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宣教師トビアスの日記  作者: 長谷川
宣教師トビアスの日記Ⅲ
14/19

シャムシール砂王国――地下道

 冷たい水を頭から浴びても、心は晴れなかった。


 暗く重たい罪悪感のようなものが、胸の底に溜まっている。


 自分はとんでもなく悪いことをした。

 何故かそんな思いがまとわりついて離れなかった。


 たかが花を一輪失っただけで、何をそこまで落ち込む必要があるのだ、と自分でも思う。

 しかし心に重く沈んだ喪失感は、簡単には拭えなかった。


 自分はあの花と共に、失ってはいけない何かを失った。そんな気がしてならないのだ。

 ではその〝何か〟とは何なのかと尋ねられると答えに窮するのだが、あの花を失ったことで自分はとてつもなく悪い未来を引き当ててしまったような、そんな気がする。


(この件が解決したらもう一度ロクサーナとペラヒームへ行って、あの花を買ってもらうことはできないだろうか)


 自分の頭よりやや高い位置から漏れる水を浴びながら、トビアスはぼんやりとそんなことを考えた。水中花は確かに高価だが、ペラヒームにさえ足を運べば決して入手不可能なわけではない。


 けれどもトビアスは何故か、この件が解決したあともロクサーナと共に旅する自分の姿を上手く思い描くことができなかった。


 ――やっぱり無理でおじゃったの。寂しげなロクサーナの呟きが脳裏を過ぎる。その呟きがやがて闇に呑まれたように、トビアスが思い描こうとする未来も黒く塗り潰されて見えなくなった。


 やはり自分は、あの花と共に大切な何かを失ってしまったのではないか。

 決して失ってはいけない、何かを。


(いや、たぶんこれは〝失った〟と言うより――)

「――トビー」


 背後から名を呼ばれ、トビアスはふと我に返った。思考の闇に沈んでいた意識が、にわかに現実へ引き戻される。


「ほれ、そもじの分の着替えでおじゃる。あと、体を拭く布も」

「ああ……ありがとうございます――」


 礼を言いながら、トビアスは無意識に後ろを振り向いた。思案の海から浮上したばかりで頭の中がぼんやりとし、何もかも上の空だった。


 その頭がいきなり覚醒し、トビアスは強烈に殴られたような衝撃を覚えた。


 そこには、裸のロクサーナがいた。


 何故忘れていたのだろう。体にこびりついた死臭を落とすため水浴びしていた今、トビアスさえも素裸で、だからこそ自分と彼女は互いに背を向け合っていたというのに。


「ぎっ――ぎゃああああああああああ!」


 気づいたときには我も忘れて絶叫していた。

 次の瞬間、すかさず振りかぶったロクサーナに、顔面目がけて服と亜麻布を投げつけられた。


「このうつけ者! 人の裸を見て悲鳴を上げるとは何事け!」

「あ、ああ、だって、だって……!」


 完全に不意討ちだったんです、心の準備も何もなかったんです、と震える声で言い訳しながら、トビアスは顔を覆ってその場にしゃがみ込んだ。

 そもそも男ばかりの修道院で育ったトビアスにとって、異性の裸を目の当たりにするなど世界の滅びにも匹敵する最悪事だ。こんなときどうすれば良いのかということまで、マイヤー司祭は教えてくれなかった。


 幸いなのは、ロクサーナが長く垂れた布で前を隠してくれていたことだろうか。

 しかし青白い夜光石の明かりで浮かび上がったロクサーナの肌は白く、わずかな女性らしさを宿した肢体はなめらかで、トビアスは目に焼きついてしまったそれを忘れるためなら岩に頭を叩きつけてもいい、とまで思った。


 だが当のロクサーナは裸を見られたことよりも、むしろトビアスの反応に怒っているようだ。

 確かに男が女の裸を見て悲鳴を上げるというのは、何か間違っていたかもしれない。


「あ、あの、ロクサーナ……本当にすみませんでした」

「もう良い。そもじがわーの裸形に何も感じんかったということはよう分かった」

「か、感じてほしかったんですか?」


 着替えをすべて済ませたあとにそう尋ねたら、思いきり平手を張られた。

 今のは確かに自分が悪かったと思う。


「おい、何かあったのか? さっきえらい悲鳴が聞こえたんだが」


 ほどなく塞がれていた小部屋への入り口が開き、中から荷を背負ったジャックとエルマが現れた。

 その手には松明が握られており、夜光石の薄ぼんやりとした光しかなかった洞窟が一気に明るくなる。


「別に何でもにゃー。トビーがわーの裸を見て悲鳴を上げただけじゃき」

「は? それって普通逆じゃない? 何で男の方が悲鳴を上げるの?」

「修道士は女に縁がないからな。よっぽど興奮したんだろ」

「ジャック!! 適当なことを言わないで下さい!!」

「はいはい、分かったからいちいち大声出すなって」


 めんどくさそうに手を振ってトビアスをあしらい、ジャックは背後に向けて顎をしゃくった。それを見たエルマが頷き、小部屋への入り口に右手を翳して塞いでしまう。


「それじゃ、全員準備もできたようだし出発するぞ。ここから一刻くらい歩いたところに、東の涸れ井戸に出る道がある。砂を被って捨てられた旧市街の中の井戸だ。そこから地上へ出て、更に東のオアシスへ向かう」

「で、ですがオアシスへ行って、それからどうするんですか?」

「シェイタンにはエルマとブルーノ以外にも仲間がいる。上に残ったブルーノが今頃そいつらと連絡を取り合ってるはずだ。オアシスではそいつらと合流して砂王国を出る。連中は運び屋だから馬車があるし、上にも物資の蓄えはあるから心配ない」


 さもそれが当然であるかのように、ジャックは淡々と今後の計画を語ってみせた。しかしトビアスは、砂王国脱出のために練られた彼らの作戦の周到さに内心舌を巻いてしまう。


 ジャックたちの行動はまるで初めからこうなることを見越した上で、完璧に準備されていたもののように思えた。

 洞窟内の道は分かるのかと問えば地図があると言うし、その地図一つを作るにしても、かなりの歳月と労力を要したはずだ。


 それを事もなげにやってみせる彼らは一体何者なのだろう。歩き出したジャックのあとに続きながら、トビアスはそう勘繰らずにはいられなかった。


 ロクサーナは既に察しがついているようだが、トビアスに分かるのはどうやらジャックはただの冒険商人ではないらしいということだけだ。

 おまけにシェイタンで再会してから、ジャックはどうもトビアスの知る彼とは態度も雰囲気も違う気がする。


「……ん?」


 と、ときにトビアスは、右手に温かな感触を覚えて推理を中断した。


 見れば隣に並んだロクサーナが、ちゃっかりとトビアスの手を握っている。しかし視線は前を見て、少しも悪びれた様子がない。


「……ロクサーナ?」

「うん?」

「いえ、あの……手が……」

「ああ、何ぞ問題でもあるのきゃえ?」

「い、いや、問題はないですけど……どうかしました?」

「どうもこうもにゃー。わーは暗いのが苦手と言ったろうもん。怖いんじゃ。こうせんと落ち着かんのじゃ。何ぞ文句があるのきゃえ」

「いっ、いえっ、滅相もございません!」


 すごむように言われ、トビアスは慌てて首を振った。しかしジャックは前を歩いているからいいとして、後ろについているエルマの視線があると思うと少々恥ずかしい。


 おかげでトビアスまで落ち着かなくなり、自然、互いに言葉少なになった。

 ジャックやエルマが何か話してくれればいいのだがその気配もない。そうなるとトビアスも、無駄口を叩くのは何となく憚られるような気分になった。


 仕方なく話す代わりに右手へ力を込めてみると、ロクサーナもぎゅっと握り返してくる。


 図らずも胸が熱くなった。

 この手を放したくない、と思う。


 地下洞窟の壁や天井には、夜光石の光が途切れることがなかった。どこまで行っても点々と岩の中に大小の光が埋もれているのが見える。


 よく見れば光は四人の足元にもあった。水の底に夜光石が沈んでいる。

 幻想的な景色だった。この辺りの水は浅いが、場所によっては腰までの深さがあったり、泳いだりしなければならない地底湖があったりするらしい。


「上はあんなに乾いた砂漠なのに、地下はこんなに水資源が豊富なんですね……」

「まあな。何でもラムルバハル砂漠は、≪神世期≫には緑豊かな森林地帯だったって話だ。それが世に有名な神界戦争のどさくさで砂漠になっちまったとか。ま、その辺のことは、現役聖職者様の方がお詳しいんじゃねえか?」

「ええ。≪神々の眠り(エル・エレヴ)≫においてシェメッシュ神が振るわれたという≪太陽の槌≫の伝説なら知っています。それによって大地が蒸発し、やがて灰が砂となって砂漠ができたとか」

「神話なんてどこまで本当なのか知らねえが、砂漠の下にこんな場所があるのかと思うと、あながち作り話とも言い切れねえよな。そもそも大神刻(グランド・エンブレム)なんてもんがある時点で――」


 と、そこで不意にジャックが言葉を切り、足を止めた。

 何事かとトビアスが声をかけようとすると、ジャックもそれを察したらしく、手を挙げて発言を制してくる。


「おい、エルマ。こいつはどういうことだ」

「どうしたの?」

狐人フォクシーの毛皮がない」


 前を向いたままのジャックの声が、未だかつてないほど緊張しているのが分かった。それを聞いたエルマが目を見張り、狼狽した様子で駆けていく。


 そこはトビアスたちが歩いてきた道の突き当たり、新たに左右へ伸びる道が現れた曲がり角だった。

 ジャックとエルマはその角の辺りを入念に松明で照らし、何かを探しているように見える。


「そ、そんな……二ヶ月前に新しい毛皮をかけに来たときは、確かにここに……」

「だがどこにも見当たらねえぞ。あれがなきゃこの先は……」

「もしかしたら……偶然ここに迷い込んだ誰かが見つけて持っていったのかも。さっき話したでしょう? 先月にも一度、奴隷たちが自力で城から逃げ出して騒ぎになってたって」

「おいおい、冗談じゃねえぞ。今からアジトに取りに戻ったんじゃ間に合わねえ。そもそもあれはあとから逃げる仲間のためのもんだし、ここで使えば次はいつ手に入るか……」


 トビアスたちを待たせてやや先へ行った二人は、何やら揉めている様子だった。


 ジャックが先程口にした〝狐人フォクシー〟というのは、狐の頭に人間の体を持った獣人のことだ。

 彼らは商人としての才覚を持ち、他の獣人と比べてよく人と交わるが、同時に悪戯好きでしょっちゅう人を化かすので人間界では嫌われてもいる。


「何ぞ問題が発生したようでおじゃるの」

「ええ。だけど狐人フォクシーの毛皮だなんて、一体何に……」


 と、言いかけたときだった。トビアスは視界の端に何か色鮮やかなものが映り込んだような気がして、ふとそちらを振り返る。


 あっと思わず声が漏れた。

 花だ。左にある岩壁から突き出した夜光石の結晶、その光に寄り添うようにして、一輪の小さな花が咲いている。


「ロクサーナ、こんなところに花が」


 少し先でジャックとエルマが口論しているのも忘れ、トビアスはその花に魅入られたようにロクサーナの手を引いた。

 根元に二枚の葉を開き、長い茎を垂れた花の色は、夜光石の光の中だと紫がかった赤に見える。


「ああ、地底花でおじゃるの」

「地底花? 日の光も届かないのに、こんなところで花が咲くんですか?」

「これは夜光石の光の中だけで咲く花でおじゃる。太陽の光は強すぎて当たるとすぐに枯れてしまう。闇の中でしか生きられん変わった花じゃ。またの名を≪神鳥ネスの涙≫とも言う」

「え?」


 トビアスは耳を疑い、ロクサーナを振り返った。

 一方のロクサーナは、岩と夜光石の間から精一杯茎を伸ばしたその花を見て、まったくの無感動に言う。


「その名前ならそもじも知っておるじゃろ。あらゆる傷も病もその一滴で癒すと言われる天界の鳥ネスの涙。これはその涙を宿すと言われる花でおじゃる」

「ま、まさか、『ある不幸な青年の物語』に出てくるティクバの病を癒したあの花ですか?」

「うん。まあ、≪神鳥ネスの涙≫というのはあくまで誇張で、本物ほど強い力は持たんのじゃがの。それでもこの花の蜜に病を癒す力があるのは本当じゃき。わーも遠い昔に枯れ果てたと聞いとったけんじょ、こんなところでまだ咲いておったんじゃな」


 あくまで普段どおりの口調を崩さないロクサーナとは裏腹に、トビアスは感激で手が震えていた。


 ≪神鳥ネスの涙≫。光神オールの神話に登場する花。

 その花は確かに≪神世期≫には存在したが、≪暗黒期≫に世界に満ちた瘴気で枯れ、絶滅したと書物には書かれてあった。


 その伝説の花が今、自分の目の前にある。神話の時代、神々と共に生きた青年ティクバはこの花の蜜を吸ったのか。


 何と美しい花なのだろう。夜光石の光に照らされたその花には水中花とはまた違った儚さがあり、トビアスに何か語りかけてくるようでもある。


「あ……ああ、どうしよう、スケッチしたい……!」

「気持ちは分かるけんじょ、今回は諦めるんじゃな。向こうも話がついたようでおじゃる」


 そう言ってロクサーナが見やった先では、エルマと話し込んでいたジャックが諦めたように頭を掻いていた。

 そうしてこちらへ向き直り、道の先から声をかけてくる。


「おいお前ら、そんなところで何やってる。こうなったら仕方ねえ、先に進むぞ」

「すまんの。トビーが地底花を見つけて感激に震えているのでおじゃる」

「地底花? ああ、≪神鳥ネスの涙≫か……こんなときに何を悠長な……」

「まったくじゃ。ほれトビー、行くぞえ。スケッチならあとで記憶を頼りに描きんしゃい」

「ま、待って下さい! それならせめて一輪だけ、小瓶に採取させて下さい。この花なら水中花と違って押し花にもできる。これを修道院に持って帰れば……!」

「――!? おい馬鹿、やめろ! その花は――!」


 ジャックの制止を待たず、トビアスは急いで地底花を根元から引き抜いた。


 瞬間、洞窟にすさまじい悲鳴が響き、トビアスは驚愕のあまり飛び上がる。


 耳を劈くほどの悲鳴は、女のそれに似ていた。

 しかし声を上げたのはロクサーナではない。エルマでもない。


「い、今のは……」

「――この馬鹿! 何てことをしてくれやがったんだ!」


 突然の出来事に茫然自失したトビアスへ、ジャックが渾身の怒声を投げつけてきた。


 直後、ジャックとエルマはほぼ同時に松明を足元の水へ投げ込み、たちまちその火を消してしまう。


「じゃ、ジャック、すみません、一体何が……」

「地底花は手折ると裂帛の叫びを上げるんだよ! ここじゃそれが〝やつら〟を呼び寄せるんだ! くそっ、とにかく逃げるぞ!」


 一体彼が何を言っているのかさっぱり分からない。ただ、とにかく自分が何かとんでもない失敗をしでかしたのだということだけは分かった。

 ジャックの焦り方から見て只事ではない。言われるがまま、トビアスはロクサーナと共に駆け出した。


 真っ先に逃げ出したジャックとエルマは、突き当たりを左へ曲がる。二人が松明を消してしまったので、あの明るさに慣れた目に夜光石の光だけの洞窟は暗すぎた。


 気を抜くとすぐに二人を見失いそうで恐ろしく、トビアスは必死で走る。ロクサーナと手を繋いだままでいるのはひどく走りにくかったが、放す気にはなれなかった。


 何か恐ろしいものが迫っている。それだけはトビアスにも分かった。それを呼んでしまったのが自分なのだということも。

 辺りを包む闇が余計にその恐怖を増大させる。二人は何故松明を消したのか。訴えたかったが、その理由も何となく分かった。あれを持っていると居場所がバレるからだ。――〝何〟に?


「――シャァァアア!」


 突然、前方から異形の声が聞こえた。それは蛇が威嚇する音にも似ていた。

 直後に足を止めたジャックとエルマが、短い悲鳴を上げてあとずさってくる。


 二人の行く手に、何かいた。

 巨大な影。鉄を引きずる音。

 〝牙〟の隙間から息の抜けるような音。


「ちくしょう、見つかった……!」


 ――竜人ドラゴニアン

 青白い闇の中から現れたその影の主に、トビアスは愕然と立ち尽くした。


 優に四十葉(2メートル)はあろうかという巨躯に、全身を覆う黒い鱗。頭頂から背中にかけて馬のように生えた鬣。長い首。地面をのたうつ尾。唯一鱗のない腹を守るように着込まれた鎧。鋭利な爪を生やした三本の指と、その手に握られた巨大な剣。


 トビアスが過去に書物で見たのと寸分違わぬ獣人が、そこにはいた。

 それも一人や二人ではない。まったく同じ造りの大竜刀を引っ提げた竜人ドラゴニアンがぞろぞろと、舌なめずりをしてトビアスたちの行く手を遮っている。


「エヴァルス・ア・オスラ?」

「オン、トネレッフィド・エボト・スミィス」


 独特の巻き舌と長く息を抜くような発音。〝竜語〟と呼ばれる竜人ドラゴニアン独自の言語だった。


 何を話しているのかはトビアスには分からない。竜人ドラゴニアンの中には人間の言葉を解する者もいると言うが、この者たちがどうなのかは見当もつかない。


「ど、どうしてこんなところに竜人ドラゴニアンが……」

「この洞窟は死の谷の地下道と繋がってる。ここはやつらの庭みてえなもんだ」

「そ、そんな危険な道を通ろうとしてたんですか!?」

「俺たちは砂王の手下に顔が割れてんだ、しょうがねえだろ」


 今にも舌打ちをしそうな語調でジャックが言った。

 そう言えば、昔トビアスが読んだ書物にはこう書かれていたような気がする。竜人ドラゴニアン狐人フォクシーの強烈な体臭を嫌うと。


 だからジャックたちは毛皮のことで騒いでいたのかと、トビアスはそのときになって納得した。恐らくはアジトへ続くあの道に竜人ドラゴニアンが近づかぬよう、角に狐人フォクシーの毛皮を吊っていたのだろう。


「どうするの、ロベルト?」

「どうするもこうするも、このままじゃこいつらに頭から食われておしまいだぜ。――おいトビアス、お前、さっき光刻(グリーム・エンブレム)を使ってたな?」

「えっ? え、ええ、ですが私は――」


 それほど光刻(グリーム・エンブレム)を使いこなせるわけではない、と慌てて弁解しようとしたときだった。何やら話のまとまったらしい竜人ドラゴニアンたちが雄叫びを上げ、狂喜したように肉薄してくる。


「くそっ! 何でもいい、とにかく最大出力で辺りを照らせ! やつらの目を眩ませろ!」


 腰の剣を抜き、ジャックが叫んだ。そのくらいなら自分にもできると確信し、トビアスは即座に手を翳す。


 ――光を! 胸中で叫ぶように念じた刹那、光刻(グリーム・エンブレム)が淡い光を帯び、その光が閃光に変わった。噴き出した光は瞬く間に辺りを呑み込み、世界を白に染め上げる。


 竜人ドラゴニアンの悲鳴。やった。不意討ちは成功した。

 だがここからどうする。思った瞬間、光の中でジャックが踏み出した。まさか。トビアスが戦慄したのと同時に血飛沫が上がる。鎧のわずかな隙間を突き、ジャックの剣が竜人ドラゴニアンの胸を貫いている。


「ジャアアアアアアッ!」


 異様な悲鳴が上がった。怖気が走るような声だった。

 ジャックが先頭にいた竜人ドラゴニアンに斬りかかると同時に、エルマも踏み込んだようだ。真下から剣で上顎を貫かれ、絶叫した竜人ドラゴニアンが倒れた。しかしそれが後続の竜人ドラゴニアンの怒りを買ったようだ。


「ジャック、エルマ!」

「トビアス、お前も神刻エンブレムを持ってるなら戦え!」

「む、無理です! 私はほんの少ししか神術が使えませんし、そもそも我が修道会の会則では殺生が禁じられています!」

「今はんなこと言ってる場合か! だいたい修道士ったって、身を守るための戦いなら許されるって東方金神会の司祭が礼拝で言ってたぞ!」

「れ、礼拝に出席するなんて意外と信仰熱心なんですね! だけどそれは金神系教会だから許されることであって、光神系教会は殺生即破門です!」

「だーっ、くそっ! これだから修道士は!」


 心底忌々しげに叫びながら、ジャックが素早く後ろへ跳んだ。直後、それまでジャックの頭があった位置へ真横から刃が飛んでくる。


 標的を失った刃は空を斬り、そのまま路傍の岩へ当たった。瞬間、斬り飛ばされた岩の一部が宙を舞い、岩壁にぶつかって転がり落ちる。唖然とするほど鮮やかな斬れ味だ。


 これならば人間の鎧など呆気なく両断されるという評もあながち誇張ではないだろう。

 あんなものを一撃でももらえば即死するのは目に見えている。正面から挑んでどうにかなる相手ではない。


「ジャック、ここを突破するなんて無理です! 一旦引きましょう!」

「馬鹿、それでも押し通らなきゃ定刻に間に合わねえんだよ! ――エルマ! お前は一旦下がってデカい神術を見舞え! その間俺が時間を稼ぐ!」

「無茶よ! あなた一人でどうにかなる相手じゃない!」

「二人ならどうにかなるってわけでもねえだろ! いいからやれ!」


 突き放すように言い、ジャックがエルマを後ろへと押しやった。唐突に突き飛ばされ、よろけたエルマをロクサーナがとっさに支える。


「ロベルト!」


 三人、いや、四人。

 竜人ドラゴニアン一人で人間の兵士五十人を相手にするというロクサーナの話が事実なら、ジャックは目下二百人の兵士にたった一人で立ち向かっているという状況だった。


 それは蛮勇とか無謀とかいう表現を超えて、どうかしているとしか思えない。

 何が彼にそこまでさせるのか。これが本当に、あのおちゃらけた冒険商人なのか。


「トビー!」


 呼び止めるロクサーナの声が聞こえた。しかしその声はトビアスの意識に届かなかった。


 一人で立ちはだかったジャックへ向けて竜人ドラゴニアンたちが次々と斬撃を見舞う。


 ジャックはそれを躱すだけで精一杯に見えた。下手に剣で受けようものなら、受けた端から叩き折られるのは目に見えている。

 だから躱して時間を稼ごうというわけか。しかし竜人ドラゴニアンたちも、斬りかかるだけが能ではない。


「ぐっ……!?」


 ジャックに迫った竜人ドラゴニアンの一人が、突然振りかぶった刀を地面へと叩きつけた。その一撃は線を描くように足元の岩を抉り、砕けた岩と水の飛沫がジャックへと襲いかかる。


 完全に不意を衝かれたジャックは、その礫を凌ごうととっさに腕で顔を覆った。


 その反応が、命取りだ。

 一瞬の隙を晒したジャックへ向けて、飛び出した竜人ドラゴニアンがここぞとばかりに刀を上げる。


「ジャック!」


 ロクサーナが、初めてまともにジャックを呼んだ。何だちゃんと呼べるんじゃないか、などという驚きは頭の片隅へ捩伏せる。


「光神オールよ、我に力を!」


 トビアスの神刻が、再び瞬いた。ジャックの目の前に何ものも通さぬ光の壁が生まれ、振り下ろされた刀を弾き飛ばす。


 大重量の刀を跳ね上げられた竜人ドラゴニアンはその重さに引っ張られ、背後へとひっくり返った。

 それを目撃したジャックが驚いたようにトビアスを振り向いてくる。


「おいトビー、自分で戦うのは禁忌タブーでも、殺生に手を貸すのはいいのか?」

「そんなこと言ってる場合かと言ったのはあなたでしょう! これだって、そう長くは持た、な……っ!」


 言っている間に、邪魔な障壁を見て猛り狂った竜人ドラゴニアンが、その壁を叩き壊そうと大竜刀を振るい始めた。三、四人の竜人ドラゴニアンが代わる代わる、寄ってたかって障壁を殴りつけてくるので、その衝撃がトビアスにも直に伝わってくる。


 元が神術の素質に乏しいトビアスのこと、そこまで激しい攻撃を受けては支えきれるわけもなかった。

 トビアスは必死に障壁へ手を翳し、何とか守りの術を維持しようとしたが、息を詰め力の限りを尽くしても持ち堪えられそうにない。


「くっ……! こ……これ以上、は……!」

「――上出来よ。ロベルト、下がって!」


 不意にエルマの声が聞こえた。そう思ったと同時にふっつりとトビアスの力が切れる。


 生まれて初めて限界まで行使した神の力に、頭が朦朧とするのを感じた。

 トビアスにはもう神術を使う力は残されていない。それが途切れると共に、意識が遠のきそうになる。


「トビー、来い!」


 そんなトビアスの右腕をジャックが瞬時に引っ張った。そうして体を壁に押しつけられた刹那、トビアスの眼前をすさまじい勢いで大地の牙が駆け抜けていく。


 地鳴りと共に隆起した岩が、前方を塞いでいたすべての竜人ドラゴニアンを弾き飛ばした。

 更にエルマが岩壁へ手をつけば、重い震動と共に天井が崩れ、砕けた岩が竜人ドラゴニアンの上へと降り注ぐ。


「今だ、行くぞ!」


 朦朧としたトビアスはその展開を目で追うだけで精一杯だったが、すぐにジャックが号令を上げて駆け出した。トビアスの右腕は依然ジャックに掴まれたままで、ガクンと体が引っ張られると足も勝手に走り出す。


 四人は岩に埋もれた竜人ドラゴニアンの上を踏み越え、奥へ向かってひた駆けた。

 トビアスも走るうちに少しずつ力を取り戻し、ようやく自分の意思で足を動かせるようになる。


「ジャック……竜人ドラゴニアンは倒せたんですか?」

「いや、やつらはエルマの神術でひっくり返っただけだ、またすぐに追ってくる。その前に脱出するぞ!」


 トビアスが自力で走れるようになったことを察したのか、ジャックはようやく掴んでいた腕を放した。それから四人は走れるだけ走って、暗い洞窟の中を右へ左へと駆け抜ける。


 突然目の前が明るくなったのは、もうこれ以上は走れない、とトビアスが音を上げそうになったときだった。

 左へ折れる角を曲がった瞬間、いきなり頭上から叩きつけてきた光がある。――太陽だ。仰ぎ見た先に、ぽっかりと丸く切り取られた空が見える。


「ここが涸れ井戸きゃえ?」

「そうだ。どうにか間に合ったな」

「で、ですが、梯子も縄も見当たりませんよ? こんなところ、どうやって……」

「こうすればいいのよ」


 大きく息をしたエルマが、再び岩壁に手をついた。地刻グラウンド・エンブレムが輝き、褐色の岩がそれに呼応したように動き出す。


 壁から次々と突き出した岩が、井戸の内側に見事な螺旋階段を作った。トビアスはその奇跡としか言えない光景を茫然と仰視する。


「よし、行くぞ」


 その階段が半ばまで完成したところで、ジャックが先陣を切って駆け出した。ロクサーナがすぐさまそれに続き、トビアスも慌ててあとを追う。


 四人が階段を駆け上がる間に、新たな足場が続々と姿を現した。

 やがてジャックが跳躍して涸れ井戸の縁に右手をかけ、自力で地上に這い上がる。続いてロクサーナが手を伸ばし、それを掴んだジャックが軽々と彼女の体を引き上げる。


「――ティッシム・トンイア!」


 そのとき、咆吼が聞こえた。同時にエルマの悲鳴も聞こえた。


 何かが階段を転げ落ちる音。

 驚いたトビアスが振り向けば、直前までそこにいたはずのエルマの姿が、ない。


「エルマ!」


 トビアスとジャックの声が揃った。エルマは階段から足を踏み外し、何とかその端にぶら下がっている状態だった。右足に短刀が刺さっている。


 ――竜人ドラゴニアン。追いついてきた。

 そのうちの一人がエルマを狙って短刀を投げつけたのだ。命中に狂喜した異形の者たちが、早速エルマを引きずり下ろそうと群がってくる。


「エルマ! 手を――」

「――来ないで!」


 とっさに駆け戻ろうとしたトビアスを、エルマの鋭い声が制した。その指示に面食らいトビアスが硬直した刹那、エルマは肩に負っていた荷を素早く投げつけてくる。


 その荷をまんまと顔面で受け止め、トビアスは腰を抜かした。

 危うく転がり落ちそうになった荷をすんでのところで抱き止める。


 その一部始終を見届けたエルマが、笑った。


「行くのよ。あなたは大事な証人なんだから」

「エルマ!」

「ロベルト、ブルーノに伝えて。――〝愛してる〟って」


 トビアスも彼女の名を呼ぼうとした。瞬間、エルマの右手から土色の光が迸った。


 麓の方から階段が崩れ始める。彼女がやったのだ。竜人ドラゴニアンがトビアスたちを追って地上へ出られないように。


「駄目です、エルマ!」


 駆け戻ろうとした。見殺しにできるはずがなかった。

 そのとき、エルマが掴んでいた岩が崩れた。

 彼女の体は背中から宙に投げ出されていく。


「エルマ――!」


 腕を伸ばした。掴もうとした。そのトビアスの体を、後ろからジャックが引っ張り上げた。


 足場が崩れる。もう戻れない。エルマの名を叫んだトビアスを、ジャックとロクサーナが引きずり上げる。


 空が見えた。


 忌々しいほどに晴れ渡った空を、トビアスは仰向けに倒れて眺めていた。


 足の方から異形の者たちの歓声が聞こえる。喉を鳴らすような吼え声だ。

 その声の何と禍々しいことか。トビアスはのろのろと体を起こした。


 肉を毟る生々しい音が聞こえる。トビアスはそれにつられるように、井戸の中を覗こうとした。


「――見るな」


 後ろから腕で目を塞がれ、呆気なく引き戻される。声で、すぐにジャックだと分かった。


「行くぞ。ブルーノたちはもう街を出た頃だ。俺たちもあとを追わねえと、置いてかれる」

「私のせいです」


 憑かれたようにトビアスは言った。

 砂の上に力なく座り込んだトビアスを、ジャックが一瞥した気配がある。


「私があそこで地底花に手を出したりしなければ、彼女はきっと死なずに済んだのに」

「そう思うなら、その花、死んでも枯らすなよ。そいつはエルマの命と引き替えに手に入れたもんだ。大事に押し花にでもして、一生持ってろ」


 冷静な口調でジャックは言った。

 一生、という言葉がやけに重かった。


 そのときジャックが〝そいつ〟と言って指差したのは、トビアスがいつの間にか腰の物入れに突っ込んでいたらしい地底花だ。


「ぐずぐずするな。あいつらに置いていかれたら、俺たちは砂漠で干からびるしかねえ」

「……エルマは、ブルーノの恋人だったんですか」

「ああ。エルマが死んだなんて知れたら、お前、あいつに殴り倒されるぜ。だから今のうちに祈っとけ。エルマの魂が無事天に召されて、神鳥ネスの慈翼に抱かれますようにってな」


 トビアスが落としたエルマの荷を拾い上げ、ジャックが歩き出す気配があった。

 少し遅れてそのあとに続いた足音は、ロクサーナのものだろうか。


 トビアスは目を閉じ、顔を伏せ、胸元に≪六枝の燭台(メノラー)≫を切った。


 涙と共に、彼女の冥福を神に祈った。


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