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武士は食わねど高楊枝  作者: 一森 一輝
自由なる大国にて
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8話 大きくなったな、総一郎63

 頭が、真っ白になった。


 ヒイラギが、また今度も立ちふさがるのだと思っていた。警部が“娘”を連れていた時点で、因果を捻じ曲げる邪神に近しい相手が敵になるのだと思ったし、今の一連の警部の攻撃で、それを確信したつもりだった。


 だが実際には、和解したはずのナイが、そこに立っている。


「あは♡」


 かつて総一郎を幾度となく惑わせた彼女が、またも敵として立っている。人差し指を唇の端に当て、嘲笑を浮かべて。


「どうしたの? 言葉も出ないって顔だけど」


 クスクスと笑い声を漏らしながら、ナイは総一郎を見つめていた。総一郎は、どんなふうに声をかけるべきか分からなくて、ただ狼狽えて、彼女を見つめ合うしかなかった。


「ナイ」


 声を上げたのは、シェリルだった。酷く冷たい目で、彼女はナイにこう尋ねる。


「裏切ったの? ソウイチを」


 率直な問いだった。これ以上ないほどまっすぐに、敵か否かを問いただしていた。


「やだなぁ、シェリルちゃん。見損なわないでよ。これは、ボクはボクなりに考えて行動した結果なんだよ?」


「どう考えたらリッジウェイの味方になって、私たちの裏切りにならないか分からないんだけど」


「それだよ。ボクは、警部の味方じゃあない。彼はデモンストレーションみたいなものだよ。ねぇ?」


 否定しつつも、ナイが警部に呼びかける様子は親しげだ。警部も、笑みさえ湛えて肯定する。


「ああ、そうとも。強襲されて応戦してしまったが、ナイ、君の到着までの時間稼ぎまで終わった以上、私の役目は終わりという訳だ」


「どう言うことですか、ナイちゃん……? デモンストレーションって……?」


 愛見の問いに、ナイはクスクスと笑いつつ、「ほら、返してあげる」と気付けば抱えていたリッジウェイ警部の娘を、警部に渡していた。警部は「礼を言うよ。ではな、諸君。また改めて会おう。今度は万全の体勢でやり合おうじゃないか」と立ち去る。


「ッ……!? い、ま、何が」


「深淵を覗き込もうとするのはお勧めしないよ? ヒルディスヴィーニ。それとも、こっちから覗き込んでもいいのかな?」


 警部の娘を一瞬で奪い返されたヒルディスの動揺に、ナイの忠告が下った。その言葉の不気味さに、ナイの底知れなさに、この場の全体がナイに支配され始める。それは、無貌の神の常套手段だ。


「総一郎君」


 ナイが総一郎を呼ぶ。あらゆる注目が、総一郎に集まる。


「ボクはね、考えたんだ。ボクだけのものにしようとして、結局奪われてしまった君に、どうすればまた本当の意味で振り向いて貰えるのかって」


 総一郎は口を挟もうとして、それをナイに視線で制された。総一郎には、“本当の意味で”という言葉に込められたニュアンスが分からない。何せ、総一郎はちゃんとナイを愛している。他の二人と同様に、深く、これ以上ないほど。


「だって」とナイは続けるのだ。


「だって、今のボクは無力だ。無貌の神たるにふさわしい力を、封じられている。出来ることは本当に僅かだったんだ。―――だから、ボクは考えた。ずっと悩んで、悩み抜いて、それから、思ったんだ」


 ―――総一郎君。君に、すべてをあげようって。


 ギ……、と空間全体が軋むような感覚があった。ARFの誰もが警戒をあらわにし、総一郎は血の凍るようなデジャビュに襲われる。


「まず与える。それこそが愛だって気づいたんだ。ボクは総一郎君の何もかもが欲しい。なら、ボクだって君にすべてを与えることから始めないと」


 総一郎は、ナイを鋭く見つめながら問う。


「……すべてって、何?」


「すべてはすべてだよ、総一郎君。安寧、刺激、人生における幸不幸の何もかも。出来ることは少ないけれど、積み重ねていけば人間のこの身体でも、案外色んなことができる」


 だから総一郎君、まず安寧をあげるね。


 ナイは言いながら、手を後ろ手に隠した。そして、背後から何かを取り出す。一抱えもあるそれ。サッカーボール大の、丸く、雷のような金髪を垂らすそれを見て、総一郎は硬直した。


「……ナイ、それ……」


「“勝ったよ”。総一郎君の知らない場所で、総一郎君が一生懸命に白羽ちゃんの面倒を見ている間に、ボクにはボクの戦いがあった。結果は、見ての通りだよ」


 これが、まず一つ目。ナイはそう言って、ヒイラギの生首を足元に置いた。今更生首程度で騒ぐような人間はこの中にいなかったが、それでも不死に近しい性質の仇敵の生首を見るのは、妙な気持ちになった。


「二つ目に、刺激をあげる。ううん。あげた、かな」


 その物言いに、総一郎は嫌な予感がした。


「人生には彩が必要だからね。彩とは、つまり刺激だ。喜び、怒り、哀しみ、楽しみ……。総一郎君、君はもうボクからのプレゼントを受け取っているはずだけれど、気付いてくれたかな?」


 クス……とナイは思わせぶりに嗤う。アーリが「は? お前、まさか、そんなことで……?」と一周回って気の抜けたような声を上げる。他のARFの面々も勘づいて脱力したり、そもそも理解を拒絶するように小さく首を振っている。


 そんな中で、総一郎は思考の加速に体がついて来れず、動けないでいた。


 ナイは、嗤う。


「“白羽ちゃんの死は、とても悲しいことだったね”。でも、安心してよ。それもどうせ、デモンストレーションにすぎないんだ」


 ARFの全員が色めき立った。Jは狼男の爪から思い切り爪を伸ばし、アーリはSMGを構えてナイに狙いを合わせ、シェリルは強く噛み過ぎた唇から血を垂らし、愛見は手の目を開いてナイを視界に捉え、ヒルディス、ヴィーは全身から激しく炎を昇らせ。


 そのすべてを、総一郎は置き去りにした。


「ナイ。俺に君を傷つけさせないでくれ」


 何の魔法を使ったのかは、覚えていなかった。ただ総一郎は気付けばナイの眼前に立っていて、その頬に手を添えていた。


 ナイは、目を丸くして総一郎を見上げていた。彼女は、「も、もちろん、ただ無為に事をなしたなんて、そんな話はし、しないさ」と震える声で言う。


 総一郎は訝しんだ。


 ナイは、こんなにつまらない少女だっただろうか、と。


「あ、あくまで、そう! あくまでデモンストレーションにすぎないよ。何せ、ボクがこれから示す可能性は、まず“大切な人を失う”ところから始まる。失った人は取り戻せない。その実感こそが大切なんだ。それが白羽ちゃんか、その子供だったかなんてことは些事でしかない」


 ナイは総一郎を突き飛ばして距離を取り、こう続けた。総一郎はそれを冷たい目で眺める。そこにある感情は、総一郎自身形容しがたい。幻滅にも近く、百年の恋も散るような喪失感。


 だが、続く展開は異質だった。


「だって、どうせ取り戻すんだから、さ」


 クス、とナイは嗤って、虚空の中に手を突っ込んだ。そして、“彼女”を引きずりこむ。


「えっ、な、何――――総、ちゃん?」


 『白羽』が、虚空から引きずり出された。総一郎はゾワッと全身に走る違和感に肩を跳ねさせ、反射的に飛び退る。


「な、何? どういうこと? ……みんな、揃ってる? 嘘、そんな、こんなこと、あっていいの……?」


 『白羽』が、感極まったように涙ぐんだ。総一郎は、その光景が理解できない。死者を蘇らせれば、そこに待つのは破滅のはずだ。ミヤさんはそう語ったし、愛見はそれを、身を持って体験した。だが、目の前の『白羽』からは、そういった類の危うさがない。


 総一郎は愛見に視線を向けた。彼女は手の目で『白羽』を捉え、その邪眼でもって深く知覚し、こう言うのだ。


「蘇った白ちゃんじゃ、ない……? どういう、ことですか? わたしたちは、この目で、はっきりと白ちゃんの最期を見届けたはず」


 言い返したのは、『白羽』だった。


「こっちの台詞だよっ! みんな、みんな死んだはずでしょっ? ウー君も、ハウハウも、シェリルちゃんも、愛ちゃんも、副リーダーも、みんな―――――」


 『白羽』は、総一郎を見る。酷く苦しそうで、だが、だからこそどれだけ望んでも手に入らなかったものが眼前にあるかのように嬉しそうに、彼女は言う。




「みんな、ウッドに殺されたのに……っ!」




 『白羽』は、総一郎に駆け寄り、そして抱きしめていた。総一郎は、それに反応できなかった。『彼女』は強く総一郎を抱きしめて、ぐすぐすと泣きじゃくる。


「ああ、神様。私は、ずっと、ずっとあなたを恨んできました。総ちゃんがウッドになって、ARFのみんなを殺し始めて、泣いて馬謖を斬る思いで追いつめて、この手で殺した時、私はあなたをも殺してやると」


 でも、と『白羽』はつなぐ。


「もう、もう構いません。試練だったのだと、そう思います。だって、だってあなたは『総ちゃん』に逢わせてくれた。もう、二度と取り戻すことのできないと思った、『総ちゃん』に……!」


 その場のほとんどが、その言葉の真意を掴みかねていた。『白羽』が語るのは最悪の結末だ。ウッドが総一郎に戻れなかったとき、訪れただろう未来の話。


 だが、総一郎には引っかかる情報があった。大統領が語った、大昔の話。不死の『能力者』を殺すために世界を変えたこと。概念上のものの全ての実在化。時空の保存。タイムトラベル。そして、言及されなかったその先の可能性。


 平行、世界。


 ナイは嗤う。


「総一郎君、気付いたようだね。そうだよ。その『白羽』ちゃんは、最悪の平行世界からきた、とても可哀想な白羽ちゃんなんだ。すべてを失い途方に暮れた、その瞬間からお連れしたよ」


「ナ、イ……? あなたも、生きてたんだ……。ウッドに、殺されたって聞いてたけど」


「あは! そっちのウッドは随分やんちゃだったみたいだね。でも、安心しなよ。この世界線のウッドはもうほぼいないも同然だ。安心して総一郎君を抱きしめるといい」


「うん……っ、うん……っ!」


 『白羽』に、強く抱きしめられる。総一郎は、強く抱きしめ返したい誘惑にかられた。失われて、蘇らせようという考えすら鎌首をもたげた、誰よりも大切な人の一人である彼女が、何の代償もなくここにいる。


 子供のように高い体温、眩暈がするほど白い肌、真っ白で美しい長髪。生きているのだ、と思う。途端に、白羽が死んだのだという実感が湧いてきて、同時に、『白羽』がここに居るのだと肌で理解させられて、枯れたようだった総一郎の瞳に滴が宿る。


 だが同時、何か大切なものが軋みをあげているのが分かった。


 さて、もう分かってくれたよね? ナイは総一郎に語り掛ける。


「ボクからする提案は、これだよ、総一郎君。―――死者蘇生は失敗する。どうもよく分からないルールが邪魔するらしくてね。けど、平行世界からの誘致は問題ない」


 ナイは、手を広げた。視線が総一郎から外れ、声色はその場の全体に語り掛けるものに変わる。


「“こういうことだよ”。総一郎君に限らない。ボクは―――君たちにすべてをあげよう。失われて、決して取り戻せないものをボクが取り戻してあげよう」


 ナイは嗤う。嗤う。呼吸を荒くして渇望するもの、困惑に右往左往するもの。ARFの面々の心は千々に乱され、誰もが身動きを取れなくなる。


 総一郎もそうだった。だが、総一郎だけが不運にも、心を壊されることに慣れていた。


「ハーッ、ハーッ」


 総一郎は、断腸の思いで『白羽』を押しのけた。「総ちゃん……?」と悲しげに名を呼んでくる彼女のことを黙殺し、総一郎は頭を掻きむしる。


「愛してた」


 総一郎は、自分が何を言っているのかもわからないままに言葉を吐露する。


「愛してたんだ。白ねぇ。それを、死なせた。死なせてしまった。何も出来ずに、俺は。間違えた判断で、悠長な考えで。死んでいい人じゃなかった。俺が代わりを務めていい人じゃなかった! 白ねぇ……!」


「あ、……総ちゃ」


「お前じゃないッッッッッッッッ!」


 『白羽』の言葉を、総一郎は強く跳ねのける。涙をこぼして、血が出るほど強く頭を掻きむしり、総一郎は壊れていく。


「俺にとって! 俺にとって白ねぇは死んだあの人、たった一人だった! それを、お前は冒涜した。冒涜したんだよ」


 総一郎の視界が赤黒く明滅する。右腕が粟立つ。暴走し始める。ウッド、起きようとしているのか。代わりに、この苦しみを破壊してくれようとしているのか。


 『闇』魔法が勝手に顕現し始める。周囲に点々と、空間を食いつぶすように真っ黒な球体が現れ、そして時空そのものにひびを入れる。


 己の中で暴れ狂う殺意の渦に、総一郎は足をのまれてくずおれる。そして、地面に這いつくばり、言うのだ。


「違うか、ヒイラギ……ッ!」


 総一郎の言葉が、沈黙の中に響いた。『ナイ』はこちらをポカンとした目で見て、―――それから、けひ、と嗤った。


「けひ……、けひ、けひひ、けひひひひひひひひひひ!」


 気味の悪い独特の笑い声が、哄笑となって廃工場内に響いた。奴は首のあたりに指をかけ、思い切り顔の皮を引きはがす。


 そして、雷のような金髪が広がった。けひけひとヒイラギはすべてを嘲笑する。剥されたナイの面の皮がバチバチと音を立てて焼けこげる。


「あーあ、バレちゃいましたね。そうですわ! わたくしはナイではなく、ヒイラギです。流石に舐めすぎてしまいましたでしょうか? そうですものね、偽物を用意する作戦は、これで二度目ですもの」


 むしろ、気付けないあなたがたの方が問題ですわ。そう、総一郎以外を嘲笑するヒイラギ。一方で、ARFの面々のほとんど全員が、瞠目して、ヒイラギを見つめるしかない。


「お前、覚えてるぞ……。ウチの部隊で、リッジウェイの娘を撃ち殺して、どうにかかばってやったら、次はヴァンプを拷問にかけて、姐さんに殺された奴だ」


 口を開いたのは、ヒルディスだ。それにシェリルは全身を震わせながら頷き、他方アーリは「は……? 何でだよ、どういうことだ? お前、ロバートの彼女だった奴だろ……?」と声を上げ、他の面々に動揺が走る。


 ヒイラギは、「ああ」とどうでも良さそうに頷いた。


「そう言えばそうですわね。懐かしい、昔の仕込みではございませんか。……そうですわよ。アーリーン・クラークの弟の恋人として死んで彼を復讐の鬼にしたのも、ヒルディスヴィーニの下でシェリル・トーマスを拷問したのも、リッジウェイ警部の娘を故意に撃ち殺したのも、日本人としてモンスターズフィーストに殺される演出を行って彼らを壊滅に追いやったのも、そうやってこの街で多くの憎悪をまき散らし―――ナイの想い人、ソウイチロウ・ブシガイトとその姉君の子を“祝福”したのも、ぜんぶ、ぜーんぶわたくしですわ」


 でも、今さらそんなことはどうでもいいでしょう? ヒイラギは嗤い言う。


「だって、もうおしまいですもの。頼みの綱のナイの愛しい人は、今そこで自失呆然。体内で暴れ狂う修羅に、立ち上がることも出来ない。そして他のあなた達では、わたくしに立ち向かうこともままならない。そうでしょう?」


 けひ、とヒイラギは顔をいやらしく歪めた。ARFの面々がそれぞれ構えを取るが、顔色は苦しい。


 総一郎は、腕に力を込める。立ち上がろうとする。その度に修羅がうずき、外に出てこようとする。


 それを押し留めようとすると、体の力を全て内側に向け直す必要が出てくる。そしてまた、総一郎は立ち上がれなくなった。言う事を聞けと念じても、ウッドは『分かっている。分かっているとも』としたり面をして嗤うばかり。


 このまま外に出せば、ウッドはヒイラギを殺し、またすべてを敵に回すだろう。―――そしてその時、総一郎もまた、次こそ完全に死ぬことになる。


「けひ、けひひひひひひひ! あぁ、ナイの愛しい人。あなた、中々わたくし好みの顔を見せてくれますのね。単なる絶望ではない、いいえ、絶望しきっていないからこそ複雑に混ざり合う様々な感情が、とても、とても甘美ですわよ……」


「ぇ、う……ぐ……っ!」


 総一郎は嗚咽し、えずき、込み上げる吐き気と冷や汗にあえいだ。白羽の仇への殺意、殺意に連動してのしかかる禁忌感、暴れ狂う修羅に体を侵食される苦痛、己が永遠に失われるという恐怖。その全てがない交ぜになって、総一郎の心をひしゃげさせて。


 敗北。


 総一郎は、曖昧になる思考で吟味する。これはもう負けだ。詰みだ。ここから覆すのは、ほとんど不可能に近い。出来ることとすれば、“上手な負け方”を模索することのみ。


 だが、ヒイラギに慈悲を求めるのは無為に等しい。従順にすれば優しくしてもらえる相手ではない。フィアーバレットの恐怖もどこまで機能しているか分からない以上、最悪を想定して動くべきだ。


 つまり、このままただ負けた場合に待っているのは、総一郎に限らない、ARFに関わるあらゆる全員の苦痛、死。それも、拷問の果てにイジメ殺されるといった、想像しうる限り最悪の結末だ。


 それはローレルさえ、白羽のように、無力の中に奪われることを意味していた。


「ぅ、ぐ、ぁ、あああああああああああ!」


 総一郎は叫ぶ。ウッドが暴れ狂い、嗤い、そして囁くのだ。


『もういいだろう総一郎。俺に全て明け渡せ。苦しいばかりだろう、お前の生は。だから、俺がすべて壊してやる。“俺が代わりにやってやる”! さぁ! 明け渡せ!』


 総一郎は、眼前に示された二つの選択肢を、歯を食いしばって睨みつけた。敗北し全てを冒涜されるか、この場を切り抜けるために自らの事実上の死を選ぶか。


 そして、ハッ、と泣き笑いするのだ。


「みんなが少しでも助かる可能性があるなら、それに縋らない訳がないじゃないか」


 総一郎は力を抜く。ウッドが、哄笑を上げた。意識が遠のく。体に自分のものではない活力が満ち満ちる。そして。




 睡蓮の匂いが、総一郎の真横で香り出した。




「やぁ、総一郎君。中々の窮地じゃないか。これは君に問いかける絶好のタイミングだね。君は―――ボクを信頼できるかな?」


 あは、と小さな体躯に似合わない艶めかしさで、彼女は総一郎を見下ろした。ナイ。愛しい邪神。常に敵と味方の狭間に立つ者。


 ARFの面々が、その登場に慄き、そして思い思いに総一郎に言う。騙されるなと。信用ならないと。ヒイラギの敵だからと言って味方とは言い切れないと。判断できないと。何も分からないと。


 総一郎は、思うのだ。


「ナ、イ……」


「何かな、総一郎君」


「……俺は、ね、最初、から、全部、分かって、たよ……」


 総一郎は力尽きる。ナイはそんな総一郎を見下ろしたまま、何かを掴んだような所作をした。


「―――ぷッ、ふふ、あは、あはははははははは!」


 そして、笑いだす。腰を折って、文字通り腹がよじれるほど笑っていた。ARFの面々が、戦慄の面持ちでそれを眺めている。ナイは脱力して動けない総一郎の顔を持ち上げて、声高々に叫んだ。


「本当に! 本当に君は愚かだね! ああ、人間とは、なんて脆いんだろう。下手に出られれば守ってしまう。警戒していてもずっと一緒にいれば信じてしまう。なんて愚かで、無知で、蒙昧で!」


 ナイは、泣きそうな顔で笑って、目を瞑り総一郎の額に自らの額をくっつけた。


「……本当に、総一郎君はしょうがないんだから」


 ナイはそっと総一郎をその場に横たえた。そのタイミングで、いつしか駆けつけていたローレルが総一郎を受け取って介抱する。ナイはローレルに一度目配せをしてから、ヒイラギに嗤いかけた。


「やぁ、ヒイラギ。久しぶりだね。随分と暴れてくれたみたいじゃないか。けどね、もう終わりだ。怖れなよ。震えたまえよ。今君が、最も恐れるべきことが起こったんだ」


 ナイは嗤う。クスクスと、ケタケタと。哄笑に反応するように、周囲の地面が、壁が、熱もなく沸騰し泡を吹いた。


「な、ナイ……! あ、あなた、その力、まさか……!」


 ヒイラギの指摘に何ら反応せず、ナイはとうとうと語り始める。


「さぁ諸君! 喝采しなよ。真の恐怖は帰ってきた。ボクは、そこに立つ、人心を誑かして満足するような小物じゃあない」


 ナイが総一郎の前に歩み出る。ボコボコと音を立てて、周囲すべてが泡立ち始める。壁や床一面に誰のものとも知れぬ目が開き、口が開き、ゲタゲタとナイの声に合わせて笑い声をあげる。


「気付きなよ。思い出しなよ。アーカムをたった一人で脅かしたウッドを、一体誰が生み出したのかを。お父上を、兄君を、姉君を呼び出す計画を、最初に誰が立てたのかを。ウッドの狂気を拡大させ、『ノア・オリビア』という宗教組織を構築させたのは、一体誰だったかを」


 ヒイラギは蒼白になってナイから一歩遠ざかる。自らが呼びだした異形どもの笑い声を一身に纏ったナイは、手を広げ、皮肉気に笑って言う。


「そして知りたまえよ。その全てが、ただ愛のためであったことを」


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