鼻歌まじる
「卵もなーい、チャーシューもなーい、けーれどもネギなーら少しある♪」
『ぃ……ぃ……』
鍋でラーメンを煮る傍ら、デタラメな鼻歌と共にネギを刻んでいた最中、微かな声の連続が耳に滑り込んできた。
何だろ、と歌と手を止めて耳を澄ましてみる。
しかし、聞こえるのは沸騰した湯の中で麺が茹でられる音だけだ。
一月ほど前に叔父が事故死し、一人暮らしをしていた持ち家が残された。
叔父に子供はおらず、数年前に離婚した元妻は音信不通。
ということで、失業中で実家に寄生していたわたしが、遺品の片付けを条件にその家に住み始めたのだが。
家にいるのは自分だけで、TVもラジオも音楽も流していない。
となると隣近所のTVか、ウチの前で誰かが立ち話をしてるのだろう。
きっとそうだ、そうに決まっている、そうに違いない。
滲み出てくる不安を強引に捻じ伏せると、グデグデのラーメンを丼に移動させた。
残念なクオリティになってしまったラーメンを啜り、雑然としたリビングを眺める。
異常に物が多いワケでもないし、ゴミや汚れを放置していたということもないのに、どうにも荒んだ印象を与えてくる。
それはリビングだけでなく、どの部屋も似たような感じだった。
「中年男の一人暮らし、ってのはこんなモンかな」
言葉にしてみると、何となく納得できる気がした。
ともあれ、わたしが住むのだからコチラの居心地を優先させてもらおう。
煮詰まって無駄に濃厚になったスープの味に顔を顰めつつ、捨てる家具と残しておく家具の品定めを始めた。
次の日、叔父が寝室として使っていたらしい部屋の片づけに着手する。
ベッドは流用できる、布団はおっさんの臭いがするから捨てる、服はファストファッションの安物ばかりだし、全部処分で構わないだろう。
装身具にも興味がなかったようで、僅かにあった指輪や腕時計は価値がなさげ。
本棚にあるのも文庫や新書ばかりで、売り払っても二束三文だと思われる。
父親が言うには、銀行に残っていた預金は百万に届かない程度だったそうだ。
特殊なコレクションもないようだし、それなりに収入があったハズの叔父は、一体何に金を使っていたのか。
ひょっとして家のどこかに隠し金庫でも――という期待もあるのだが、そういうのは未だに発見できていない。
「アーレもコーレもみーんなゴミ♪ そーれみんなゴミ、ほーらみんなゴミ♪」
『……ぃ……ぁ…ぃ……』
パッと思い浮かんだメロディに適当な詞を乗せ、歌いながらアルバムや手紙などをゴミ袋に突っ込んでいると、またあの声が聞こえた。
聞こえるか聞こえないかギリギリの音量なのに、やけに耳に残る。
どこから聞こえたのかを探ろうとするが、近所を低速で走っているインチキ回収業者のトラックから流れる、例のエンドレス案内音声に邪魔される。
気のせい、では済ませられない。
ハッキリとは聞き取れなかったが、声のトーンは昨日と一緒だ。
もしかして、わたしの声に反応して何か言っているのか。
そんな考えが浮かび、二度三度と躊躇した後で口を開く。
「な……何なの?」
擦れて震える言葉で、誰にともなく問いかける。
だが、返事はない。
緊張しながら待っても、遠ざかる回収業者のアレしか聞こえてこない。
トラックが走り去ってから、さっきよりも踏み込んだ質問を投げる。
「言いたいことでも、あんの?」
それに対しても、答えはない。
視線を部屋のアチコチに向けるが、どこにも変わった様子はない。
どこか遠くから、小型犬が忙しなく吠えているのが聞こえてきた。
気が抜けると同時に、今度は解消不能の疑問が湧き上がる。
まさかとは思うが、これは幽霊的な現象なのだろうか。
しかし、そんなオカルト方面に縁がなく二十数年を過ごしてきたのに、急に体験するものなのか。
来ているのは、やっぱり叔父なのか。
わたしに伝えたいことがあるとして、それは何なのだろう――
それらしい答えを導き出そうにも、ヒントが少なすぎる。
もっと豪快に怪現象が起きているのなら、選択肢は『逃げる』しかない。
だが、この程度で今の環境を捨ててしまうのは惜しい。
結論がすぐに出せそうもないので、とりあえず部屋の片づけを続行することにした。
「~~~~♪ ~~~~♪」
『……ぃ……ぃ……ぁ……ぁぃ』
その夜、シャワーを浴びながら昔の歌を口ずさんでいたら、またあの声が聞こえた。
すぐに水を止め、息を潜めて次に起こることを待つ。
しかし、いくら待っても聞こえるのは自分から落ちた水滴が床を叩く音と、排水口が鳴らす濁った水音のみだ。
「何なの、ホントにもう……何なの?」
高まる不安を打ち消したくて、イラ立ちをそのまま強い口調で吐き出す。
しかし、あの声は沈黙している。
前髪を掻き上げて水気を切り、バスタブの縁に腰を下ろして謎の声の意味や正体について考えを巡らせる。
「あ……もしかして」
何をしているタイミングで声が聞こえたか、を検証している内に可能性の高そうなモノに思い至った。
とりあえず、試してみよう――
「~~~~♪ ~~~~♪」
『……ぃ……ぁぁ……ぃ……ぃ』
予感は的中したようだ。
あの声は、歌に反応している。
歌声のボリュームを絞りながら、何と言っているのかを聞き取ろうとする。
あい?
あぁい?
声が小さく、篭もっていてわからない。
そこはかとなく、ネガティブな響きが含まれている気がする。
声はたぶん、家の中かその周辺から聞こえている。
放って置いても害はないように思えるが、得体の知れない何かが身近にいる、というのはどうにも落ち着かない。
「出所を探す、しかないか」
自分に言い聞かせるように決意表明し、風呂から出ると本格的な家宅捜索を開始した。
大声で歌っても小声で歌っても、謎の声は同じように反応してくる。
寝室、リビング、トイレ、クローゼットの中など、歌いながらアチコチで確かめてみるが、どこに行っても遠くから聞こえてくる感じは変わらない。
そんなに広くないから、一時間ほどで家中を隈なく移動することになった。
しかし、特別に反応が強い箇所は発見できない。
残っているのは天井裏と床下くらいだが、どちらも簡単に出入りできる構造にはなっていない。
どうしたものか、と考えるのにも疲れた。
続きは明日にしようと発泡酒を開けたところで、まだ調べていない場所があったのを思い出してしまった。
リビングのカーテンを開けて、庭にあるスチール製の物置を見る。
屋内から漏れる明かりに、デカい犬小屋みたいなダサいデザインの物置が、ボンヤリと照らされている。
パッと見だと三畳前後の広さで、高さは二メートル程度だろうか。
ここに来てから五日になるが、まだあの中がどうなっているのか見たことはない。
「見るだけ見ときますか、一応」
面倒だったが、放置して寝るのも気分的によろしくない。
景気付けも兼ねて、手にした缶の中身を一気飲みに近いペースでカラにする。
それからフラッシュライトと鍵束を用意し、サンダル履きで庭に出た。
庭といってもコンクリートで舗装されていて、単に余裕のある駐車スペースといった雰囲気なのだが。
物置の前まで歩き、引き戸にかけられた錠と鍵束をライトでもって交互に照らす。
鍵は五種類あるが二つは玄関用で、一つは車のスペアキーのようだ。
小さい鍵が二つあるが、片方は明らかにサイズが合ってない。
消去法で選んだ鍵を差し込んで回すと、カチッという軽い音が開錠を知らせてきた。
いくつかのロクでもない想像が脳裏を過ぎる。
それをほろ酔いの勢いで乗り越え、滑りの悪い扉を左へと滑らせた。
白い光に照らされた押入れの中に見えるのは、錆の浮いた工具箱、古臭いヘルメット、用途不明の鉄の棒、灯油を入れるポリタンク――いかにも物置にありそうな品々だ。
「ハーズレハーズレ、こいつはハーズレ♪」
『……ぁあい……あぁああぃい……ふぁああ……』
半ば無意識に鼻歌っぽく心境を述べると、即座にあの声が応じた。
これまでより、明らかに距離が近い。
首筋から両腕に、そして腹と背中を寒気が流れて鳥肌が立つ。
聞こえてきたのは、下の方からだった。
薄汚れたカーペットの敷かれた床を蹴り、おかしな部分がないか確かめる。
ドン――ドン――ゴッ――ドン――
一部だけ、返ってくる音が違っている。
ここまで来たら、最後まで見ておかなければ。
そんな義務感のようなものに駆られ、震える手でカーペットを捲り上げる。
音が変だった部分には、滑り止めのようなデコボコのついた鉄板が隠れていた。
「いかにも、だなぁ」
鉄板をよく見ると、何かを差し込める小さな穴が設えられている。
そして壁に立て掛けられた鉄の棒の先は、フック状に湾曲していた。
上に載っていた諸々を退かし、棒を使って鉄板を持ち上げてみると、その下には正方形の穴が開いていた。
「地下への入口……か」
ライトで照らしてみると、数メートル下までハシゴが続いている。
随分とシッカリした構造だが、叔父はワザワザこんなスペースを業者に作らせたのだろうか。
中古で買ったのだとすると、前の住人が作ったものという可能性もあるが、一体ここは何なのだろう。
ワインセラー、核シェルター、隠し武器庫、死体置き場――
地下に何があるかの想像は、考える程に突拍子もなくなる。
たぶん、見て確かめた方が早いな。
そう判断したわたしは、一段の間隔が妙に狭いハシゴを伝って、黴臭さを漂わせる地下へと向かった。
「えっ……あれ? えっ?」
センサーでもついているのか、ハシゴを降りきると同時に明かりが点いた。
妙に赤っぽさのある光だが、特に問題なく視界は確保できる。
問題は、照らされた部屋の様子だ。
隠された地下室で何を見てしまうのか、という緊張を根こそぎ吹き飛ばす光景がそこにあった。
何もない。
比喩表現でなく、そこには何もなかった。
全面をオフホワイトに塗られた、コンクリート製の空間があるだけ。
何も置かれていないし、何らかの痕跡も残っていない。
澱んだ空気が詰まった、八畳くらいの天井が低い地下室だ。
拍子抜け、ともちょっと違う奇妙な脱力感に囚われ、深々と溜息を吐いた。
「……帰ろ」
短く呟いて、意味不明でしかなかった地下室を後にする。
ハシゴを上りきって、入口の蓋を戻そうとしたところで、大事なことを思い出した。
そもそも、歌に反応する声の正体を探るのが目的だったハズだ。
そんなことも忘れているなんて、実は地下の異様さに気圧されていたのかもしれない。
「じゃあ改めて、と。~~~~♪ ~~~~♪」
照明が消えている地下を覗き込みながら、『暗さ』をテーマにした歌を口ずさむ。
しばらくすると、甘ったるさと生臭さの入り混じった、温く不快な風が闇の奥から吹き上がってきた。
思いきり臭気を吸い込んでしまい、顔を背けて咳き込んだその瞬間。
『ごめんなさぁぁぁい! ごめぇんなさぁい! カン。ごぉめんなさぁいぃぃ! ごめんなぁさああぁああぁあいぃ! カンッ。ごめんなさぁぁい! ごめんなさっ――ごめぇんなさぁい! カン。ごむぇんなぁさぁぁああぁい! ごめんなっさぁあああぁいぃい!』
と、「ごめんなさい」の絶叫が何度も何度も何度も繰り返された。
男か女かわからない、歪んだ古いレコードから再生されたような声が、大音量で。
誰に謝っているのか、誰が謝っているのか。
叔父は、何を連れてきて――何を置き去りにした。
とにかく、すぐにココから逃げなければ。
頭では理解していても、体が言うことを聞いてくれない。
いつの間にか床にへたり込んでいて、立ち上がろうにも手足に力が入らない。
視線は、「ごめんなさい」を吐き出し続ける地下への入口に吸い寄せられる。
絶叫の合間に混ざっていた、「カン、カン」という金属音が消えた。
床に落としていたライトの白い光が、這い上がってきたものを映す。
水分の抜けてバサついた、伸び放題の髪。
シミや汚れで斑になった、元が何色かわからないシャツ。
そのシャツの肩口から突き出した、赤黒い何か。
表情はわからない――というか、ない。
顔があるべき場所には、生焼けのハンバーグを踏み潰したような塊が貼りついている。
その肉に穿たれた穴が、クチャっと湿った音を立てて広がった。
げぇぇぇぇぇぇぇふぁっ、とゲップとアクビを混ぜたようなものが吐き出される。
甘ったるくて生臭いニオイに包まれると視界は暗転し、衝撃と共に頬にはザラついた布の感触が伝わってきて、背中には半端じゃない重みが圧し掛かり、意識がどこかに――




