第3話 婚姻の儀
葦原神社では、主である葦原ミコトの他には、彼の眷属である、あやかしたちが人の姿で働いているそうだ。
そんな話を社の主本人から聞かされながら、せわしなく何かの用意をしているらしい従者たちを、コノハはぼうっと眺めていた。
「私は何の仕事をしたらよろしいのでしょう。一応、使用人と一緒に働いていたので、家事は……できなくはない程度には……」
「いえ、あなたは何もする必要はありませんよ」
夫の言葉に、彼女はどこか傷ついたような、不安げな表情でうつむいてしまう。
「わ、私では皆さんの足を引っ張ってしまいますものね……ごめんなさい、出過ぎた真似を……」
「ふふ、そうではありませんよ」
ミコトは令嬢の卑屈なセリフに、ゆるゆると首を横に振った。
「今、婚姻の儀の準備をさせております。主役が手伝ってしまっては、彼らの真心をふいにしてしまいますよ」
「え……? でも、父は結婚式など挙げなくて良い、と」
「ええ、たしかに。ですから、我々で勝手に執り行います」
コノハはミコトを見上げたまま、目を丸くしている。
彼はそれを見て、満足そうにクスクスと笑っていた。
「その表情、いいですね。あなたはもっとたくさんの『幸せ』を経験するべきです」
そして、「どうぞこちらへ」と少女の手を引いて、食堂へ案内する。
「夜には豪勢なごちそうを用意しているので、まずは軽食をお召し上がりください。お腹、すいてらっしゃるんでしょう?」
彼女は思わず空いた片手で空きっ腹を押さえ、顔を赤らめた。
すごいなあ。神様ってなんでもお見通しなんだなあ。
コノハは朝ご飯も昼ご飯も食べていなかったので、出された白米と味噌汁を、思わずがっつくように平らげてしまった。腐ってないご飯を食べるのは久しぶりだ。
こういうガサツなところが、実家でうとまれていたのだろうと、情けなくて涸れたはずの涙が出そうになる。
その家族には厄介払いとして家を出され、この葦原神社に来た。
父には「お前にはこんな縁談くらいしか生きてて役に立つことないからな。もう帰ってこなくていいぞ」と言われている。
「私は、あなたの元気ハツラツなところ、好きですよ」
「……神様って、心が読めるんですね。お恥ずかしい限りです」
「申し訳ない。私の右の目は『真理の魔眼』と呼ばれているものでして、人の心を勝手に悟ってしまうのです」
ミコトは、狐面越しに、己の右目を指差した。
魔眼。コノハもなんとなく知っている。顔に火傷を負う前、高天原家に住み込んでいた学生から貸してもらった、ギリシア神話を日本語訳した本に載っていた。
たしか物語に登場する恐ろしい蛇女が、呪われた瞳で見つめた相手を石にしてしまうとか。
その心を読む千里眼で妹が彼を『爺』呼ばわりしたことも、自分が熱いお茶で手を火傷したことも知っていたのだな、と彼女はやっと腑に落ちた。
「もう片方の目は……?」
「そうですね……今は語るべきではないかもしれません。いずれ分かるときが来るでしょう」
気にはなったが、本人に打ち明けるつもりがなければ仕方ない。
少し空腹が落ち着いて、静かに食べられるようになった頃、夫はさらに言葉を続けた。
「また、コノハさんが元気になった顔が見たいです」
「……? 私はあなた様とお会いしたことがあるのでしょうか」
覚えていない。こんな狐面をした白髪の殿方など、そうそう忘れることなどないと思うのだが。
ミコトはふるふると首を横に振った。
「直接は姿を見せておりませんでしたが……あなたが小さい頃、この神社の境内で木登りをしているところを何度か」
先ほどの自分を以前から知っていたような言葉の意味を理解すると同時に、恥ずかしさで顔が熱くなる。箸を持ったまま、顔を隠したくて俯いてしまった。
「そ、それは……ごめんなさい……若気の至りと申しますか……」
「ですが、私はあの頃のコノハさんの楽しそうで無邪気な笑顔が好きでした」
初等部の頃の彼女は、お嬢様らしいお嬢様ではない。
よく喋り、よく笑う。両親も読まないような本を好んで読むような、変わった子どもという評価がよくついて回ったものだ。
そんな令嬢は両親の理想ではなかったらしく、「女らしくしなさい」「女のくせに」とたびたび咎められていた。
そういった経緯もあって、姉を反面教師にして育ち、表面上はおしとやかに愛想よく振る舞っている妹のサクヤの方が親に可愛がられていたのは必然かもしれない。
それでも、神様は見ていてくれた。そして、活発なコノハを好ましいと思ってくれる。
彼女は胸に温かいものが満ちてくるような、不思議な感覚を味わった。
その夜、婚姻の儀を挙げた。
ミコトは「今日は疲れているだろうから」と初夜はせず、輿入れした妻のために用意された部屋に案内する。
コノハは、本当に疲労と満腹の幸福感で布団に横たわって動けなくなってしまった。
神社の従者たちにもてなされ、心の底から歓迎されていると感じている。
「葦原神社へようこそ!」
「旦那様がようやく嫁をお取りなさった! 今夜は無礼講だ!」
大いに喜ぶ眷属たちの温かい態度に、令嬢は戸惑った。
彼女にとって、使用人は自分を見下しており、意地悪をしてくる敵である。
しかし、そんな存在は、ここにはいない。
花嫁は、久しく体感していなかった安心を噛み締めて眠りに落ちたのだった。




