白の亡霊(19)
―121階層
湿り気を帯びた空気が肌にまとわりつき、視界の奥には複雑に入り組んだ岩壁と、淡く光る苔が広がっていた。セーフティーエリアを抜けて最初の一歩を踏み入れると、全員の表情は自然と引き締まる。
ナノが立ち止まり、振り返った。眼差しは鋭く、だが冷静だった。
「もう一度、作戦を確認する」
声が落ちると、空気がぴんと張り詰めた。
アイギス十台が縦列を組み、エンジン音を低く響かせている。その周囲に配置された冒険者たちが、息を潜めて耳を傾けていた。
「我々の最優先は――篠原副支部長と、その娘の救出だ」
短く、だが明瞭に告げる。
誰もが分かっている事実を、改めて言葉にすることで意志を揃える。
「この階層からは、一階層あたりおよそ三時間、一気に129階層まで攻略する。アイギスを止めることは基本的にしない。探知班が常に索敵を行い、痕跡がないかを確認しながら地図を埋める。ルートはできる限り短く、無駄を省く。救出が叶えば、ただちに帰還ルートを確保する」
淡々と告げながらも、その言葉には強い芯があった。
「モンスターが現れた場合――基本は回避。だが、どうしても避けられない場合はブラックランクが前に出る。剣鬼」
ナノの呼びかけに、アルザスが無言で顎を引いた。
「先頭のアイギス護衛。ルート上の脅威を斬り払い、速度を落とさせないことが任務だ」
続いて、りうへ視線を移す。
「りう。大規模な迎撃が必要な場合にのみ、魔法を展開してくれ。今は温存が第一だ」
気怠げに肩をすくめたりうは、口の端を吊り上げて応じた。
「……やる時は派手にやるわよ」
「カレンさんは後衛だ。歌で全員の能力を支えつつ、詠唱は必要な時だけでいい。負担を分散させるため、交代でバフを回す。医療班と連携してくれ」
清楚な微笑みを浮かべながら、カレンは小さく頷いた。
「お任せください。仲間を一人も倒れさせはしません」
最後にナノは全員を見渡す。
「アイギスにはジャミングと探知機能がある。これを最大限に活かす。無駄な交戦はしない。いいか――俺たちは勝ちに来たんじゃない。救いに来たんだ」
その言葉に、誰もが静かに頷いた。
機体のライトが灯り、通路を照らし出す。
ナノが右手を軽く振り下ろした。
「進軍開始。目標――129階層、ボス部屋前だ」
重低音を響かせながら、アイギスの列が動き出す。
救出という使命と、世界が注視する未到達領域の踏破を背負い、一行は121階層の闇へと進んでいった。
アイギス十台が地鳴りを響かせ、岩壁に囲まれた通路を進んでいく。
規則正しく間隔を保ち、先頭と最後尾をブラックランクが守る形だ。
剣鬼アルザスは常に前方に目を凝らし、モンスターの気配を察すると躊躇なく前へ出た。
一閃。
鋭い斬撃が、現れた魔物の急所を正確に断ち切る。声を上げる暇すら与えずに倒れた巨躯は、アイギスの列が止まるより先に地面へ沈んでいた。
「速度は落とすな。進行継続」
ナノの声が短く飛ぶ。
側面を脅かす敵は、CresCentの仲間たちが光弾を放ち次々と撃ち抜いていく。数百の光が瞬くように乱射され、道を塞ぐものは瞬く間に消し飛んだ。
後方からはカレンの歌声が響く。
清らかで神秘的な旋律は、全員の呼吸を整え、脚を軽くし、心を研ぎ澄ませる。戦場の歌姫。その二つ名にふさわしく、彼女の歌は仲間の力を底上げし続けていた。
121階層の地図が次々と塗りつぶされていく。探知班が拾った反応はすべて確認され、綾乃たちの痕跡は見つからなかった。
――三時間。
予定通り、アイギスの列は122階層への階段を下った。
⸻
122階層。
水脈が多く、濃い霧が漂う。足元を這う水流は、ところどころで激しい奔流に変わり、進路を脅かした。
「流されるな! 右側に寄せろ!」
ナノが的確に声を飛ばす。
水辺から現れた蛇型モンスターが群れをなして襲いかかる。
だがアルザスの剣が閃き、斬り飛ばされた首が霧の中を舞った。
「右翼、遅れるな!」
瞬時に隊列を立て直し、アイギスは速度を落とさずに突破する。
「カレンさん、強化を前列に」
「はい――“光はここに”」
歌声が強さを与えるたび、前衛の踏み込みが深くなり、剣の一撃が鋭くなる。
未到達の領域を進むという緊張感の中で、それでも速度は一切緩められなかった。
探索は続く。だが、ここにも篠原母子の痕跡は見つからない。
⸻
123階層、124階層――。
時間は確実に過ぎていく。
モンスターとの小競り合いは絶えなかったが、アイギスを止めるほどの脅威は現れなかった。
「全車、前進。予定通り三時間で突破」
ナノの声が響き、次々と地図が埋まっていく。
この速度なら――129階層、ボス部屋前まで予定通りに到達できる。
だが、綾乃と未桜の姿はまだ確認できない。
救出を最優先にしながらも、刻一刻と迫る時間の重さが、隊全体に影を落としていた。
125階層。
小競り合いが続いたが、アイギスの速度は決して止まらなかった。
探知班は地図を埋めながら、必死に綾乃母子の痕跡を探す。
「……見当たらない」
報告に、隊列にわずかな沈黙が走る。
「気を抜くな。次だ」
ナノの声が即座に不安を打ち消す。
⸻
126階層。
ここで水棲の怪魚が群れを成し、進路を塞いだ。
湖面から巨大な影が跳ね上がり、アイギスを丸呑みにしようと迫る。
「前衛、持ちこたえろ!」
ナノが叫ぶ。
剣鬼が踏み込む。
振り抜かれた斬撃が魚影を二つに裂き、飛沫が戦列に降り注ぐ。
その隙にアイギスは突破。
「撃ち漏らすな!」
CresCentの光弾が追撃を許さず、湖面は一瞬で閃光に埋め尽くされた。
⸻
127階層、128階層。
疲労の色が広がる頃、カレンの歌声が再び全員を支えた。
身体を軽くし、呼吸を整え、心を保たせる。
彼女の存在がなければ、とても三時間での制覇は不可能だっただろう。
「……ここにも、いない」
探知班の報告が続く。
救出は未だ果たせず、焦燥だけが積み重なっていく。
⸻
――そして、129階層。
巨大な扉が一行を待ち構えていた。
冷たい空気が流れ込み、圧倒的な存在感が部屋の向こうから伝わってくる。
「ここが……」
誰かが小さく呟く。
ナノは全員を見渡し、短く告げた。
「ここに陣を張る。隊を振り分ける。準備を整えろ。これが、次の壁だ」
一行は整列し、扉の前にアイギスを中心とした円陣をとる。ナノの指示のもと、見張り組と休憩組が分けられ、ローテーションで疲労を回復させるのが目的だ。
ここを抜けられなければ、篠原綾乃、未桜の救出は絶望的になる。
ナノは扉へと視線を向け、この後の壮絶な戦いのイメージを組み上げていた……




