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ありふれた悪夢 ~ホラー短編集~  作者: 長篠金泥


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せいさん

 糖分が足りてない。


 深夜二時、脳から繰り返し発せられるメッセージは、ただでさえ行き詰っているレポート作成を見事に妨害してくれていた。

 何にせよ、この調子で無理矢理に作業を進めても効率は落ちるばかり、か。

 そう判断した俺は、三時間ぶりに机の前から立ち上がり、思い切り背筋を伸ばす。


 メリメリッ、と人体にあるまじき音が響く。

 不健康だよなぁ、とは思うが健康的な生活の送り方なんてとっくに忘れている。

 何はともあれ、体からの欲求に答えてやることにして、財布とスマホだけを持って家を出た。


 何か羽織はおってくるべきだったな、と十歩ほど歩いたところで半袖姿を後悔するが、着替えに戻るのも面倒だ。

 しつこい残暑と鬱陶うっとうしい長雨を振り切って十月に入り、やっとのことで秋めいてきたと思えば、もう肌寒くなっている。

 コンビニまではちょっと遠いな――冷えた夜気に負けた俺は、徒歩二分ほどの場所にある自販機を目指すことにした。


 その自販機は、小さな森の手前というロケーションのせいで、夏の夜には昆虫大戦争の様相を呈してしまい、使うに使えない。

 それもこの時期にはすっかり落ち着き、過剰なまでの生命反応は消え失せ、静かに柔らかい光を発している。

 さて、俺の脳が欲しているのはどれだ――腕組みをしながら、選択肢が多いようでそれほどでもないラインナップを眺める。


 甘いもの、ということでミネラルウォーターと緑茶は問答無用で却下。

 夜中だしカフェインはなるべく避けたいので、紅茶とコーヒーとコーラとエナドリっぽいのもナシだ。

 必要としているのは甘味というか糖分だろうから、カロリーオフ系もNG。

 となると、体に悪そうなジュースの中から選ぶしかなさそうだ。


 小銭を投入し、三列に並んだ各種飲料をもう一度確認する。

 味の想像できない新商品か、大ハズレはないだろう定番商品か。

 少し悩んだ後、定番中の定番であるオレンジジュースを選んでボタンを押した。

 ガコガコッ、とやかましい機械音に続いての落下音。

 そしてペットボトルを取り出そうとする――が、何かがおかしい。


 掴んだボトルの感触が変だということもない。

 なのに、この違和感はどういうことだ。

 数秒悩んだ後で、俺はその原因に気が付いた。

 このジュース、全く冷えてない。


「参ったな……」


 ジュースを掴み、身を起こしながら呟く。

 中身が補充された直後、ってのは時間的に考えづらい。

 ということは、内部の冷却機能が故障してるのだろうか。

 テンションが急降下するのを感じつつ、手の中の生温かいボトルに視線を落とす。

 ――生温かい?


「はぅわ」


 変な声が出た。

 思わず手を離したのか慌てて捨てたのか、自分でもよくわからない動きの結果、ボトルが地面に落下して転がる。

 自販機から取り出したそれは、買ったはずのオレンジジュースではなく、この自販機には入っていないコーラのボトルだった。

 そして、中途半端な量の液体は通常の黒色ではなく、ドブ川のような濁りのある濃緑色だ。


 何だ、これは。


 まさかこんなのを飲む奴はいないだろうし、イタズラにしては微妙だ。

 昭和の頃、青酸だの農薬だのが入ったコーラで死人が出た、みたいなタチの悪い事件があったと本で読んだ記憶があるが、そういうつもりなら仕掛けが粗すぎる。

 意味も意図もわからないので、ただただ気味が悪い。

 念の為に取り出し口を確認してみると、俺の買ったジュースもあった。

 こちらはちゃんと冷えているし、特に問題もなさそうだ。


「ったく、どこの馬鹿が」


 こんな下らないマネを、と思いながらコーラのようなものを改めて眺める。

 ボトルは少し離れた場所の街灯に照らされ、さっきと同じ場所に転がっていた。

 だが、何かが変だ。

 さっきとは、確実に別物になっている。

 

「……ん?」

 

 照明が淡いので見間違いかと思い、近寄って確認してみた。

 やはり、キャップが飛んで中身がカラになっている――濃緑の何かが消え失せ、透明のボトルだけがそこにある。

 さっきまで液体が入っていたとは思えない乾き方で、砂埃みたいな汚れまでがボトルの内側にこびり付いている様子だ。

 

 誰かがゴミを突っ込んでおいただけで、全ては俺の勘違いだったのか。

 それにしては、あの生温かい感覚はリアルだったが――

 右手が感じた気持ち悪さを思い出そうとしてみるも、冷えたボトルを掴んだことで上書きされてしまったらしく、既に記憶はボヤけている。

 ちょっと考えた後、「何もかも気のせい」で片付けることに決めて、俺はサッサと自宅に戻ることにした。

 

 いつになく何度か振り返りながら、普段は二分の距離を一分ちょっとで消化する。

 恐怖とか不安ではなく、もっと曖昧なマイナス感情が心中に渦巻いているのだが、それを表現するべき単語が思いつかない。

 とりあえず、部屋に入って鍵をかけてチェーンを下ろすと、もう大丈夫と思えた。

 気分転換も兼ねて買い物に出たのは確かだが、こんな微妙極まりない気分になりかったんじゃない。


 何だかドッと疲れたし、もう寝てしまおうか。

 そんな誘惑に駆られるが、レポート提出のリミットを考えるとそうもいかない。

 当初の予定通り、ジュースで糖分を補給して続きに取り掛かるとしよう。

 フウッ、と大きく一息吐いて気合を入れ、ノートパソコンを開いたままの机に向かう。

 そしてジュースを開けようとするが、キャップをひねった時の手応えが緩すぎる。


「おぉっと?」


 無意識に呟きが漏れる。

 小走りに帰って来る最中に、変に力が入って開いてしまったのか。

 握力が弱い子供や老人が楽に開けられるようにした、一種の企業努力なのか。

 ともあれ、これを飲んでいいものかどうか。

 

 パッと見では、不審な点はない。

 キャップを開けてにおってみるが、いつもと変わらず安っぽいオレンジの香りがする。

 軽くボトルを振ってみても、異物が混入している様子もなかった。

 だから大丈夫――なハズなのに、どうしても口をつける気になれない。

 本能がブレーキをかけている、とでも表現すればいいのだろうか。

 とにかく、深刻なまでの忌避感が頭を離れてくれなかった。


「……やめとくか」


 結論を口にしながら、ボトルを手にシンクに向かう。

 ちょっと勿体ないけど、やはり飲む気になれそうもない。

 こいつはもう、捨ててしまおう。

 キャップを外してボトルを逆様にすると、甘ったるい匂いが鼻をくすぐる。

 もう一回、買いに行くか――でも、あの自販機は使いたくないな――


 ぶりゅ、びるっ


 ボンヤリしながら廃棄作業をしていると、手元で怪音が鳴った。

 反射的に、シンクに視線を向ける。

 オレンジの飛沫が広がった中に、緑色の、ゼリー状の、小刻みに震えている、何か。

 何か――って、何だこれ。

 一瞬の思考停止の後、さっきの生温なまぬるいコーラのことを思い出す。

 

 このままにしておいてはダメだ。

 確信に似た直感に従い、蛇口を全開にしてそれを流そうとする。

 勢いのある水流が、シンクからオレンジ色を薙ぎ払う。

 だが、アレが消えた。

 アレはどこに行った。


 目を離したつもりもないのに、濃緑色の何かを見失った。

 ぶわっ、と毛穴が開く。

 アレはきっと、下水に流れたんだ。

 自分でもイマイチ信じられないが、どうにかそう言い聞かせてみる。

 息が詰まる――ゆっくりと深呼吸をして落ち着こう。


「ぅぶっ?」


 大きく口を開けた途端に、柔らかいもので唇を塞がれた気がした。

 状況を把握する間もなく、何かが食道を滑り落ちていく。

 ――まさか。

 絶対にヤバいと本能が訴えるので、慌てて右手の中指と人差し指を喉の奥に突っ込む。

 しかし二本の指は、何かにやんわりと押し戻された。

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