その後 / 大神殿
* * * * *
「くそっ、ジルヴェラめ……! 小賢しい真似をしおって……!」
馬車の中で苛立ったように父が悪態をつく。
母の顔色も悪く、恐らくシルヴィアも今、似たような顔をしているだろうと思った。
……どうしてこうなってしまったの?
本当ならば、今頃シルヴィアはエイルリートのエスコートを受けながら貴族や王族に挨拶をして、輝かしいデビュタントの夜会を楽しんでいたはずなのに。
姉が一人でデビュタントに参加したことにより、全てが崩れ去った。
人々の非難の視線を思い出すと、まだ体が震える。
シルヴィアはただ、エイルリートや両親、公爵家に任せていただけなのに。
……そうよ、エイルリート様が『任せて』というから信じたのに!
婚約できても、デビュタントの夜会を追い出されてしまった。
これでは、明日からどんな顔をして社交界に出ればいいのか。
不貞の疑惑をかけられて家から出ていくはずだった姉は、みんなから同情され、シルヴィア達は非難された。エイルリートが姉に婚約破棄を突きつけ、シルヴィア達が幸せになる未来はどこにいってしまったのだろう。
それもこれも全て姉が悪いのだ。
両親や公爵家の望むように動かないから。いつだって姉は自分勝手でシルヴィアを悲しませる。
「公爵家も公爵家だ! 責任を全て我が家に押し付けようとして……そもそも、この計画を立ててきたのは公爵家だというのに、どうして私達ばかり……!!」
「どうしましょう……明日から、お茶会や夜会で何て言われるか……」
「っ、そんなことより、国王陛下や王妃殿下の不興を買ってしまったことのほうが問題だ! もしかしたらこのまま公爵家が私達を捨てる可能性もある……! そうなればおしまいだ……!!」
と、父が頭を抱え、母が涙をこぼす。
あの後、国王陛下と王妃殿下から叱責を受けた。
王家主催の夜会で騒ぎを起こし、他の令嬢達のデビュタントを台無しにしたことを責められた。
それに両親の姉に対する扱いについても何故か酷く強い言葉で注意された。
……わたしのほうがつらい思いをしたのに。
シルヴィアが泣いても、国王陛下も王妃殿下も気にかけてくれなかった。
それどころか冷たい視線を一度だけ向けられ、以降は完全に無視されてしまった。
父の言葉にシルヴィアはギョッとした。
……公爵家がわたし達を捨てる?
「そ、そんなことありえません! だって、わたしとエイルリート様は婚約しているのに!」
「先ほど、公爵家は『ジルヴェラに関することは伯爵家の責任』と言っていたんだぞ? もし公爵家が『問題のある伯爵家との婚約は取り消す』と言えば、立場の低い私達ではどうしようもない。……エイルリート殿はまだ若いから、相手などいくらでも探せるだろう」
「……嘘……」
もしも公爵家が婚約を取り消すと言ったら、エイルリートと結婚できなくなる。
あれほど非難の目を向けられたドレヴァン伯爵家に婿入りしたがる者はいるのだろうか。
最悪、エイルリートとの婚約が解消され、誰とも結婚できない可能性もあるのでは……。
「お姉様が悪いのよ……お姉様が……」
……わたし達の思う通りに動いてくれなかったから。
馬車が屋敷に到着すると、シルヴィアは馬車から飛び出した。
何か考えがあってのことではない。
ただ、この怒りや苦しみ、悲しみ、つらさを何かにぶつけたかった。
そして、その相手は姉でなければならなかった。
しかし、姉の部屋の前に着き、扉を叩いても反応はない。
一足先に屋敷に帰ってきているはずの姉。屋敷の中で姉が過ごせる場所はここしかない。
それなのに、どうしてか全く反応がなかった。
嫌な汗が背中を伝う。震える手で扉の取っ手を握り、動かせば、扉はあっさりと開いた。
「……おねえ、さま……?」
室内には誰もいなかった。
シンと静まり返った部屋の中に入り、見回してみても隠れている様子はなかった。
ベッドの上に夜会で着ていただろう白いドレスが置かれているだけ。
もう一度見回し、机の上に何かが置かれていることに気が付いた。
机に近づけば、それが便箋であることが分かった。
震える手を伸ばし、便箋を持ち上げる。
そこには美しい達筆な文字が書かれていた。
『ここに我の居場所はない故、大神殿に身を寄せる』
後日、伯爵家から籍を抜く手続きをするために書類を送るから署名だけくれればいい、というような内容が下に綴られている。伯爵家に対する心残りや悲しさなどを感じない、淡々とした文章だった。
……まさか、もう神殿に向かったの……?
シルヴィア達が大変な思いをしているというのに、姉はさっさと大神殿に行ってしまったらしい。
怒りと屈辱感とよく分からない感情で体が震え、手紙を握り潰す。
「このまま、お姉様だけ逃げるなんて許さない……!」
シルヴィア達が苦しんでいるなら姉も苦しむべきだ。
シルヴィアが幸せになれていないのに、姉が幸せになるなんてあってはならない。
「お姉様が幸せになるなんてありえないのよ……!」
いつだってシルヴィアの欲しいものばかり持っていた姉。
シルヴィアから幸せな未来も、デビュタントの喜びも奪っていった姉。
それなのに大神殿で姉だけ悠々と暮らし、あの素敵な司祭と過ごすなんて許せない。
まだ完全に乾き切っていなかったのか手にインクが付いてしまう。
黒いインクが擦れた跡を見て、手を握り締める。
……お姉様なんて大嫌い……!
昔からずっとシルヴィアよりも優秀で、シルヴィアの欲しいものを持っていて、そのくせいつも暗い表情でみんなから愛されるシルヴィアに冷たくて、思い通りになってくれない。
「っ、お父様、お母様……!!」
手紙を握り締め、シルヴィアは元来た廊下を駆け戻ったのだった。
* * * * *
王城から戻り、すぐさま荷物をまとめると我とルシフェルは伯爵邸を後にした。
元より夜会の後に伯爵夫妻やシルヴィアと顔を合わせるつもりはなく──どうせ会っても良いことはないだろう──、既に準備を整えてあるというルシフェルの言葉を信じて屋敷を出た。
装飾品全てと自分で脱ぎ着ができそうな地味なドレスなどの着替え、貯めていた金、その他の必要最低限の日用品をいくらかを鞄二つに詰め込んである。
夜会から帰ってきた時に使った馬車にまた乗って、大神殿に向かっている。
御者が訝しげな顔をしていたものの、少し金を握らせれば素直に動かしてくれた。
「予定より少し早いが、ある意味、家を出るには良い機会だったな」
令嬢が家から出て神殿に身を寄せる場合、世間の納得する理由があれば連れ戻されることはない。
今回のデビュタントの件は絶好の機会だった。大勢が伯爵家に不信感を抱いただろう。
「大司祭には既に事情を説明してあります。大神殿はいつでも助けを求める者は拒まないので、この時間でも受け入れてもらえるでしょう。たとえ伯爵家や公爵家がジル様を戻すよう抗議をしてきたとしても、大司祭の言葉を無視はできません」
「大司祭は我の知っている者か?」
「いいえ、ジル様がお亡くなりになられた後に生まれた者なのでご存じないかと。ですが、始祖吸血鬼のノエルの知り合いとのことで、ジル様への忠誠心は確かです」
「ノエルか……懐かしいな」
千年前、腹心の一人に始祖吸血鬼のノエルという魔族がいた。
鮮やかな金髪を左右の側頭部で二つにまとめ、紅い目をした、可愛らしい吸血鬼の少女。
見た目は十代半ばくらいだが、我と同程度に長生きしており、あの頃はよく『お姉様』と我を慕ってくれた。我にとっても可愛い妹分であった。
……性格は少々生意気なところがあるが。
何事にも物怖じせず、堂々としているのに、我の前では甘えてくるところが可愛かった。
ルシフェルとの口喧嘩も恒例行事のようなもので、場を和ませてくれた。
「ノエルは今、どうしている?」
半永久的な寿命を持つ始祖吸血鬼だ。無事ではあるのだろう。
「この国におりますが、いつもあちこちうろついているようでして……」
「そういえばノエルは昔から落ち着きがなかったな」
会えるならと思ったが、いないなら仕方がない。
それに、ノエルは極度の人間嫌いだったので今の我は嫌われるかもしれない。
……もし嫌われたら悲しいが……。
そんなことを考えているうちに馬車が大神殿に到着する。
ルシフェルが伝えておいてくれたからか、夜だというのに大神殿の裏口には明かりが灯されており、先に降りたルシフェルの手を借りて馬車から降りると司祭の一人が出迎えてくれた。
気配から、司祭が魔族だと分かる。
「夜分遅くに申し訳ない」
「いいえ、お気になさらずに。迷った者、困っている者、助けを求める者、全ての人々に手を差し伸べることは主の教え、導きによるものでございます」
司祭が言い、裏口の扉を開けて中へ通された。
夜の大神殿は静謐な空気に包まれており、昼間よりもいっそう荘厳に感じられる。
その司祭の案内を受けて大神殿の中を歩いて奥に向かう。
「大司祭様よりお話は伺っております。もし何かお困りごとがありましたら、襟か胸元に黒い星のブローチをつけている者にお声がけください。……我らはあなた様のお役に立てることが何よりの喜びですから」
「感謝する」
「勿体なきお言葉でございます」
そして、一つの扉の前で司祭が立ち止まり、扉を叩いた。
中から声がして、司祭が扉を開けた。促されて中に入れば、背後で扉が閉まる。
室内には初老の大司祭がおり、立ち上がると深々とこちらに首を垂れる。
「魔王様、ルシフェル様、お会いできて光栄に存じます。人狼のジークムンドと申します。大司祭の一人としてここで主に仕えておりますが、この日をずっとお待ちしておりました」
「ジークムンド……もしや、我が腹心の一人であったジークバルトの子孫か?」
「はい、そうでございます」
聖女との戦いの際、我を庇って大怪我を負ったジークバルトであったが、こうして子孫がいるということは、あの後も無事に生きていたのだろう。喜びと共に、もう彼はいないのだという悲しみを感じた。
ジークバルトは強く、仲間思いで、気の良い人狼の男だった。
普段は狼の獣人のような姿をしていたが、人の姿を取ることもできる有能な種族である。
話が合うのかジークバルトはよくノエルと一緒にいて、戦場では背中を預け合って戦っていた。
あの二人が並び立つ姿ももう見られないと思うと寂しいものだ。
「そうか……できるなら、もう一度言葉を交わしたかった」
「そのお言葉をいただけて、祖先もきっと喜んでいることと存じます」
大司祭がもう一度頭を下げ、それから手で示されてルシフェルと共にソファーに腰掛ける。
案内役だった司祭が動き、お茶を用意してくれる。
一口飲んで驚いた。良い茶葉を使っている。
「我は表向き、ジルヴェラ・ドレヴァンとして教会に逃げ込んだという体で過ごしたい。特別扱いもしなくていい。聖属性を極めるために奉仕活動にも参加するつもりだ」
「かしこまりました」
ルシフェルが差し出した袋の中には装飾品が詰まっている。
それを司祭が受け取り、大司祭に袋の口を少し開けて中身を見せた。
「寄付金代わりになるだろうか?」
「十分でございます。これだけあれば個室をご用意できますが、いかがいたしますか?」
「個室?」
「はい、貴族の方々がお越しになられる際、寄付額に応じて部屋をご用意するのは通例なのです」
寄付金が少なくても、たとえなかったとしても、最低限の衣食住は用意してもらえるが、やはり寄付金が多いほど待遇も良くなるらしい。
……なるほど、そのような仕組みがあるのか。
横にいたルシフェルが「個室がよろしいかと」と耳打ちしてくる。
大部屋でも悪くはないだろうが、他の者にあれこれと詮索されるのも面倒だ。
「では、個室を頼む。ただし、寄付金に見合う部屋にしてくれ」
「そのように取り計らいます。……ジークフェン、部屋のご用意を」
「はい」
案内役の司祭が頷き、部屋を出ていった。
それを見送り、大司祭に声をかける。
「もしや、そなたの息子か?」
「はい、長男のジークフェンといいます」
「用命があれば黒い星のブローチをつけた者に声をかけるようにと言われたが」
「黒いブローチは同胞かこちら側の者の証でございます。まだ皆にあなた様について明かすことはいたしませんが、高貴な方と伝えているので気兼ねなくお使いください」
横でルシフェルが、うんうん、と頷いた。
「さすがジークバルトの子孫。話が早くて助かりますね」
「いえいえ、ルシフェル様には遠く及びません」
そのやり取りにどこか懐かしさを感じた。
千年前、ルシフェルとジークバルトも似たような会話を交わしていた。
『ジークバルトは話が分かる男だな』
『ははは、ルシフェル殿ほどではないさ』
そんな姿を思い出し、やはりもう一度会いたかったと切なくなる。
あの頃は人間との戦争で精神的な余裕は少なかったが、それでも腹心達がいてくれたからこそ、完全に心を失うことはなかった。彼ら、彼女らがいなければ先に我の心のほうが折れていたかもしれない。
守るべき者が、背中を預けられる者がいたことで、我は長き戦争の日々を耐え抜けた。
……そう思うとルシフェルには感謝しかないな。
千年前も、今も、こうしてそばに仕え続けてくれるのだから。




