覚悟と誓い⑤
207階層の探索を切り上げ、私は深く息を吐いた。
「……今日はここまで、だね」
黒隠虚衣を薄く解き、聖域天蓋を維持したまま通路を振り返る。
岩肌に沿って白炎白夜の残光がまだかすかに揺れていた。
危険の気配はなし。
その確認を終えると、私は掌を胸の前に掲げる。
「――ダンジョン転移」
白い光のひだが広がり、輪郭がゆらぎ――次の瞬間、視界がすとんと切り替わった。
210階層、セーフティーエリア。
柔らかな光苔が壁面に淡く灯り、空気は穏やかに澄んでいる。
心臓の鼓動がひとつ落ち着いた。
「ふぅ……やっぱり、ここはいい」
フードを下ろし、白のマントを整える。
マジックポーチから癒しの水を取り出し、一口。冷たさが喉を撫で、魔力の残滓が整えられていく。
それから、いつものように日用品を取り出した。
ランダムBOXで手に入れた歯ブラシと、使い慣れた小さなタオル。
光苔の前に腰を下ろし、丁寧に歯を磨き、顔を洗う。
「こういう時間……ほんといいよね」
ダンジョンで安心して眠れる夜なんて、数えるほどしかなかった。
けれど今は違う。ダンジョン転移のおかげで、セーフティーエリアに直接戻れる。
恐怖に背中を預ける必要もない。
マントを枕代わりに敷き、私は目を閉じた。
――久しぶりに、深く眠れた。
――
目を覚ましたのは、淡い光苔が朝靄みたいに輝きを増した頃だった。
体調はいい。頭もすっきりしている。
「ん……よく寝たぁ」
伸びをひとつ。
軽く体を整え、再び探索を再開する。
207階層から戻った昨日。
そこからの登りは順調で――
私はすでに、200階層のセーフティーエリアに到達していた。
「やっと、ここまで来たよ……」
ここから先はまた、強敵が待つ。
199階層へ進めば、すぐにボスの扉だ。
フードを直し、双蛇の腕輪に意識を寄せる。
心臓の鼓動は穏やか。でも、血の巡りは熱を帯びていた。
「よし、準備しなきゃね」
マジックポーチの中を確認し、癒しの水の残量を数える。
まだ十分ある。
白炎、青炎、黒炎――全部、打ち切れる。
静かなセーフティーエリアに、小さく響いたのは自分の声だけだった。
マジックポーチを閉じ、私は立ち上がった。
白のマントがふわりと揺れ、光苔の淡い光を吸い込む。
「……行こう」
200階層セーフティーエリア。
ここから一歩上がれば、もう休息は終わりだ。
199階層には、この領域を統べる守護がいる。
通路を抜け、階段を登る。
冷たい空気が流れ込み、背筋にひとすじの緊張が走った。
――199階層ボス部屋前階段
黒い岩肌が複雑に折り重なり、まるで洞窟そのものが牙を剥いているようだ。
足音を殺し、黒隠虚衣を濃くする。
聖域天蓋は薄膜のまま。
双蛇の腕輪が、わずかに脈を刻んだ。
「……ボスの気配、濃いね」
自動マッピングを展開。
脳裏に描かれる地図はすでに、奥の巨大な“空白”を映していた。
あそこがボス部屋だ。
進むごとに、空気が重くなる。
岩壁に走る紋様が、光のように一瞬だけ熱を帯びた。
静寂は深いのに、どこかで誰かの息遣いが重なって聞こえる。
「……緊張するなぁ」
にこっと笑って、口元をゆるめる。
心臓は速く、でも確かに強い。
やがて――見えてきた。
巨大な石扉。
両翼に刻まれた文様は、うっすらと脈を打つように光っている。
「……ここか」
指先を扉へ伸ばす。
冷たさが掌に広がり、体内の魔力が応じるように揺れた。
「準備は……大丈夫」
私は深く息を吸い込み、白のマントを整えた。
足場を確かめ、マジックポーチから癒しの水を数本抜き、腰に差す。
双蛇の腕輪が脈を強め、私の鼓動と重なる。
「行くよ」
力強く扉を押す。
石扉が重く鳴り――
ギィィ……ッ。
空気が変わった。
内側から吹き出す冷気と圧が、こちらの世界を一瞬で塗り替える。
“そこ”には、まだ姿を見せぬ199階層のボスが待っていた。
分厚い石扉が開いた瞬間、肺の奥まで突き刺す冷気が雪崩れ込んできた。
吐息は一瞬で凍り、白い霧となって宙に漂い、すぐに砕け散って消える。
「……寒っ」
思わず呟いた声さえ、音の輪郭ごと凍らされるようだった。
足下の岩床に、白い霜がすぅっと広がっていく。
カランッ。
頭上から氷片がひとつ、落ちた。
それだけで、胸の奥に嫌なざわめきが走る。
次の瞬間――世界が激しく揺れる。
――ゴゴゴォォォォ……ッ!!
天井から無数の氷柱が降り注ぎ、砕けた破片が刃のように舞う。
冷気は嵐となって渦を巻き、視界そのものが白で塗りつぶされていった。
その吹雪の中心で、“何か”が立ち上がる。
巨影。
それは巨大な熊の様に見えた。だが、熊であるはずがない。
体高は十メートルを軽く超え、鋼のような毛皮は凍てついた氷に覆われ、光を反射するたびに青白く煌めいた。
背から突き出す氷の棘は城壁のようにそびえ、吐息ひとつで空間が凍りつく。
――ゴォォオオオォォッ!!
咆哮。
耳を塞がなくても、鼓膜が凍って割れそうになる。
空気が震え、床石が裂け、ただ立っているだけで膝が勝手に沈んだ。
視線がぶつかる。
双眸は氷の結晶のように澄んでいて、こちらを“獲物”と断じて疑わなかった。
麻桜の喉がひゅっと鳴る。
体は寒さで震えているのに、心臓だけが熱を帯びる。
「……ほんと……寒いの苦手なんだよ……」
恐怖に押し潰されるより先に、思わず出た自分の言葉に笑ってしまう。
――だって、これ以上の“恐怖”を何度も乗り越えてきたのだから。
「……はじめよう」
私の、口角は自然と上がっていた。




