第7話 春のうららの葦原神社
時は過ぎて、季節は四月。その日は春うららというべき、穏やかな陽の光が葦原神社に差し込んでいた。
冬の日に夫が言った通り、住居の庭には従者たちの手で植えられ、丁寧に世話をされた花々が目を楽しませ、かすかに甘い香りが漂う。
庭の一角には桜国を象徴する桜の木も植えられており、外見の問題で外に出かけることが難しい葦原夫婦は、縁側に座りながら、ともに花を愛でつつ茶を飲んでいた。
「本当に綺麗ですね、ミコト様」
「コノハさんに喜んでもらえれば、眷属たちの努力も報われるでしょう」
花の蜜を吸い、可憐に舞い踊る蝶を眺めながら控えめに笑う妻を、ミコトもほほえましく見つめている。
そこへ、「旦那様ー!」と、子どもの姿をした従僕が駆け寄ってきた。
「旦那様、奥様! 見て見て、こんなにお花のお供え物が!」
「おや、そういえばそろそろ鎮花祭の頃合いでしたか」
大量の花束を見て、ミコトが首をかしげるように覗き込み、花の香を嗅いでいる。
「鎮花祭……? ごめんなさい、私、神社の祭事にはうといもので……」
神様のお嫁さんになったのなら、神社についても学習しなければならないのだが、夫も従者たちも「あなたはまず休養が必要」となかなか教えてくれなかった。
これまで虐げられてきた過去を考えても、未だに「ごめんなさい」という口癖が抜けていないことを考慮しても、彼女が勉強どころではないのは明白である。
ミコトは眷属から受け取った花束を抱えながら、狐面をつけた顔をコノハに向けた。
「春風に乗ってやってくる疫病神がもたらすという疫病や災厄を鎮めるために、花を供える。そういった行事があるのです。まあ、春祭りの一環ですね」
「祭り……えっ、あの、ミコト様はここでお茶を飲んでいてよろしいのですか?」
彼は曲がりなりにも立派な神様である。
春祭りがあるというのなら、主役である夫が神社の祭事を行わないのはおかしい。
しかし、ミコトはあっけらかんとしていた。
「縁切りの神様なんて、こんなめでたい行事にはお呼びじゃないですよ。いや、疫病神との縁を切ってくれというのなら、それには応じますが。私がいてもいなくても基本的には変わりません。そもそもこの神社、普段からめったに参拝客も来ませんからね」
自分なんてどうでもいいとでも言いたげなその態度に、令嬢は戸惑う。
これまで、彼がそんな投げやりな言動を見せることはなかったからだ。
「あの……余計なお世話だったらごめんなさい。でも、あなた様はちゃんと誰かに必要とされる神様だと思います」
夫はキョトンとしたように首をかしげた。
それから、口が柔らかく弧を描く。口の動きを見ただけで、狐面の奥の目も細められているのだろうと感じられる。
「ありがとうございます、コノハさん。ですが、それはあなたも同様ですよ」
「いえ、私なんて誰も……」
「おや、目の前にいる私をないがしろにするのですか?」
シュンとするように肩を落とすミコトに、「ご、ごめんなさい、そんなつもりは……!」と慌てる彼女だったが、彼は「冗談ですよ」と姿勢を正し、いたずらっぽく笑った。
「私はあなたを必要としていますし、あなたも私を必要だと思ってくださる。人間というのは、そうやってお互いに頼り合いながら生きていくものではないですかね」
まあ、私は人間ではないですが。
そういって、神様は飄々としている。
「コノハさん、あなたは人間の中でも特別な存在ですよ。なにしろ、神様に見初められた女性ですからね」
「いえ、それは流石に褒め過ぎだと思います。人間はみんな、それぞれ特別なところがあります。私を除いて……」
「ふふ、あなたの卑屈っぷりはなかなか頑固なようだ」
ミコトはあきれるよりも、むしろ面白そうに肩をクツクツと震わせていた。
「まあいいでしょう。こちらはコノハさんの部屋に飾らせておきますね」
子どもの眷属に再び花束を渡すと、「すぐに奥様のお部屋に活ける花瓶を探しに行ってきます!」と駆け出していく。
それを見送ってから、狐面が妻のほうを向いた。
「お供え物なんて、気の利いた贈り物でなくて申し訳ない」
「いえ……嬉しいです、とても」
彼女は十歳で火傷を負ってからは、久しく物を贈られたことなどない。
自分からサクヤに贈り物をしたことはあったが、「お姉様のくださるものってセンスが独特なのよね」と笑いながら床に叩きつけられ踏みにじられるのがオチだった。
それ以来、誰かに物を贈ったことはない。どんなに愛情を込めて選んだものでも、受け取ってもらえず拒絶されたものがかわいそうだ。自分が選んでしまったばかりに、粗末にされる物たち。思い出しただけで、ずくりと胸が痛む。
しかし、今にして思えば、自分は家族に媚を売ろうとしていたのかもしれない、という気がするのも事実だ。そのような不純な気持ちのこもった贈り物など、喜んでもらえなくて当たり前だろうとコノハは考えている。それがミコトの言う「卑屈」なのだということにはまだ気づいていない。
夫はそんな妻の気持ちを察しているのかいないのか、「コノハさん、お花見の続きに戻りましょう」と縁側に腰掛けて、またお茶とお菓子を手に取り始めた。彼女にとっては、自分の気持ちを詮索されないのはありがたいと思っている。心を読まれて変に気を使われるのは余計に自分がみじめになってしまう。それも込みで気を使われているのかもしれないが、そこまで深読みすると堂々巡りになってしまうので考えないことにした。
コノハはお茶とお菓子の入った盆を挟んで旦那様の隣に座り、さらさらと風に乗って散っていく桜の花びらをぼうっと眺めている。
お茶を片手に、もう片方の手でお菓子を取ろうとして――ミコトの手と重なった。
「あ、ごめんなさ、」
反射で謝って引っ込めようとした手を、逆に夫に絡め取られ、痛くない程度の力でそっと握られる。
慈しむように、まだ治りきっていないあかぎれの痕が残った手をなでられ、コノハは泣き出したくなる衝動を抑えていた。
そうだ、彼女はいつだって、気を抜けばすぐに涙がこぼれそうになる己を必死で我慢している。
真実をありのまま口にするなら、家のことを恨んでいないわけではない。大事な顔をめちゃくちゃにされ、手酷い扱いをされて恨まないわけがない。ただ、それを口には出さない、表には出さないだけだ。自分の心はちっとも綺麗なんかじゃない。
だから、彼には本当に感謝している。あの現実に存在する地獄から助け出してくれた。救い上げてくれた。それだけでこの旦那様をお慕いする理由としては充分だ。
そのとき、コノハの頭に、「この人に恩返しがしたい」という考えが浮かんだ。
そうだ、なにかこの人のためにできることをしよう。そのくらいは許されてもいいはずだ。
こうして、彼女の「ミコト様へ恩返し作戦」が始まったのである。




