白の亡霊③
319階層から階段を上がり、私は新しい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
「……っあ」
広がっていたのは、圧倒的な森だった。
巨木が天を突き、枝葉は空を覆い隠し、昼でも光はほとんど差し込まない。
土は湿り、苔が敷き詰められ、遠くから低い咆哮が響いてくる。
すぐに 気配遮断を展開し、さらに シールドを重ねた。
そして千里眼で周囲を探る。
「……未知の階層。絶対に油断しない」
木々の間を渡るように、巨体が動いた。
――巨猿。群れで行動し、赤い目がぎらぎらと光っている。
幸い、気配遮断のおかげでこちらには気付いていない。
「初見は……閻魔で」
私は魔力を練り上げ、漆黒の光を収束させた。
「――黒炎閻魔、一式!」
閃光が走り、巨猿の胸を正確に貫いた。
咆哮を上げる暇もなく、巨体は崩れ落ちる。
『巨猿――初撃、黒炎閻魔一式。胸部貫通で即死。行動パターン未確認』
ノートに記録を残す。最初の検証はこれで十分だった。
さらに進むと、巨木に絡みつく大蛇の姿があった。
鱗が光を反射し、獲物を狙うように身をくねらせている。
「……次も閻魔」
迷わず魔力を込め、狙いを首に定める。
「――黒炎閻魔 一式!」
漆黒の閃光が首を撃ち抜き、大蛇は痙攣して崩れ落ちた。
『大蛇――初撃、黒炎閻魔一式。首部狙撃で撃破。行動:不明』
ペンを走らせながら、呼吸を整える。
枝葉の影から現れたのは、鋭い鎌を備えた巨大蟷螂だった。
鎌が風を裂き、目にも留まらぬ速さで迫ってくる。
シールドが火花を散らして攻撃を受け止めた。
「っ……危な……」
すぐに距離を取り、漆黒の光を放つ。
「――黒炎閻魔 一式!」
関節を正確に撃ち抜き、甲殻を砕く。
蟷螂は絶叫を上げ、動きを止めた。
『巨大蟷螂――初撃、黒炎閻魔一式。関節狙撃で撃破。行動:跳躍、鎌による斬撃』
書き込みを終え、深く息を吐く。
⸻
探索を続けて四日目の朝。
巨木の根の下に、石造りの大階段を見つけた。
「よし……317階層に続いてる」
石畳には古代の紋様が刻まれ、淡く光を放っている。
その横には、一つの石碑。
――記憶の石碑。
手を触れると、脳裏に声が響いた。
『――名を刻む者よ、汝の名を示せ』
本名を刻めば、地上の両親に伝わり心配させてしまう。
それだけは避けたい。
「……“白”」
光が走り、石碑に刻まれた。
「白 / 318階層到達」
「……これでいい。私のことを知らなくても。
でも、ここまで来た証だけは、確かに残したい」
石碑を振り返り、一礼する。
自分なりのルールを守る。未知には閻魔、常にシールドと気配遮断を重ねる。
次の、317階層も油断はしない。
318階層の原始の森を抜け、次に辿り着いたのは焼けつくような砂漠だった。
階段を上がった瞬間、全身を叩きつける熱風に思わず息を詰める。見渡す限りの砂丘、揺らぐ陽炎。
千里眼を巡らせると、砂の下で巨大な影が蠢いていた。次の瞬間、砂を割って巨大なサソリが姿を現す。
「……初見は閻魔で」
迷いはない。
漆黒の魔力を練り上げ、私は詠唱する。
「――黒炎閻魔、一式!」
閃光が砂を切り裂き、サソリの甲殻を正確に貫いた。巨体は痙攣し、砂に沈んでいく。
『巨大サソリ――黒炎閻魔一式。頭部貫通で即死』
ノートに記録を残し、記憶の石碑に“白”の名を刻む。
「白 / 317階層到達」
⸻
さらに階層を上がるたび、環境はめまぐるしく姿を変えた。
316階層――切り立った山岳。急降下する猛禽を閻魔で仕留め、石碑に名を刻む。
315階層――雪原。吹雪の中、牙を剥く狼型の魔物を閻魔で撃破。石碑に名を刻む。
314階層――無数の洞窟が張り巡らされた暗闇。蝙蝠の群れを晴天で散らし、石碑に名を刻む。
313、312階層――荒野と森林。現れる魔物はすべて閻魔で倒し、記録を残し、石碑に“白”の名を刻んだ。
刻まれるたびに、胸の中に「もうすぐだ」という確信が強まっていく。
――次は311階層。その先、310階層には必ず転送装置がある。
「ようやく……帰れるかもしれない」
胸が高鳴り、思わず独り言が漏れた。
⸻
311階層に足を踏み入れた瞬間、目の前に広がったのは荒涼とした岩場だった。
乾いた風が吹き抜け、耳の奥に不気味な音が残る。
千里眼で周囲を探りながら進んでいた私の視界に、不自然な影が映った。
「……あれ……?」
慎重に近づく。岩陰。
そこに横たわっていたのは――人の形をした白骨だった。
「え……まさか、人……!?」
声が震える。
骨は岩の隙間に体を縮めるように潜り込み、そのまま力尽きていた。
モンスターに荒らされることなく、ただ朽ち果てた姿。
胸元には擦り切れた小さな鞄が抱え込まれていた。
私は迷いながらも、震える手でそれを開いた。
中には、薄汚れた日記と学生手帳。
掠れた文字が必死に刻まれていた。
――『怖い……助けて……ここから出られない』
――『水がない……もう歩けない……』
息が詰まり、喉が焼けるように痛んだ。
「……私と一緒で、転送されたんだ……」
震える声が零れた。
もし私が秘境に転送されていなかったら――今ここで白骨となっていたのは、私だったかもしれない。
胸の奥から恐怖が這い上がり、足が震える。
学生手帳には、まだあどけなさの残る顔写真と名前が印刷されていた。
私は唇を噛みしめ、手帳を胸に抱きしめる。
「……助けてあげられなくて、ごめん」
涙が滲み、声は冷たい岩場に吸い込まれていった。
⸻
白骨を前に立ち尽くしながら、胸の奥で別の思いが芽生える。
「……もしかしたら、今も……どこかで誰かが助けを求めているのかもしれない。私達がそうだったように……」
「それを見つけられるのは……ここまで来られた私しかいないんじゃないか……」
恐怖と悲しみ。
そして、芽生えた責任感。
自分にそんな覚悟があるのか分からない。
けれど、この事実を見てしまった以上、知らないふりはできなかった。
⸻
重い気持ちを抱えたまま、探索を続ける。
やがて、310階層へと続く石造りの大階段が現れた。
「……ここを登れば……310階層」
その横には、光を放つ記憶の石碑。
私は深呼吸し、手を触れた。
『――名を刻む者よ、汝の名を示せ』
脳裏に響く声に、迷いなく答える。
「……“白”」
光が走り、石碑に刻まれる。
「白 / 311階層到達」
胸に灯る希望。
310階層にはセーフティーエリアがあり、転送装置が待っているはずだ。
地上に戻れる。家に帰れる。
だが同時に、数日前に目にした白骨が脳裏を離れない。
――今も、どこかで助けを待つ声があるかもしれない。
――それに応えられるのは、私しかいないのかもしれない。
期待と責務、その狭間に揺れながら、私は階段へと足をすすめた。




