第49話 実りの秋〜農業篇〜
「たしかN,P,Kだったよな。うんN,P,Kだ」
「奇妙さま、先ほどから呟いているその'えぬぴーけー'とやらはいったいなんなのですか?聞き慣れない言葉ですが」
淳于瓊の独り言に波才が反応を示した。
「ああ。魔法のおまじないだよ。上手くいけば天下を満たすことのできる、な」
淳于瓊がにやりと笑う。こういうときの淳于瓊は大抵なにか誰も考え付かないような発想で周りを驚かせることをやってのける前兆だ。淳于瓊に拾われてから1年半、行動をともにしてきた波才はなんども経験してきている。
もちろん波才は'えぬぴーけー'とやらがなんなのか知りたいと思ったのであるが、主人の思考を邪魔をしてはならぬとそれ以上の質問を控えたのであった。まったく良くできた配下というべきであろう。
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「奇妙、まだ1年しか休ませてないんだ。いくらなんでもこれじゃ地力の回復は望めない」
昨年の春より地力の落ちていた小麦畑に紫雲草をはやしていたが、再び小麦畑に戻したいと申し出てきた淳于瓊に対して、賈郷の内向き全般を宰領している朱丹は首を縦には振らなかった。
「通常ではどのくらい休ませるものなのですか?」
「そうだな。最低3年は休ませるべきだろう」
もちろん淳于瓊だってそんな常識は百も承知である。通常3年は休耕地にせざるを得ないところを1年で地力を回復させ、しかもその間に植える紫雲草自体も飼料として有効活用できるという非常においしい話なのだが、まずはその効果を実証しないことには誰にも信じてもらえそうにない。
”とにかく適当な理由付けをして小麦畑に戻させてもらわないと”
淳于瓊はあえて逆目を押してみる作戦でいくことにする。
「紫雲草を植えていたことで地力がさらに落ちているかもしれません。なのでこれから紫雲畑を麦畑に戻す時期を把握するためにも、この冬にあえて小麦を植えさせて貰えないでしょうか?不作になるのは覚悟しています」
地力が回復しているかも、などといえば何故そう思うのか問い詰められてしまう。逆に紫雲草を植えて土地を休ませていないだけ地力がさらに落ちているかも、という分には不審に思われることはないだろう。とにもかくにも効果を見極めるために淳于瓊も必死なのであった。
「いずれにせよ昨年の紫雲畑は飛び地で不便でしたから早めに小麦畑に戻す必要があります。今回だけは目を瞑って貰えないでしょうか」
逡巡する朱丹に畳み掛ける。
「ううっ。しょうがないですね。今回だけですよ」
”よっし!これでレンゲによる窒素(N)の固定化の検証ができる”
交渉のすえに朱丹からOKを引き出し、淳于瓊は心の中でガッツポーズをつくったのであった。
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”肥料の3元素、窒素(N)、燐(P)、カリウム(K)。窒素(N)は紫雲草で緑肥効果を確認できる。次は燐(P)とカリウム(K)だな。あてはあるっちゃーあるんだが……”
燐(P)とカリウム(K)の供給元のあてとは、ずばり便所のことだ。淳于瓊が賈郷に普及させた便所は、穴を掘ってそこに簡易な厠を建てて利用し、穴が一杯になればまた次の穴を掘って厠を建てるという方式である。
そして淳于瓊は糞尿で一杯になった穴には藁をかぶせて臭い対策と同時に温度を保つことで発酵を促進させてきたのだった。この間こっそり藁をめくって臭いをかいでみたがすでにアンモニア臭は完全に消えていた。問題はこれを畑に撒く事(下肥)にたいする周りの反応であった。
「奇妙、あなたそんな趣味があったのね…」
「そういえばこのまえ奇妙が藁をめくって便所の穴の臭いをかいでたの見たぞ」
「奇妙さま、俺もそういう趣味を持たなくちゃいけないんですか?」
上から順に張青、陳良、波才の反応である。全員がどん引きであった。
「いや、趣味じゃねえし。充分に発酵させてあるから!別物だから!」
「陳良見てたのかよ!誤解だ!」
「紫雲、お前はそんな趣味持たなくていいから!って俺もそんな趣味無いからな!」
あらぬ疑惑をかけられてしまい否定するのが大変だったのである。とてもでないが賈彪や朱丹に話を持ち出すどころではない。
"口に入れるものでなければなければどうだ?口に入れるわけでない作物といえば桑の木か荏胡麻といったところか”
桑の木は蚕の餌として絹の生産には必須である。荏胡麻は油用で灯かりに使うため栽培されている。どちらも実を食べないわけではないが主目的が食用でないため抵抗が少ないだろう。
"肥料の効果を検証するには一年草の荏胡麻の方が向いているな。荏胡麻で下肥の効果を実証すれば小麦畑での使用にも道が拓ける。まあどうせ小麦畑は緑肥効果の検証にまだ時間がかかるんだ。下肥の方は焦らずに荏胡麻で効果確認といこう"
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肥料の開発だけではない。農具の改良も併行しておこなっていく。特に牛馬に引かせるタイプの鍬の開発は紫雲草を鋤き込むのに活躍した。
淳于瓊としてはこのまま医術と農業畑の道を進んでいけば、乱世になった後も何処の勢力に属しても重宝される、と甘い見通しを持ち始めていたのだがそう上手くいかないのが世の常である。
延熹9年(166年)12月、凶報が賈郷にもたらされた。都洛陽において司隷校尉の李膺が投獄されたのである。いわゆる党錮の禁の始まりであった。




