誘拐(2)
檻から出た元婚約者がシルヴィアのそばに戻る。
「シルヴィア、これで君も社交界に戻れるはずだ」
「ああ、嬉しいです……エイルリート様……!」
と、シルヴィアが元婚約者に抱き着く。
「さあ、『我が身にその力を捧げよ』と詠唱を行うんだ」
「はい。……お姉様、ごめんなさいね? 『我が身にその力を捧げよ』」
瞬間、嫌な感覚が体中に広がった。
封魔の首輪に吸い取られるのとは異なり、体の中に何かが侵食してくる感覚に眉根を寄せる。
……気持ちが悪い……。
ブローチの魔法で無理やり体中の魔力を奪い取られていく感覚がする。
それと同時にシルヴィアが嬉しそうな声を上げる。
「魔力が届きましたわ! すごい、全身に魔力が満ちていくわ……!」
魔力量が増えたからか、シルヴィアの肌や髪に潤いが戻っていく。
以前よりも手入れが行き届かなくなっていたらしいそれらが美しくなっていく様子に、元婚約者も「おお……」と感嘆の声を漏らしていた。
シルヴィアも己の手を見て、頬に触れて、違いを実感したようだ。
この体の中を這い回るような感覚は属性の核を探しているのかもしれない。
しかし、この魔道具には欠点がある。
「もっと、もっと魔力があれば美しくなれますわ!」
喜ぶシルヴィアの声に我は笑みを浮かべた。
「そんなに魔力が欲しければくれてやろう」
抑制していた魔力を解放し、あえてブローチに向けて魔力を流入させる。
今までの比ではない量の魔力が流れ込み、シルヴィアのブローチに魔力が移る。
ぼた、と水の音がして、シルヴィアの顔に赤が滲む。
「……え?」
シルヴィアが恐る恐るといった様子で己の顔に触れた。
ぼたぼたと尋常ではない様子で鼻血が流れ出る。
己の血に気付いたシルヴィアが悲鳴を上げた。
「いやぁああああぁっ!?」
「シルヴィアッ!?」
元婚約者が慌ててシルヴィアを抱き寄せる。
ハンカチを鼻に押し当てているようだが、血は止まらないのだろう。
シルヴィアの「う……、ぁ、いや、いや……!」という掠れた悲鳴が聞こえる。
シルヴィアと元婚約者が地面に座り込んだ。
「もう耐え切れないのか? まだ半分近く残っているのだが」
魔力を吸収されて急激な倦怠感と吐き気を感じながらも、笑う。
いきなり大量の魔力が流れ込んできて、体が受け入れ切れなかったのだろう。
シルヴィアの体が小刻みに震えている。
「っ、ジルヴェラ、魔力を止めろ!!」
「そんなことできるわけなかろう。魔法が展開、発動してしまっている以上、このブローチが壊れるのが先か、シルヴィアか我のどちらかが耐え切れなくなるのが先か」
元婚約者の顔色が悪くなる。
魔法を発動させる詠唱は知っているくせに、解除する方法は知らないらしい。
「シルヴィア、魔法を止めるんだ!!」
「ぅ、止め……ら、な……」
地面に転がったランタンの明かりにシルヴィアの姿が照らされている。
美しくなったはずの髪は段々と萎れ、銀髪が白髪のようにくすんでいく。
その肌の下でボコボコと何かが蠢き、ついには地面に両手足をついて俯いてしまう。
「ぁあぁあああああぁっ!!!!」
痛みを感じているのか、喉が張り裂けんばかりにシルヴィアが叫び、地面に爪を立てる。
よほどの激痛なのか、その爪が欠けてしまっても構わず地面を掻き毟り続けている。
ドクン、と我の中で心臓が大きく脈打った。
……ああ、やっとか。
体内で爆発的に魔力があふれていくのを感じた。
この危機的な状況になって、ようやく、魔王時代の頃の魔力を完全に取り戻した。
体の奥深くで眠っていた魔力が際限なく体中に満ち満ちていく。
そうして、それと同時にシルヴィアの苦しみが強くなる。
「痛いっ、痛い痛い痛い痛い痛いぃいいいいっ!! いやぁ、エイルリート様ぁああぁっ!!」
シルヴィアが叫び、地面を引っ掻くが、その背中が不自然に盛り上がりを見せた。
……いや、背中だけではない。
シルヴィアの体中がボコボコと大きく蠢いている。
その異様な光景にさすがの元婚約者も驚いたのか身を引いた。
「い、一体何が──……」
瞬間、ガシャァアアァンッと派手な音を立てて倉庫の窓ガラスが砕け散った。
暗闇の中に月光が差し込み、声がする。
「ジル様!!」
それはルシフェルの声だった。
「ここだ」
返事をすれば即座に檻のそばに人影が現れる。
暗闇の中、ルシフェルの白い服がよく見えた。
その手が檻の鉄格子を掴むと、無遠慮にこじ開け、引きちぎる。
「ああ、ジル様……! 何ということを……!」
慌ててルシフェルが檻の中に手を伸ばし、我を中から出す。
首にかけられた封魔の首輪に気付くと、ルシフェルがそれを握り、砕いた。
……天使……いや、悪魔は物理的にも強いのだな……。
「この異様な魔法の気配……このブローチか!」
ルシフェルがブローチを掴んだものの、魔法が展開してしまっているせいか外れないらしい。
我に返った様子の元婚約者が後退った。
「な、お、檻が……っ、化け物……っ!?」
しかし、後退った元婚約者の足をシルヴィアが掴んだ。
「エィ、リ……ト、さ……」
元婚約者を見上げたシルヴィアの横顔には、もはや可愛らしさの面影もない。
「ひぃっ……!?」と悲鳴を上げた元婚約者がシルヴィアの手を蹴り払う。
「触るな、この役立たずめ……!! ジルヴェラもお前も、私を伯爵にするための道具にすぎないくせにどうして邪魔をする!? 何故こうも上手くいかない!? これでは伯爵になれないじゃないか!!」
更に伸びてきたシルヴィアの手を払った元婚約者が、シルヴィアを蹴った。
「クソッ、こんな醜い化け物では社交界どころじゃない!! これが私の妻などありえない!!」
怒りのせいか元婚約者が更にシルヴィアを蹴る。
それにシルヴィアが「ばけ、も……の……」と涙声で呟いた。
急速に魔力が奪われていく。
「う……」
「ジル様……!!」
ルシフェルが支えてくれたことで、地面に倒れることはなかったが吐き気と眩暈が酷い。
一気に魔力を奪われたことで貧血状態に陥っているようだ。
蹴られたシルヴィアの体が痙攣する。
「ぁあ……あ、なん、で……どう、し……て……!!」
その体の蠢きが更に大きくなると同時に、シルヴィアの体が膨らんでいく。
「ぁい、愛し、てる……て、い、た……のに……! ま、た、もど……れ、て……!!」
シルヴィアの体の中で魔力が暴れ、過剰な魔力が体を作り替えてしまっているようだ。
膨らんでいくシルヴィアを元婚約者が呆然と見つめている。
途中でドレスもローブも裂けてしまったが、その肌はくすみ、岩のようなゴツゴツとしたものへと変化していき、とても人間のそれとは思えない有り様になっていった。
そうして、うつ伏せだったシルヴィアは家一軒ほどの大きさにまで成長した。
ピシッと胸元で音がして、ブローチが二つに砕け、黒い石の部分が砂のように崩れ落ちていく。
そのおかげで魔力の供給が止まったからか、シルヴィアの肥大化も止まった。
「ァ、ア……クル、シィ……ィ、タイ……ドゥ、シテ……ドウシ、テ……!!」
苦しげに、悲しげに声を上げたシルヴィアが起き上がり、その手を伸ばした。
「うわぁあああぁっ!?」
元婚約者を鷲掴みにするとシルヴィアが立ち上がる。
そうして、屋根を破壊して体を起こした。
ルシフェルが我を抱き上げ、崩れ落ちてくる天井の破片を避けながら倉庫から飛び出した。
二対の黒い翼を出したルシフェルが空中で浮き、我もそこに留まる。
この騒ぎに周辺の家々の者達も気付いたのか、そこかしこで明かりが灯る。
「まずいですね」
「ああ、まずいな」
巨大化したシルヴィアが叫ぶとその声に驚いた人々が家から出てきて、突然現れた巨大な存在に悲鳴を上げ、周辺が恐慌状態に陥った。
……何とか止めねば、街を破壊しかねん。
「『光よ、障壁となりて内を隔てよ!』」
シルヴィアの周囲に障壁を張り、何とかそれ以上街に被害が出るのを抑える。
やや遅れて街の警備隊が馬に乗ってこちらに駆けてくるのが見えた。
「ルシフェルよ、あそこに下ろしてくれ」
「かしこまりました」
翼を仕舞い、ルシフェルの風魔法で落下速度を緩めながら下りていく。
我の張った障壁の前で止まった警備隊のそばに降り立った。
「これは何事ですか!?」
「詳しい説明をしている暇はないが、シルヴィア・ドレヴァンとエイルリート・オルレアンが禁術のようなものを使用し、失敗してああなった。我もそれに巻き込まれた」
我の手足が縛られている様子に気付いた警備隊が驚いた顔をして、すぐにナイフで縄を切ってくれた。
今になってそれに気付いたルシフェルが少し落ち込んでいたので頭を撫でてやる。
……よほど我のことが心配だったのだろう。
「とにかく魔法が失敗し、シルヴィア・ドレヴァンはあのようになって暴れている。左手にエイルリート・オルレアンが握られているが……生きているかは分からん。だが、とりあえず障壁魔法で外に出られないようにはした」
「分かりました。そのまま障壁魔法の展開をお願いできますか?」
「ああ、できる」
「それでは今しばらくお願いいたします。……まずは人々の避難を優先しろ! 周辺の家に声をかけ、全員叩き起こせ!! それから、このことを王城に報告!! 他からも人手を募って、あれを止めるぞ!!」
警備隊員達が返事をし、各々で動き出す。
「とは言え、あのような大きなものを止めることができるものか……」
警備隊の隊長だろう男性が眉根を寄せて考えている。
障壁の中ではシルヴィアが暴れ、家を破壊し、その叫び声が響き渡った。
普通の人間ではあれを止めるような魔法は使えないだろう。
……ふむ、これは使えるな。
「我が止めよう」
「何ですって? いえ、ですが、あんな大きなやつ相手に、お嬢さんが戦うなんて無理です!」
「いや、可能だ。勝算もある。このまま街が破壊されるのを見ているわけにはいかぬ」
そばに立つルシフェルを見上げた。
「フェルよ、魔力を寄越せ」
「仰せのままに」
頭を下げたルシフェルの顔に手を伸ばせば、素直に寄せてくる。
ルシフェルに口付け、魔力譲渡を受けた。
……なかなかに濃く、上質な魔力だな。
減っていた魔力の分が全身に広がり、吐き気や眩暈が落ち着いていく。
唇を離す頃には完全に魔力が戻っていた。
「これなら使えそうだ」
ルシフェルから離した手を天に向ける。
「詠唱にしばしかかるが、その間、障壁魔法を外す。警備隊よ、少しあれの相手を行えるか?」
「っ、あ、ああ、やってみるが……数分しか持ちませんよ?」
「それで十分だ。フェルよ、手助けをしてやるがいい」
「はい」
ルシフェルが警備隊と共にシルヴィアを食い止めるために向かう。
我が障壁魔法を消すと、シルヴィアが叫び声を上げた。
即座にルシフェル達がその巨体を止めるため、戦い始める。
それを横目に我は詠唱に集中する。
「『我、ジルヴェラ・ドレヴァンはいと尊き彼の方に願う』」
これは大量の魔力を消費するだろうが、それに相応しいだけの魔法である。
「『天を駆け、大地を砕き、海を裂く。それは彼の方の力、彼の方の慈悲、彼の方の罰』」
ルシフェルにとってはあまり喜ばしいものではないとは思うが。
それでも、シルヴィアを完全に殺さず、けれどもあの巨体を止めるにはこれがいい。
上空に大きく魔法式が展開され、我の体が白色に淡く輝く。
……なるほど、天の気配とはこういうものか。
柔らかく、温かく、けれどどこか神々しい光が魔法式から降り注ぐ。
「『気高き天使よ、彼の方の従順なる使徒よ。我が声を聞き給え』」
大量の魔力が減っていくのを感じる。
「『その気高き剣で敵を討ち払え。その気高き心は砕けることはなく、恐れはなく、ただ主のお導きのままに。聖なる天使、聖なる騎士、天界の理を守りし敬虔なる守護者よ』」
顔を上げ、魔力を込める。
「『我が声に応え給え──……聖天騎士召喚!!』」
上空の魔法式が上がり、下がっていくと大きな真っ白な騎士が現れる。
鮮やかでやや癖のある豊かな金髪に、白銀と金の鎧と純白の衣をまとい、その手に金色に輝く剣を持つ。その背中には三対の白い翼が生えており、頭上には金環が浮かんでいた。
……んん?
現れた聖天騎士に首を傾げてしまった。
千年前、聖女が召喚した聖天騎士はこれほど大きくもなかったし、翼も一対だったはずだが。
込めた魔力量で変わるとしても、これほど高位の聖天騎士を召喚するほどの魔力量は消費していないはずなのだが……。
聖天騎士が己の前で捧げるように剣を構える。
「聖天騎士よ、気高き天の守護者よ、哀れな娘に救済を!!」
我の声に応えるように聖天騎士が頷き、ゆっくりと動き出す。
そのしなやかでどこか神秘的な様に思わず我は見入ってしまった。
……天使とは、何と優雅な……。
「オネ、ザマ、オ……ネェ、ザ、マ……ッ!!」
シルヴィアが叫び、こちらに手を伸ばそうとした。
だが、スパンとその腕が金色の剣で断ち切られる。
それから、悲鳴を上げるシルヴィアの胸に深々と剣が突き立てられた。
「ァアアァアアアァッ!!!!」
シルヴィアの叫びと共に、目を開けていられないほどの眩い光が弾け、昼のような明るさが広がった。
しかし、それは一瞬のことで、すぐに光が収まると聖天騎士がこちらに跪き、剣を持たない左手を差し出した。そっと、静かな動作で目の前に置かれたのは傷だらけでボロボロのシルヴィアだった。
「聖天騎士よ、感謝する」
聖天騎士が一つ頷く。
「ジル様!」
ルシフェルが下りてきて、我の横に立った。
そうして、聖天騎士を見上げた。よく聞き取れない不思議な言葉がルシフェルの口から出た。
それに天使の口からも同様の言語が出て、聖天騎士は何故か深々とこちらに頭を下げた。
その後、聖天騎士の姿が光の粒となり、空気に溶けるように消えていく。
「……まったく、余計なお世話というものです」
ルシフェルが不満そうにそう言ったものの、その表情は穏やかなものであった。




