第4話 誰があなたを呪っても
――婚姻の儀を挙げてから一週間ほど時は流れて。
正式に葦原神社に嫁入りしたコノハは、自室で時間を持てあましている。
高天原家にいた頃のように働こうと思ったのだが、ミコトの従者たちに「奥様に雑用をさせるわけにはまいりません」とやんわり拒否されてしまったのだ。
とはいえ、自分の貢献できることなど家事のみだと思っている彼女は困ってしまった。
せめてなにかできることを探そうと神社の中をフラフラさまよったが、この場での雑事はすべて眷属たちが取り仕切っているらしい。
ゆえに、嫁にあてがわれた部屋に戻って畳に正座したまま、どうしたらいいのか思案に暮れている。
コノハのために用意された個室は、床の間まである広く豪華なもので、新しい畳の匂いが漂う。
高天原家にいた頃は、「ああしろ」「こうしろ」と命令されていたので、かえって楽だった。自分で何も考えなくていいから。幼少期に賢いと褒められていた娘は、十八年の人生を通して、大切なものを壊され続け、もはや自主的に考える力も、見る影もない。
彼女やミコトの住んでいる神社は、鳥居を通り過ぎれば境内に拝殿と本殿、社務所、そして一番奥に彼らの生活する住居が建てられ、花嫁の部屋の前には縁側がある。そこから見える景色は、雪の降り積もっている庭だった。少女の誕生日は二月だったので、春にはまだ早い。白く寒々しい風景を、コノハはただぼうっと見つめている。
「四季折々の花を植えているので、冬が過ぎる頃にはきっとあなたの目を楽しませてくれると思いますよ」
頭上から聞き慣れた声が降ってきて、顔を上げると、狐面と目が合った。
ミコトはそのまま嫁の隣に座り、一緒に外を眺める。
「寒くはありませんか? 毛布でも持ってきましょうか」
「いえ……お構いなく。私にはそのような贅沢なものはもったいありません」
「そうですか? もう冷えてしまっているようですが」
夫が妻の手を取った。熱いお茶を被った部分の火傷は幸い手当の甲斐あって痕も残らず、痛みも引いている。
ミコトは彼女の両手を自らのそれで包み込み、温めようとしているようだ。彼の手の温度は存外高い。神様でも体温があるのだな、と思った。
「……ごめんなさい。やはり私には、理解できません」
コノハのセリフに、狐面がじっと彼女を見つめている。何を、とは尋ねてこない。ゆえに、そのまま言葉を続ける。
「どうして、私をそんなに大切にしてくれるのか、どうしてもわからないのです。私に良くして、あなた様にメリットはあるのですか」
「ふぅむ」
男は不思議そうに首をかしげるのみだった。
「夫が妻を大切にするときに、利益などを考えるものなのでしょうか。人間のことがよくわからないゆえ、申し訳ない」
そう言われると、言葉に詰まってしまう。この神様のほうが、自分なんかよりよほど健全で、人間らしい。同時に、今まで己は家畜としてしか扱われてこなかったのだという今更な事実を突きつけられて、じくじくと胸が痛んだ。
「わたし、は……」
思わずこれまで抑え込んでいた感情が溢れ出す。
「私は、人間に生まれてこなければよかったんです。豚さんだって食べ物としてお肉を提供することで人の役に立てます。みんなが見下している虫さんだって、霊薬になれます。でも、私は人に生まれたというだけで、生かさず殺さず、中途半端なままお金や資源を消費せざるを得ない。私は、生まれてこなかったほうが、よかった」
吐露すると途端に、目から生温い液体がボロボロと滴り落ちるのがわかった。人前で泣くなんて恥ずかしい行いだ。それに、こんなことを言ったら、夫を困らせてしまう。いや、怒るだろうか。あきれるかもしれない。実家に帰ってくるなと言われているのに、この神社を追い出されたら、もう行く宛はないというのに、何をやっているのだろう。
コノハが慌てて涙を拭おうとすると、「目をこすってはいけません。腫れてしまいます」と旦那様に止められた。彼は着物の袖からハンカチーフを取り出して、彼女の顔を持ち上げ、そっと涙を布に吸わせる。
「あなたは、とても綺麗です」
言われた意味がわからなかった。火傷で焼けただれた顔を見てそんなことを言う意図が理解できない。それを察したのか、ミコトは続ける。
「あなたは心が、魂が清らかなのです。私の魔眼で視えているのだから間違いない。その証拠に、コノハさんは自分を責めこそすれども、己を虐げてきた家族に対して、これまでまったく恨み言を言わないでしょう」
涙がすっかりハンケチに吸い込まれると、再びそれを袖にしまって、彼はニコリとほほえんだ。狐面で表情はわからないけれど、口角が優しく上がっている。
「私は、あなたが生まれてきてくれて本当に嬉しい。この世界の誰がコノハさんを呪ったとしても、私だけは何があってもあなたを祝福します」
令嬢はその言葉に胸がいっぱいになって、また泣き出してしまった。夫は慌てて袖から手ぬぐいを取り出して再び涙を拭う。偶然通りかかった、子どもの姿をした従者が「あーっ、旦那様が奥様を泣かしてる!」「いけないんだー!」と冷やかした。
「む……いやまあ、私が泣かせたようなものですが、とても語弊がありますね」
不服そうな様子のミコトを見て、花嫁は目を潤ませたまま、少しだけ笑う。
それがこの家に来て初めての笑顔であった。




