覚悟と誓い(12)
天井の彼方が裂け、真紅の矢が、数千、数万視界を埋め尽くす雨のように降り注いだ。
火矢。だが、ただの矢ではない。
本来なら別階層の罠に仕込まれているはずの矢を、彼は“こちら”に引き寄せたのだ。
「っ……聖域天蓋!」
光の天蓋が瞬時に展開し、炎の雨を受け止める。
轟音が広間を揺らし、火矢が次々と砕け散って光の壁に突き刺さる。
閃光と熱風の奔流。
それでも膜は崩れず、私の身体を包み込んで守っていた。
(……間違いない。彼は、罠を“呼び込んでいる”。空間を、繋ぎ替えて……!)
矢が尽きると同時に、膜がひび割れのような残光を残して霧散した。
息を詰めて見据えると、ルシアンは欠伸混じりに笑う。
「次はさ――避ける番だぞ、“白の亡霊”どう躱す?」
ルシアンの指先が、何気なく横に払われた。
空間が軋み、背筋に冷たい電流が走る。
次の瞬間、地面から無数の氷槍が噴き上がった。
本来なら通路奥の罠に仕込まれているはずのものだ。彼はまた、それを引き寄せたのだ。
「……っ、黒隠虚衣!」
影の幕が広がり、私の輪郭を闇に沈める。
気配が薄れ、存在そのものが“ここにいない”かのようにぼやけていく。
氷槍は、確かに突き抜けてきた。
だが私を狙い定める“座標”を失った矛先は、僅かに逸れて壁を砕いた。
岩肌が悲鳴を上げ、破片が雨のように降る。
(……効いてる……! でも、完全じゃない。すり抜けるわけじゃない。座標が“外れた”から、かろうじて助かっただけ……!)
呼吸を潜め、闇に溶け込んだまま睨む。
ルシアンは頬杖でもつきそうな仕草で、眠たげに私を見ていた。
「へぇ……今のを“外す”か。黒い幕? 存在を薄める系の防御。いや、気配遮断だな。……ふふ、やっぱ面白いよな」
彼の口元に、わずかな笑みが浮かぶ。
気だるげでありながら、退屈から解放された獣の目だった。
(遊ばれてる……? いや、違う。この人、本気を“楽しんで”る……!)
心臓が暴れる。けれど、恐怖だけじゃない。
喉の奥に熱がこみ上げる。
私は黒隠虚衣を解き、掌を前に突き出した。
魔力を白炎へと圧縮する。
「白炎白夜――十三式!」
純白の矢が編まれ、夜空を裂く流星のように走る。
灰色のフードの男を狙い、一直線に。
ルシアンの灰の瞳がわずかに開かれる。
「ほぉ……。当てにきたな」
眠たげな声のまま、愉悦の光だけが濃くなっていく。だが――ルシアンの姿はそこになかった。
「――虚写境」
彼の輪郭が一枚、紙のようにずれて消える。
次の瞬間、白炎は背後の岩壁を貫き、爆ぜ散った。
閃光と轟音。熱が吹き荒れる。
「……っ!」
私は即座に跳んだ。
足場に魔力を叩き込み、青炎の陣を展開する。
「青炎晴天――第十一式!」
蒼炎の波が周囲を覆い、ルシアンの“出現位置”を先読みして焼き払う。
虚写境で位置をずらすなら、その“先”を叩けばいい。
だが――。
「おお……読んだね。えらいえらい」
気だるげな声が、まったく別の方向から降ってきた。
蒼炎を抜け、背後に気配。
(……また!?)
私は躊躇せず、黒炎を編む。
空気が軋むほど圧縮し、掌から放つ。
「黒炎閻魔――三式同時!」
漆黒の奔流が三方向に広がり、彼の逃げ場を塞ぐ。
空間ごと抉る一撃――!
その瞬間、観衆が息を呑んだ。
「白の亡霊はあんなに強いのかよ!」
「ルシアン相手に、押している……?」
爆ぜた黒炎が広間を揺らす。
床が砕け、壁が焼け、轟音が空気を震わせた。
煙が渦巻く中――。
「……はぁ。ほんと、面倒くさい」
煙を割って現れたルシアンは、欠伸を噛み殺していた。
灰の瞳だけが笑っている。
「でも……悪くない。君の“挨拶”は派手すぎるけどな」
彼は指先を上げる。
軽い仕草。だが、空気の温度が一気に落ちる。
「じゃあ次は――俺の番だな?俺の番だ。」
灰色のフードの奥に、退屈とは正反対の光が宿っていた。
ルシアンの指先が、気だるげに弾かれる。
「――無為断」
空気がひしゃげた。
視界に見えない“線”が走り、私の胸元へと迫ってくる。
存在そのものを消去する一撃――避けられない。
(っ……無理……!)
思考が一瞬、真っ白になる。
けれど、次に脳裏に閃いたのは、ただひとつ。
“ダンジョン転移”。
これまで階層を跨ぐためだけに使ってきた力。
魔力消費が重すぎて、戦闘で使ったことはなかった。
だが――今はそれしかない。
(半歩でも……飛べる!)
胸奥の魔力を強引に叩きつける。
足元の空間がぐにゃりと折れ曲がり、私は座標ごと弾き飛ばされた。
刹那――“線”は私の残像を呑み込み、床ごと抉って消滅する。
光も音もなく、ただ“あったはずの場所”がなかったことにされた。
「っ、はぁ……っ!」
息を荒げ、振り返る。
視界の先で、灰のフードの男が眠たげにこちらを見ていた。
だがその瞳の奥には、確かな愉悦が光っている。
「……ほぉ。やるじゃん。座標ごと飛んだな? へぇ……転移だな。戦闘で使う奴がいるとはな」
彼は気だるげに肩を回しながら、口の端を上げる。
「めんどくさいけど……お前、いいよ。そういうの、嫌いじゃない」
広間に走るざわめき。
「今の、何だ!?」「消えた……?」「白の亡霊が、ルシアンの《無為断》を避けた……!」
観衆の声は震え、もはや戦況を理解できていなかった。
私は、ベルトに刺した癒しの水ボトルを、一息にあおった。
喉を通るたびに、冷たい力が血管を駆け巡り、空っぽになりかけていた魔力がじわりと満ちていく。
「……っ」
震える指先を握りしめ、呼吸を整える。
今、使える時間は短い。回復した分を、無駄にできない。
ルシアンは灰のフードの奥で、気だるげに肩を竦めた。
「あー……休憩かな。……いいよ、待っててやる」
声音は眠たげ。けれど、その灰の瞳だけは愉悦に細まり、唇の端がにやりと吊り上がる。
「どうせ噂だけ。すぐに潰れると思ってたけど……いいね。それに余裕だな。――転移なんて使えば、全魔力持ってかれるんじゃない? 君の魔力、底無しかい? それとも、もう尽きてるのかな?」
観衆がざわめく。
「転移……? まさか……!」
「ユニークスキルだ、あれは魔力消費が激しくて、本当に使えるヤツなんているのか……」
挑発だと分かっている。
それでも、灰の瞳に射抜かれると、その言葉は刃のように心臓を貫いた。
(……試されてる。――ここで怯んだら、終わる)
私は拳を握り直し、呼吸をひとつ深く吸い込む。
冷えた空気が肺を焼くように痛むのに、不思議と視界だけは澄んでいた。




