悪魔ルシフェル
* * * * *
ルシフェルは、元は天使であった。
天使の中でも位の高い、上位天使──大天使とも呼ばれる存在──だったが、神の怒りに触れた。
その理由は酷く単純で、けれどもルシフェルにとってはいまだに理解しがたいものだ。
この世に神がおり、神に仕える天使達だけがいた古の時代。
ある日突然、神は天と地を創造し、そこに海や川、陸地を作り、植物を生やし、動物を放った。
美しいその楽園に己や天使に似た模造品を創造した。
神はおっしゃった。
『私を愛するように、人間を愛しなさい。同胞や隣人を慈しむように、人間を慈しみなさい』
ほとんどの天使達はその言葉に従い、人間に祝福を授け、見守り、時には導こうとした。
しかし、ルシフェルはそれができなかった。
『主よ、我らが尊き父よ。私は貴方様がおっしゃるようにはできません』
それを神が望んでいると分かっていても、心から従えない。
ルシフェルの言葉に神は問うた。
『何故、私の言葉に従わぬ?』
『主であり、父である尊き御身は貴方様のみ。私達天使が敬い、尊び、信仰し、仕えるのは貴方様だけ。たとえ貴方様が創造した存在であっても、それは貴方様ではありません。貴方様を思うように愛し、支えることなどできようはずがないのです。それは私にとっては何よりの不敬な振る舞いであるからです』
『それが主の言葉でもか?』
『私を創造したのは貴方様でございます。私は「そうあれ」と生み出された通り、貴方様への信仰心を持って己の心に従っております。私の心にあるのは常に貴方様への崇拝と敬愛なのです』
だが、神はお怒りになられた。
ルシフェルは神が創造した通り、己の信仰心に従っただけなのに。
『その考えを改めるまで、大天使の地位は剥奪とする』
そして、神はルシフェルの三対の翼のうち一対を奪い、黒く染めると冥界に落とした。神と同じ鮮やかな金髪と金目はくすんで茶髪茶目になり、それはまるで人間のような色だった。
こうしてルシフェルは天界から追放され、堕天した悪魔として長い時を冥界で過ごした。
大天使だったルシフェルは悪魔に堕ちても大悪魔となり、あまりに上位の存在故に人間はルシフェルを召喚することができず、常闇の世界で孤独に時間だけが過ぎていった。
それでも、ルシフェルの考えは変わらなかった。
敬愛し、崇拝する神はたった一柱のみ。たとえ神が溺愛しているとしても、模造品を神のように愛し、接することなど不可能だった。ルシフェルの中の信仰心がそれは理解できないと叫ぶ。
そのまま数百年が過ぎた頃、ある日、ルシフェルは召喚魔法陣に包まれた。
誰かがルシフェルを召喚したのだ。
召喚できるほどの強大な存在がいるということにルシフェルは驚いた。
そうして召喚された先にいたのは魔王だった。
血のような赤い髪に漆黒の瞳、雪のように白い肌をした、美しいドラゴンの女性。
魔王はルシフェルに言った。
『我が右腕として、共に魔族を守ってくれないか?』
数百年ぶりの光の中、差し出されたその手の尊さと細さに衝撃を受けた。
気高く、美しく、同胞に慈悲深く──……ルシフェルの心臓がドクリと大きく跳ねた。
その瞬間、ルシフェルは恋に落ち、己を冥界に落とした神に感謝した。
『……契約者、あなたの名は?』
『我が名はヴィエルディエナ。この世界唯一のドラゴンにして、魔族の王である』
『契約、承知した』
神を信仰する気持ちは変わらないが、ルシフェルは『崇拝したいと思える存在』を見つけた。
それからは魔王ヴィエルディエナの右腕として辣腕を振るった。
元より人間に良い印象はなかったため、人間との戦争は願ってもないことである。
戦い、人間というものを知っていくほどにその醜悪さと下劣さを理解し、神が望むようにこれらを『愛し、慈しむ』ことなど不可能だと感じた。愛したいとも思わなかった。
しかし、異界から召喚された聖女は強大な魔力を持ち、魔王ヴィエルディエナに勝った。
聖女は魔王ヴィエルディエナを殺そうとはしなかったが、仲間の騎士が破魔の剣で主君を刺し貫き、二度と魔族として、魔王として復活できぬように呪いをかけてしまう。
それに聖女は嘆き、悲しみ、怒り狂い、魔族側についた。
人間達もこれには慌てふためき、聖女の報復を恐れ、休戦を申し出てきた。
当時は魔族もかなり数が少なく、このまま戦争を継続することは困難だった。
苦渋の決断であったが、人間と休戦協定を結び、戦争は終わった。
それからは人間と魔族との交流が広がっていき、千年の間に人間と魔族は手を取り合い、共存する道を選ぶこととなった。寿命の短い魔族からは戦争の記憶は薄れていった。
だが、長命の魔族達は変わらず人間嫌いのままである。
ただ、魔王ヴィエルディエナの死を無駄にしたくなかった。
ここで魔族が絶滅してしまえば、魔王ヴィエルディエナの記憶すら消えてしまう。
魔王軍幹部だった者達は『六大魔族』として貴族となり、現在は王族と同等の地位と権力を持ち、この大陸の国それぞれにいる。国の統治は人間の王だが、時に相談役として、時に裏から操り、六大魔族は大陸で確固たる立場を得た。
そんな中、ルシフェルだけは契約者を失い、冥界に戻された。
冥界で魔王ヴィエルディエナを探したこともあったが、結局、見つけられなかった。
恐らく、既に転生の輪に入り、最後の審判のために天界に上がってしまったのだろう。
生きとし生けるものは皆、生まれ変わる前、その生の最後に神の前で審判を受ける。どのような人生であったか。どれほどの善行と悪行を成したか。そして、次の生は何かを神がお決めになられる。
もうそこに、ルシフェルが行くことは叶わない。
ただただ地上の様子を眺めるしかなかった千年はつらかった。
いつか、どこかに、また主人が現れるかもしれない。
あの強大な力を有したままなら、また召喚してくれるかもしれない。
……何故、あの時、私は主人を守れなかったのだろう。
目を閉じれば主人の最期の姿を鮮明に思い出せる。
鮮やかな赤髪がそれとは違う赤に染まっていく様を、途切れていく契約の魔力の糸を、何もできずに呆然と見つめることしかできなくて。主人の命の灯火が消えたと同時に常闇に返還された。
人間を滅ぼしたいほど憎いと思った。
憎しみを感じたのは初めてだった。
主人が転生するかもしれないという淡い期待と絶望の中で過ごした千年は、翼を一対取り上げられ、冥界に落とされた時よりも痛く、苦しかった。
そうして千年後。また、召喚魔法陣に包まれた。
懐かしい魔力と魔法陣、再度繋がった契約の糸にどれほどルシフェルが歓喜したか。
千年ぶりに再会した魔王ヴィエルディエナは、魔族ではなく、人間だった。
鮮やかな赤髪は月光のような銀髪に、漆黒の瞳はバラのような赤い瞳に、肌の白さだけは変わらず──……容姿は幼く気の強そうな娘になっていたが、その魂の気高さも、輝きも変わらない。
憎い人間になってしまっていたとしても、ルシフェルにとっては変わらぬ主人であった。
召喚されてすぐに跪き、その手を取って、服従の証に額を押し当てる。
月下のバラのような、凛とした、けれども愛らしい顔立ちとなった主人を見上げる。
千年の時を越え、また、仕えられる喜びを噛み締めた。
「ああ……我が君、私の愛しき主人! 姿が変わろうとも、その美しさや魂の気高さはお変わりなくて嬉しゅうございます……! この日が訪れるのをずっと信じておりました……!」
主人が何とも言えない顔で呟く。
「……ルシフェル、そなた、だいぶ変わったな……?」
千年も経てば、性格一つや二つ、変わることもある。
そんなことよりも、崇拝する魔王が、愛する存在が、目の前にいるという事実に心が震える。
この奇跡を与えてくださった神に心から感謝し、この幸福に自然と笑みが浮かんだ。
* * * * *
「当然でしょう。……千年も経ったのですから」
と、久しぶりに再会を果たした右腕は、大輪の花のような笑顔を浮かべた。
相変わらず美しい容姿を持っているルシフェルだが、温和さを身に付けたのか雰囲気がかなり違っていた。少し驚いたものの、熱のこもった視線からは尊敬と深い愛情が伝わってくる。
ヴィエルディエナだった頃も、ルシフェルは常に敬意と愛情を持って接してくれた。
立ち上がったルシフェルに我も微笑み返す。
「そうだな。千年も時間がかかった上に、我も人間に転生してしまった」
「あの破魔の剣で貫かれた者は、必ず人間に生まれ変わってしまうという呪いがかけられていたのです。……ですが、私がそれを知ったのはずっと後の話でした」
「……そうか、契約者を失ったそなたは冥界に戻されたか」
常闇の冥界に強制的に戻されたルシフェルの気持ちは想像を絶するものだっただろう。
そう思うと、こうしてまたルシフェルと再会できたことは奇跡である。
そっとルシフェルを抱き締めた。
「すまなかった」
他に何と言えば良いのか思い浮かばなかった。
「いいえ! 謝罪すべきは私のほうなのです! あの時、私が主人を庇ってさえいれば……!!」
「あの距離と速度で、そなたが我を庇うのは不可能であった。……我を殺さないという聖女の言葉に慢心していた、我自身の責任だ。そなたにも、他の者達にも非はない」
「っ、慈悲深きお言葉、勿体ないことでございます……!」
震える声で、体で、ルシフェルに抱き締められる。
存在を確かめるように、縋るように、もう離すまいとするかのように力強い腕だ。
痩身のどこにそんな力があるのかと思ってしまうが、昔からルシフェルは強かった。
……あの頃のままであったなら、このようなことはしなかっただろう。
この千年という空白の時間があったからこそ、ルシフェルも我も変わった。
変わらざるを得なかった。
「また召喚に応じてくれたこと、感謝する」
「私こそ、また主人にお仕えできる栄誉を賜りましたこと、これに勝る喜びはございません」
それにふと笑ってしまった。
「ルシフェルよ、今の我はジルヴェラ・ドレヴァンという、人間の伯爵家の令嬢だ。……今後は我のことはジルと呼ぶがいい」
ギュッとルシフェルの腕に力がこもる。
「かしこまりました──……ジル様」
その歓喜の滲む声に、不覚にも我も嬉しいと思ってしまった。
それが我自身の感情なのか、我の中に残るジルヴェラの記憶によるものなのかは分からないが、右腕であり、誰よりも信頼していたルシフェルと再会できたのは喜ばしいことである。
「ジル様、どうか私のことも『フェル』とお呼びください」
「フェル? ルーシーではなく?」
ルシフェルの愛称といえば『ルーシー』が一般的だ。
そう問えば、ルシフェルが笑ったのか小さく体が揺れる。
「意地悪をなさらないでください。一般的な愛称で、私が満足するとお思いですか? ……千年も待ち続けたのです。私だけの特別な愛称くらい、ご褒美としていただいてもよろしいでしょう?」
抱き締め合う体から、互いの体温がゆっくりと伝わっていく。
「甘え上手になったな」
「千年も、ジル様のことばかり考えておりました。これでもあなたと二百年近く共に過ごした仲ですから、どのようにすればジル様が私に振り向いてくださるか想像済みです」
少し身を屈めたルシフェルが耳元で囁く。
「ずっと……出会ったあの瞬間から、あなたをお慕い申し上げております」
あの頃、戦時下では恋愛などしている余裕などなかった。
だが、今は違うということか。
「どうか、あなたに触れる許しをください」
「もう触れているだろう?」
「いいえ、これでは足りません。もっと、ずっと深く、私だけの主人になってほしいのです」
耳元で「いけませんか?」と訊かれて、考える。
「我はもうヴィエルディエナではない」
「では、新たな主人として、愛することをお許しください。もう、伝えないまま離れ離れになるのは嫌です。……あのような後悔はもうしたくない」
仕方なく、我はルシフェルをもう一度抱き締め返す。
「好きにせよ。……ただ、我がそれに応えられるかは分からぬ」
「ありがとうございます……! 今はそれで十分です……! ああ、ジル様……愛しております、我が麗しの君……! 尊きそのお声でもう一度、私の名をお呼びください……!」
「本当に変わったな、フェルよ」
変わったが、それは嫌な変化ではない。
我よりも長生きで、我よりも体が大きいというのに、まるで幼子のように抱き着いてくる。
……人間に生まれ変わったが、魔族への思いは変わらないらしい。
「フェルよ、我は聖属性しか使えぬ身になってしまったが、この『ジルヴェラ・ドレヴァン』という名を、聖属性の本当の強さを、広めようと考えている。それに協力してくれるか?」
ルシフェル──……フェルが体を離すと右手を己の胸に当て、首を垂れた。
「全てはジル様の御心のままに」
これから『ジルヴェラ・ドレヴァン』の名を世に広め、聖属性の力を知らしめるために生きる。
魔王の時は闇属性魔法、最高の使い手だったという自負がある。
今度は聖属性魔法、最高の使い手を目指す。




