくれ。この弓も天下の為に役立てたいのだ」
黄忠のような志ある若者はだいたい清流派の味方である。幕末の草莽の士がみな尊皇攘夷に傾倒したのと同様に若者ほど過激な論調に染まりやすい。淳于瓊としては黄忠に暴走しないよう釘を刺した。
「洛陽では党錮の禁のとばっちりを喰らわぬようにみんな息をひそめていましたが外戚にして城門校尉の竇武さまのご尽力で事態は好転しつつあります。つい先日、何顒どの達にも納得していただきましたが今は竇武さまの邪魔をせぬように自重するべき時なのです」
「ぬう、そ、そうか」
何顒は若くして南陽を代表する清流派のひとりである。そんな人物が納得していると言われれば黄忠の出る幕はない。黄忠は残念そうなそぶりを見せるのであった。
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「ん?あの男はなにをやってんだ」
南陽の城市を出て暫く行くと若い男がなにやら必死に街道沿いの木の枝を棒で叩いていた。黄忠はその男に見覚えがあるようで近づくと声をかけた。
「おい仲景、こんな所でいったいなにをやっているんだ?」
「ん?おお、漢昇か。見て判らんか?木の実を取っておるのだ」
仲景と呼ばれた男はそう言って街道沿いに生えている木を見上げた。なるほど木の上の方に熟した実が成っている。淳于瓊はその実に心当たりがあった。
「ああ、黄寿丹の実を採っていたのですね」
「!ほう坊主はこの実がなにであるか知っておるのか?」
男が驚きの声をあげる。
黄寿丹の漢方でよく使われる原料だ。葛の根を原料とする葛根湯が身体を暖め発汗作用があるのに対して、金銀花の花や黄寿丹の実を原料とする銀翹散は解熱作用がある。
「黄寿丹の実はたしか身体を冷やす熱冷ましの働きがあった筈です。黄帝内経に載っていました」
「黄帝内経だと!?坊主はそれを何処で見たのだ」
いまにも掴みかからんばかりに迫ってくる男の勢いに淳于瓊は思わず馬の背でのけぞってしまった。
「おい落ち着け、仲景。奇妙が引いてるじゃないか。奇妙、こいつは俺と同郷で同い年の張機、字を仲景という。親類の伯父から医術を学んでいる変わり者だ」
「こ、黄忠さんの幼馴染ですか。ええと、黄帝内経が賈郷にあるんですよ。いまは郷の薬師たちと協力して薬草に関して検証を進めているのです」
「賈郷?潁川の定陵県の賈郷のことか?ぜ、是非、見せてくれ。ずっと探しているのだがなかなか手に入らなくて困っておったのだ!」
さらに迫ってくる張機に黄忠がやれやれと言いながら取り成してきた。
「奇妙、すまんがこいつは昔からこういう奴でな。よかったら見せてやってくれんか?こいつはこれでも義理堅い性格だから借りは必ず返してくれるぞ」
うーん、と淳于瓊は唸った。黄帝内経の内容は玉石混交で呪いや迷信の類も多く載っている。その中で淳于瓊が中心となって本草学など実際に役立ちそうな部分の取捨選択を進めている段階なのである。はっきり言ってこの時代の医者は半分が呪い頼みだったりする。もちろんそんな治療でも暗示の効果で恢復する患者はいるのだろうが・・・いまのところ賈郷にはそんな医者なんぞいない方がいいと割り切っているのである。
「はっきり言って黄帝内経には出鱈目もたくさん載っています。それでも見たいと謂われるのですか?」
淳于瓊は念を押す。
「そんなことは百も承知だ。だが役に立つ知識も載っておるのだろう?それはさっき坊主が証明したばかりではないか。ならばたとえ出鱈目が多く載っておるにしても黄帝内経は読まねばならんのだ!わしは従来の間違った知識を排除したきちんとした医術を確立してそれを世に広めていきたいと考えておるからな」
張機の意外としっかりとした返答に淳于瓊はへえ、と感心した。この時代にこのような考えをする医者は珍しい。この本職の医者の協力が得られれば賈郷の本草学も1段レベルアップするかもしれない。
「判りました。張機さんが賈郷に来れば黄帝内経に目を通せるように手配をしておきましょう。あと薬師たちにも張機さんのことは伝えておきます」
「おお、有り難い!恩に着るぞ!」
張機が興奮して淳于瓊に礼を述べた。これこそが後に'医聖'と呼ばれることになる張仲景との出会いなのであった。
張機 150年生 荊州南陽郡の人 字を仲景
のちに傷寒論を編纂し中国医学の礎となる人物




