白の亡霊⑩
戸惑いを隠すように頭をかきながらも、麻桜はすぐに表情を引き締めた。
「……それより、ここは危ない。まだ近くにモンスターがいる。――場所を移動しよう」
綾乃が頷きかけたその時、視界の端で淡く光るものが目に入った。
「あ……待って!」
足元に転がっていた転送石。
未桜を抱いたまま、綾乃は手を伸ばして拾い上げる。
掌に収めた石は、深いひびが走り、表面の光がすっかり消えていた。
欠けた部分からは、かつて宿っていた輝きが零れ落ちていくかのようだった。
「……だめ……もう、使えない……」
呟いた声は、かすかに震えていた。
母としての希望が砕け散る音を、自分の胸の内で聞いてしまったからだ。
未桜が胸元で不安そうに顔を上げる。
「ママ……?」
小さな声に、綾乃は石を抱き締め、唇を噛む。
それでも娘を安心させるように、震える口元に微笑みを浮かべた。
「……大丈夫。転送石は壊れてしまったけど――」
視線を麻桜へと向け、強く息を吸う。
「――あなたを信じるわ。だから……導いて」
麻桜は一瞬きょとんとした後、にこっと笑った。
「……任せて。必ず、安全なところまで連れていくから」
⸻
綾乃の視点
彼女がそう告げると、周囲を一瞥して先に立つ。
白いマントの裾が岩肌をかすめ、乾いた足音が一定の間隔で続いた。私は未桜を胸に抱き寄せ、その背中だけを見失わないようについていく。
やがて、崩れた岩塊が作った庇のような岩陰にたどり着く。外からの視線も通りにくい、狭いが落ち着ける場所だ。彼女は足を止め、そっと息を整える。
――その唇が、ほとんど音にならないほど微かに動いた。
「……聖域天蓋」
瞬き一つの間に、淡い光膜がふわりと芽吹く。
半球状の“幕”が私たちを包み、外気のざらつきがすっと遠のいた。温度が和らぎ、岩壁を伝う水音が膜の向こうで丸くなる。耳の奥に溜まっていた緊張が、ゆっくりとほぐれていく。
「……っ」
思わず息が漏れた。訓練で見たどんな防御よりも、静かで、強い。触れずとも分かる――これは破られない。
未桜が私の袖を握る指に、少しだけ力を残したまま見上げる。
「ママ……あったかい……」
「ええ……大丈夫よ」
言いながら、私自身の声が震えていないことに気づく。守られている、そう身体が先に理解していた。
彼女は肩越しにこちらを見て、にこっと笑った。
「ここなら、しばらく安全。……座ろっか」
岩に背を預けて腰を下ろす。未桜の鼓動が落ち着いていくのを胸で感じながら、私は目の前の十八歳の少女を見つめた。幼さの名残と、途方もない強さ。その両方をたしかに宿した瞳。
気づけば、言葉が零れていた。
「……あなたは、何を……探していたの……?」
責めるためでも、踏み込むためでもない。ただ、知りたかった。どうしてここにいて、どうして戦えて、どうして――人を助けられるのか。
彼女は一瞬だけ視線を落とし、すぐにまっすぐ返してくる。
その瞳に、影が一瞬だけ揺れた。
「……私みたいに、突然転送されてきちゃった人が、どこかで助けを待ってるかもしれない。だから……せめて、他の冒険者達が未到達の階層までは…… 探して帰ろうって」
胸の奥が強く揺れた。
――そうか。だから“下りる”のではなく“上がって”いたのね。そして、私達は救われた。
世界が首を傾げ続けた謎が、今この岩陰で音もなく一本の線になって結ばれていく。
未桜の髪を撫でながら、私は小さく頷いた。
「ほんとうに……ほんとうにありがとう…… この子を救ってくれて」
少女は照れくさそうに頭をかき、笑顔を見せた。
「えへへ……ありがと。そう言ってもらえると、がんばった甲斐あるかも」
結界の光が、岩場に柔らかな明滅を落とす。
恐怖の余熱が、ゆっくりと静かな温度に変わっていった。
私は静かに息を吐いた。
「……神崎さん。いえ、麻桜さん。――ここは一体、何階層なの?」
彼女はこちらを見て、ほんの少し目を伏せてから答えた。
「……うん。ここは211階層だよ」
胸が大きく打った。
私が不安定ゲートに呑まれる前。本部で確認していた記録。
石碑に刻まれていた“白”の到達階層は、確か212階層だった。
「……そう……やっぱり……」
すべてが繋がった。
石碑に残された“白”の名。
世界を震わせた“白の亡霊”という呼び名。
そして――四年前に不安定ゲートで姿を消した少女、神崎麻桜。
目の前の十八歳の少女こそ、その全てだった。




