幕間1・一方その頃、高天原家
――葦原家で穏やかな蜜月を送っているコノハだが、一方その頃。
高天原家にも朝日は平等に昇る。たとえ彼らがどのような悪逆を成したとしても。
ポポ、と鳴きながら、屋敷の窓が見渡せる木の枝に、灰色の鳩が止まった。
つぶらな瞳は、書斎を見つめている。
「フフン、あの縁切りの神様とやら、怪しい奴だと思っていたが、きちんと仕事を果たしてくれたらしい」
コノハとサクヤの父――高天原家の当主は、新聞を読みながらニマニマと笑っていた。
一面の見出しには、『■■製薬、倒産』の文字が大きく印刷されている。
この製薬会社は高天原製薬との取引先のひとつだったが、難解な注文をつけてくる面倒な会社で、社長である彼にとっては目の上のたんこぶであった。
「やれやれ、『例のもの』を横流ししろというわりに、その買取金額が割に合わない、ケチな会社だったからな」
「本当に、困りますわよね。販売ルートに足がついたら、横流しどころではありませんもの」
高天原サクヤは、父の話に相槌を打つように肩をすくめる。
コノハとサクヤの父が手に持っている新聞には、『加速する魔薬の被害』という報道も掲載されていたが、彼らは興味がないらしく、その記事に目を通そうともしない。
「ククッ、それを、醜い娘ひとり差し出しただけで簡単に悪縁が切れるとは、恐ろしいものだな、サクヤ?」
「ですが、厄介払いできて、家もスッキリしたことでしょう? さすがにお姉様とはいえ、仮にも親族を『アレ』の実験体にするわけにもいきませんものね。すぐにバレてしまいますから」
サクヤはほほえみを浮かべるのみ。
彼女の姉に与えられた部屋は屋敷の屋根裏だった。そこに置かれていた、カビやホコリの匂いがする家具や衣服のたぐいはすでに処分されている。
「それで、お姉様の様子はいかが?」
「へい、なんだか妙なことになってやすよ」
サクヤに声をかけられた小柄な妖術師は、コノハの近況を伝えた。彼はサクヤに命じられて、葦原神社を見張っている。
「……まあ、塵芥を漁る鴉を飼い始めた? お姉様は相変わらず素敵なご趣味ですこと。お似合いというか……」
妹は噴き出すのをこらえているようで、扇子で口元を隠していた。
父親はフンと鼻を鳴らしている。
「もうあんな不細工、どうでもいいだろう。それより、お前の嫁入りは順調に進んでいるのか」
「つつがなく。中國家との関係が進展すれば、さぞかしお父様はお喜びになるでしょうね?」
中國家は、霊薬に欠かせない精製の技術を持った、製薬会社である高天原家にとって重要な家柄である。実際に高天原製薬の技術部門の中枢を担っており、この両家の縁談はいわゆる政略結婚であるが、サクヤは特に異議を唱えない。
中國家の一人息子、中國トウマは、コノハが十歳の頃、高天原家に住み込んでいた、あの学生であった。彼は屋敷で暮らしながら、「女性にも教養は必要だ」と主張し、コノハとサクヤに勉強を教えていたのだ。
当然、姉妹の両親は嫌な顔をしたが、中國家の坊っちゃんに悪印象を抱かせたくないので黙認するしかなかったし、トウマも彼らの思惑には気づいていない。姉は熱心にトウマの授業に耳を傾けていたが、妹は学問に興味がなく、いつも話を聞いているようなふりをして、トウマの整った顔ばかり見ていた。
姉妹はこの学生に初恋を募らせて、大嫌いな姉に奪われたくないサクヤが八年前にコノハの顔に火傷を負わせるという悲劇が起こってしまう。その際に、トウマは事実隠蔽のため中國家に戻されていた。そのため、彼はコノハの事件の真相を知らない。
そのトウマは現在、サクヤと婚姻関係にあり、彼女は嫁として中國家に取り入っている、というわけだ。
八年たって、トウマは二十三歳、サクヤは十五歳になった。初恋の人は中國家の次期当主として凛々しく、たくましく成長している。白髪の爺と結婚させられた姉に比べて、自分は人生の花道を歩んでいるとサクヤは確信していた。姉の初恋の人を奪い、自分のものにしてやったのだ。それを思うと、彼女の胸は独占欲を満たせる喜びで膨れ上がる。ただし、彼女はコノハの欲しかったものを奪って満足したので、すでにトウマに対しては顔以外に関心がない。
高天原サクヤは姉の持ち物を奪わずにはいられない性分である。小さい頃から姉に与えられたものを「ひとつだけちょうだい」とねだり、コノハが譲り続けているうちに、どんどんワガママに育っていった。そのうち姉の持っているものは全て奪うようになっていく。気に入ったものは自分のものにし、別にいらないものは姉の目の前で壊した。周りも甘やかして一切止めようとしなかったため、行き着いた先が姉の美貌を潰した事件である。
「引き続き、葦原神社の見張りよろしく」
「へい……あっしは正直、縁切りの神様なんて関わりたくねえんですがね」
廊下に出て妖術師に命じると、彼は恐ろしいと言いたげにわざとらしく自分の肩を抱きしめてブルブルと震える仕草をした。
「触らぬ神に祟りなし……というやつかしら」
「縁を切る神様ってのは、時には無理を通してでも人の縁を切るもんなんでやすよ。この『無理』ってのが、人間側の被る厄災でしてね。例えば、仕事を辞めたいって悪縁を切るために、依頼した人間が仕事を辞めざるを得ないほどの大怪我をする……みたいな」
「西洋にもそういった話ありましたわよね。たしか、猿の手……だったかしら」
妹は眉をひそめる。かつて、トウマから教えられた怪談が、うっすらと彼女の記憶にあった。
歪んだ形で、人の願いを叶える願望器。
姉は、そんな薄気味悪い、恐ろしいものに嫁入りしたというのか――?
サクヤの口は、歪んだ笑みを作っていた。
――嗚呼、お姉様も堕ちるところまで堕ちたものだ。
そのような醜悪な化け物じみた神様に嫁ぐなら、やはり醜い花嫁がふさわしいということなのだろう。
彼女は、妖術師がそんな自分を見て震え上がっていることには気づいていない。
「とにかく、このままあの神社を見張ってちょうだい。そして、なにか動きがあれば逐一報告して。あたくしはお姉様の近況がとっても気になるの」
姉の不幸は蜜の味。あの女が転落していくたびにゾクゾクと背中に興奮の震えが走る。姉が幸せになるなんて許さない。
そんないびつな思考に至る理由は、夫のトウマが内心では未だにコノハのことを気遣っているのを知っているからだ。
やれ「最近、君の姉さんは元気なのか」などと。
思い出しただけで、サクヤは唇を噛んだ。
あたくしがあなたと結婚しているのに、なぜ大嫌いな姉の名前があなたの口から出てくるのか。
あの女は八年間ずっと、自分の夫の心を縛り続けている。
ならば、自分がその呪縛を解いてやらねばならぬ。あのお方はもうあたくしのものだ。姉から奪ってもなお、あの女のものだなんて認められない。
そんなサクヤと妖術師、高天原家の面々を、灰色の鳩が見ていた。




