覚悟と誓い③
私は指先をそっと離し、フードの縁を整える。
「……よし」
黒隠虚衣は薄く維持。聖域天蓋は肌に寄り添う薄膜だけ残す。白のマントが足音を吸い、双蛇の腕輪が小さく脈打った。呼吸は軽い。歩ける。
通路へ踏み出すと、ひんやりした気流が頬を撫でた。
壁は黒い頁みたいに層を重ね、足裏に伝わる石のざらつきは“深層”特有の密度を持っている。私は視界の端に自動マッピングを展開した。薄い光線が走り、進むごとに地図が描かれていく。
――けれど、胸の奥に、ひっかかりが残っていた。
どうして、あそこで石碑が待っていたの?
本来なら、この階層から上がる階段の近くに石碑があるはず。
ボスを倒して同じ階層の通常エリアに出た“その場”に、石碑があるなんて――記憶にない。いや、初めてだ。
「……おかしい」
呟きは天蓋の内側で水に落ちる小石みたいに静かに沈む。
気持ちを切り替え、まずは定石どおり208階層へ上がる階段を目指す。そこに“いつもの”石碑がなければ、なおさらこの違和感は濃くなる。
慎重に、手早く、時間は最短で地図の線を広げていく。
曲がり角では一拍だけ立ち止まり、風の向きを頬で測る。
ときどきファイアアローを“灯り”として親指の爪ほど打ち、壁に小さな光標を付けていく。熱は抑えめ。天蓋の内側なら焦げない。
「左……じゃないかぁ、こっち」
眼で見るより先に、体が通路の密度差を拾う。
黒隠虚衣が気配を地面の影に落としてくれるおかげで、小型の魔物は私に気付かない。
やがて、低く落ちる冷たい空気にぶつかった。
通路が広間に開け、奥に段が見える。
石段――208階層へ上がる階段だ。
「……着いたけど」
私は一度、周囲を見回した。
石段の脇。手前の踊り場。背面の壁。
――石碑が、ない。
それは、想像していた通りだった。
胸の中の違和感が、形を持ち始める。
「……やっぱり、変だよね」
普段なら“ここ”に石碑が鎮座している。
到達の証も、伝達の基点も、世界に名前を響かせる“口”も――ここに。
でも今は、ない。さっき“ボス部屋を抜けてすぐの場所”で刻んだ、あの一基だけ。
私は段を降りない。
代わりに、自動マッピングの表示を拡大した。
地図の線が、わずかに“よれて”いる箇所がある。 壁の厚みが、一部分だけ曖昧。風の筋も合っていない。
「ふうん……」
ゆっくりと周囲を一周する。
指先で壁に触れると、指の腹に“粉”の感触。
崩れかけの層ではない。表面だけ別の材質が化粧みたいに塗られている――そんな手触り。
私は小さく息を整え、白炎白夜・四式を照明のかわりに壁へ散らした。
ぱち、ぱち、と弱い白光が四つ灯り、壁面の文様が一瞬だけ浮く。素手では気付けないほど細かい刻みだ。
古い。けれど“生きて”いる。
「開く、のかな」
黒炎閻魔は使わない。焼き切ってしまうのは、最後の最後。
代わりに私は、青炎晴天を“息”ほどに薄く発動し、壁際の空気の層だけ温度を上げる。
温められた空気がふくらみ、わずかな隙に沿って流れた。
そこだ。
目に映るのは平らな壁。
けれど自動マッピングの淡い線は、“壁の向こう側”に空白を描こうとしている。
白炎の光標が揺れ、風が“線”を裏返しに撫でた。
「――へへ、見つけた」
にこっと笑う。
フードの影で、目尻だけが細くなる。
私は一歩下がり、掌で壁のその線をなぞった。
双蛇の腕輪が“了解”とでも言うように微かに脈打つ。
魔力を、針の先ほど流す。聖域天蓋はそのまま。
ゆっくり、ゆっくり、縫い目をなぞるみたいに。
「……開いて」
音は、しなかった。
けれど壁の縁がじわりと沈み、粉より軽い砂がこぼれる。
隠し継ぎだ。押すでも引くでもなく、滑らせるんだ――体が、分かる。
肩で押す。半歩、横に滑った。
冷たい空気が、すっと頬を撫でる。
同時に、自動マッピングが“未登録領域”を示す新しい輪郭を描き始めた。
「……やっぱりね!」
秘境だ。
さっきの石碑の“位置ズレ”は、これの合図――なのかもしれない。
(本当の答えは知らない。けれど、そう考えると、全部が繋がる)
私は入口の内と外、両方に光標を二つずつ落とした。
戻る路は、必ず明るくしておく。
黒隠虚衣を少しだけ濃くし、呼吸をひとつ深くして、足先から影へ解ける。
「おじゃましまーす……」
独り言は、軽い。
けれど胸の中は、静かに熱い。
狭い裂隙を抜けると、世界の粒が変わった。
音が遠い。水気が薄い。代わりに、金属の”乾いた匂い”が強くなる。
足裏に伝わる石の密度も違う。
光を嫌う何かが、遠くで一度だけ瞬いた。
「……見せて」
白炎白夜・二式を、糸みたいに細く前へ投げる。
白い“糸”はまっすぐには進まず、途中でふっと横に撓んだ。
空間の密度差――目では見えない段差が、前にある。
私は膝を落とし、掌で床を探る。
段の手前に、丸く削れた跡。誰かが昔、ここを通った――?
いや、風が削った形だ。
ということは、奥に空洞が続く。
「……ふうん。いいね」
にこっと笑って立ち上がる。
聖域天蓋の縁をひとつ結び直し、青炎晴天をさらに薄く。
熱ではなく、輪郭だけを室内へ押し広げる。
空気の皮膜がめくれ、通路が“現れた”。
自動マッピングの線が滑り込み、地図の空白が埋まりだす。
そこには、円環のように回る回廊。
中心へ繋がる細い橋。
そして――橋の先の、暗い穴。
「ここが中心……かな」
肩の力を抜き、私は回廊へ足を乗せた。
橋は幅二人分。落ちれば、しばらくは戻れない深さ。
でも、落ちない。
こういうところは、下を見ないに限る。
一歩。
二歩。
三歩――
足裏に、静電気。
髪の先がふわりと浮く。
雷じゃない。もっと、乾いたもの。
何かの仕掛けが、遠くで息をした。
「……大丈夫だよね」
小さく囁き、白炎白夜・一式を真下に落とす。
白は床で消え、光標だけが残る。
私はその光を踏み石みたいに辿りながら、橋を渡り切った。
中心の穴は、思ったより浅い。
檻みたいな格子の向こうに、台座がひとつ。
台座の上で、何かが――眠っている。
近づくほど、双蛇の腕輪が小さく震えた。
鑑定阻害が、向こうからも返ってくる。
ここにあるものは、“見るな”と言っている。
でも、私は“見る”。それが、私の歩き方。
「失礼しまーす……」
囁くように言って、格子へ掌をかざす。
聖域天蓋が表面だけ厚みを増し、触れるべきでない力を弾く。
青炎を針先にして、留め金の冷たさをなぞる。
古い。けれど、壊れてはいない。
――カチ。
音は、雨粒より小さかった。
格子が片側だけ、僅かに開く。
私は肩を横にしてすり抜け、台座と向き合う。
「……うわぁ。きれい」
そこにあったのは、小さな欠片。
透明のようで、薄い青。
指で触れると、心拍に合わせて光る。
(転送に関わる何か――? )
手は伸ばさないでいた。
台座の縁は突然白の微光を刻んだ。
光が鼓動するように、小さな欠片は輝きを増していく。
「取ればいいのね……?」
光を放つ欠片を、私はそっと手に取る。
台座の縁は、白の微光を無くすと、青い宝石の欠片が光の粒子へと変わり、掌に消えていく。
脳裏に浮かぶ、ユニークスキルの文字
【ダンジョン転移】
にこっと笑って、私は身を翻した。
回廊を戻る途中、もう一度だけ振り返る。
静電気は消え、穴はただの暗がりに見えた。
けれど地図では、さっきより線が太い。
“認識”されたのだ。自動マッピングが、この場所をあると認めた。
広間へ戻る。
石段の前に立ち、深く息を吐いた。
「最初の違和感は、当たり」
あの“場違いな石碑”は、この秘境が存在する合図――たぶん、ね。
私は胸の中でだけ頷いて、フードを少し直す。
黒隠虚衣が、影を濃くした。
「……まだだよ」
足が、前を向く。
刻んだ名の続きは、こういう“空白”を埋めながら進むと決めている。
だれかが、あの日の私みたいに震えているなら、手を伸ばせる位置にいるために。
私は歩き出した。
地図の線が、さらに先へ――208階層へ続いていく。




