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白の亡霊⑧


 東京湾岸にそびえる日本ダンジョン対策本部支部。

 そこで副支部長を務める篠原綾乃しのはら あやのにとって、今日はようやく訪れた数少ない休日だった。

 小学四年生の娘・未桜みおと二人、郊外の公園にシートを広げる。


 「ママ、今日はいっぱい遊ぼうね!」

 「もちろん。今日は未桜のための日だから」


 昼下がりの穏やかな光景――その一瞬後。


 視界の端が揺らぎ、空気が軋むようにねじれた。

 耳をつんざく振動音が広がり、公園の片隅に裂け目が生まれる。


 「……っ!? これ……まさか、不安定ゲート!?」


 綾乃の表情が一瞬で強張った。

 訓練資料や映像でしか見たことのなかった“あり得ないはず”の現象。

 それが今、現実に眼前で広がっている。


 「ママ……なに……これ……?」

 未桜が袖を掴み、涙を滲ませる。


 「大丈夫、落ち着いて……っ」

 そう言いながら、綾乃の喉はひりつくほど乾いていた。

 ――逃げ場がない。もし飲み込まれれば、どこに飛ばされるかも分からない。

 職務で知識があるからこそ、その危険性を誰より理解していた。


 「いや……だめ、未桜! 離れないで!」


 裂け目は一気に広がり、黒い靄と光が渦を巻く。

 綾乃は娘を抱きしめた。

 心臓が破裂しそうなほど早鐘を打ち、頭の中が真っ白になる。


 「お願い……誰でもいい……助けて……!」


 叫んだ瞬間、二人は光に呑まれ、視界が反転した。


 ――


 感覚が失われる。そう感じた時には、綾乃は湿った地面に、荒々しく叩きつけられていた。

 「っ……はぁ……!」

 肺を押し潰すような衝撃に呼吸が乱れ、胸が焼けるように痛む。


 だが腕の中には未桜がいた。

 強く抱きしめていたおかげで、娘は地面に投げ出されることもなく、傷ひとつ負っていない。


 「うっ……未桜……怪我はない……よかった……ほんとうに……」


 その小さな体が自分の腕の中で息をしている――ただそれだけで、綾乃の胸から力が抜けていく。

 だが安堵したのも束の間、肌がざわりと粟立った。


 ――気配。


 背筋が冷たくなる。

 薄暗い空間の奥から、獣の息遣いのような低い音が響く。

 未桜の小さな指が、さらに強く母の服を握った。


 「……な、なにか……来るっ!」


 恐怖で声が裏返る。

 心臓が早鐘を打ち、手の震えが止まらない。


 綾乃は必死に訓練を思い出した。

 ――不安定ゲート事故対策講習。

 その中で繰り返し叩き込まれたのは、常に簡易防御具を携帯すること。

 それだけが、転送されてしまった時の最後の命綱になると教えられていた。


 「シールド……展開っ!」


 腰のポーチから、肌身離さず持ち歩いていた小型装置を取り出し、スイッチを叩く。

 ――カチリ。

 淡い光が弾け、半球状の光壁が二人を包み込んだ。


 光が差した瞬間、薄暗い空間の輪郭がわずかに浮かび上がる。

 湿った岩壁、じっとりとした土の匂い。

 その奥から、低く唸るような息遣いが聞こえてくる。


 「……だ、大丈夫だから」


 恐怖で喉が詰まる。

 未桜が泣きそうな声で「ママ……」と呼び、綾乃は震える腕でさらに抱き寄せた。


 ――ドガァンッ!!


 鈍い衝撃がシールドに叩きつけられた。

 光壁が大きく波打ち、ガラスのようなひび割れ音が響く。

 未桜が悲鳴を上げ、綾乃の心臓は喉から飛び出しそうなほど跳ね上がった。


 本来なら 50階層級のモンスターの一撃でも耐えるはず の防御具。

 だが、一撃で揺らぎ、細かな亀裂が浮かぶ現実を前に、綾乃の息が詰まる。


 「……嘘……どうして……」


 恐怖で視界が滲む。

 それでも綾乃は必死に訓練を思い出そうと頭を振った。


 ――不安定ゲート対策訓練。

 最初にシールドを張る。

 次に……そう、次は――。


 「……つ、次は……転送石……!」


 震える声で自分に言い聞かせ、必死に視線を走らせる。

 そして見つけた瞬間、血の気が引いた。


 光の壁の外。

 淡く光る転送石が、無情にも地面に転がっていた。


 「……なんで……なんでシールドの外に……っ!」


 唇が震え、涙が滲む。

 手を伸ばせば届く距離。

 だが、シールドを解けばその瞬間に二人とも終わる。


 「未桜……っ……」

 小さな体を抱き寄せながら、綾乃は必死に呼吸を整えた。

 訓練では決して想定されなかった、最悪の状況。

 ――そして、闇の奥から響く重い足音が、さらに近づいてきていた。


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