8話 大きくなったな、総一郎57
食欲がない、という話だった。
食べやすいものを、という事でローレルが用意してくれたチキンスープや、図書が探し回って手に入れてくれた日本米で作ったおかゆにも、白羽は申し訳なさそうな顔で首を振った。口に含んだのは数口で、それ以上は入らないと。
「ごめんね。せっかくみんなが用意してくれたのに……」
本当に辛そうに謝る白羽に、ローレルも図書も、首を振って励ますことしかできなかった。そんな姿を、総一郎は何も言えず見守っていた。
我が子を堕してから、数日が経っていた。
原因不明の不調は、取り除かれた……と思う。だが、白羽の病状は悪化するばかりだった。もう一度医者に見せたところ、精神性のものであると診断された。今まで医者も匙を投げるばかりであったという事を考えれば、やはり、総一郎の判断は間違っていなかったはずなのだ。
しかし、白羽はおぞましい我が子を孕んでいた時よりも、ずっと体を病んでいた。
「……」
総一郎は、ベッドで穏やかに寝息を立てる白羽を眺めていた。こうしていると以前通りに見えるのに、と白羽の身体を思う。
「もう、体は問題ないはずなんだよ。元気出してよ、白ねぇ……」
泣きそうな気持で、総一郎はそう呟く。このまま意気消沈が続いて、消え入るように目覚めなくなってしまったら。そんな妄想が、総一郎を苦しめる。
「……」
総一郎は立ち上がって、何か飲み物でも持って来ようと思った。秋口で、少し肌寒くなってきてもいる。暖かいココアでも淹れれば、飲んでくれるかもしれない。
そう考えて部屋を出ようとすると、服の端を掴む手に気が付いた。見下ろすと、不安と眠気をない交ぜにしたような表情の白羽が、総一郎をベッドから見上げている。
「どこ、行くの……? 傍にいて……、総ちゃん……」
「……うん、何処にも行かないよ、白ねぇ。俺はずっと傍にいる」
総一郎は腰を下ろし直す。それから、服の端を掴む手をこちらから握った。白羽は少し不安そうな表情をやわらげて、また静かに寝息を立て始める。
「……」
―――白羽は、堕した直後の覚醒で、堕したことを説明されても怒ったりはしなかった。
ただ、静かに泣いた。そこに嗚咽は伴わなかった。それから総一郎を呼び、寂しさを埋めるように、総一郎の胸にずっと顔をうずめていた。
きっと、総一郎は、白羽に許してもらうことはないのだと思う。
誰よりも傍にいながら、離れることを許されない中で、総一郎はそう理解した。これは、白羽からもたらされる罰だと。苦しみを伴うことはないにしろ、彼女の傍にいないでいられる自由を奪われる。そういった類の罰なのだと。
仕方ないから、総一郎は図書にメッセージを送って、ココアを二人分淹れてもらえないか尋ねてみる。『自分で淹れろよ』とすげなくされたが、『白ねぇが寂しがるから』と説明すると『仕方ねぇぇええなぁああああああ』と返信が来た。
本当に、頼りになる兄貴分だ。いつかに自身の家族でも問題がありながら、全部強引に何とかしてしまった。あの胆力は見習いたいものだと、しみじみ思う。
「よう、淹れてきてやったぜわがまま姉弟。よしよし、いかがわしいことはしてないな」
「頼んだタイミングでそういうことしてたらいよいよでしょ」
「ははは! 確かにな。その場合は流石の俺でも追い出すことを視野に入れる」
「即実行じゃない辺りまだ優しいと思うよ」
ココアの入ったマグカップを受け取りながら、総一郎は肩を竦めてやり取りを。すると白羽が不機嫌そうなうめき声を上げた。図書は「おっと」と空いた両手を挙げる。
「お姫様は般若面の道化師じゃ不服らしい。ちゃんと相手してやれよ、王子様」
「サムいよ図書にぃ。白ねぇの体調が悪化したらどうするの?」
「お前も大概辛辣だな!」
白羽のうめき声が大きくなったのを聞いて、図書は冗談めかした急ぎ方で、そそくさと部屋から出て行った。扉を閉ざされると、またどこか沈鬱とした静寂が戻ってくる。
「白ねぇ、図書にぃがココア淹れてくれたよ。一緒に飲もう?」
「……うん」
半覚醒、半微睡といった状態の白羽は、もぞもぞと上体を起こしてマグカップを受け取った。ココアを一口すすると、「……甘い」ともう一口。総一郎は、白羽がお気に召したのを見て少しうれしくなる。
「おいしい?」
「うん、温かい……」
「そっか、よかった」
飲みながら、白羽は総一郎に体重を預けてくる。総一郎はそれを受け止めながら、自分でもマグカップを傾けた。
白羽の言う通り、温かく、甘い。総一郎も、微睡むような気持ちになってくる。閉じ切ったカーテンの向こうはしとしとと雨が降っているのもあって、総一郎もこのまま眠ってしまいたいような心地で居た。
「ね、総ちゃん」
元気のない白羽でも、名前の呼びかけ方は以前のままだった。総一郎は「何、白ねぇ」と喜色を滲ませて返す。
「ずーさんに聞いたけど、総ちゃん、もうアーカムに来て一年なんだってね」
「あ、そういえばそうかも。もう一年か。早いね」
「うん。目まぐるしくて、一年なんかすぐに過ぎちゃう。でもたくさんの事があったから、まだ総ちゃんと再会してから一年も経ってないんだって思うと、信じられない気持ちもするんだ」
「そうだね。良くも悪くも、色々なことがあったから」
ココアを一口。ほっとする甘さを、口全体で感じる。総一郎は一息を吐いて、こう尋ねた。
「再会したのは、確か冬頃だったよね」
「うん……、ARFの幹部メンバーで前市長を処刑してからすぐ。そういえば、あの放送で私のこと見つけたの? 総ちゃん」
「そうそう。アーカムに来てさ、すぐに白ねぇに会えると思ってたんだ。でも思うようにいかなくて、……あの頃は寂しかったな」
「色々と軌道に乗り始めた時期だったな。総ちゃんが来てたのは知ってたけど、私なりに、自分へのご褒美に取っておこう、なんて思ってたの。総ちゃんがあんまりにも変わってたから、驚いて酷いこと言っちゃったけど」
「白ねぇ、そのことはもう気にしないで。……今不意に思ったけど、こういう自罰的なところ、やっぱり姉弟で似てるのかもね。俺が思ってる何倍も、白ねぇ、そのこと気にしてる」
総一郎が言うと、白羽は目をそらして、顔を隠すようにマグカップに口を付けた。ココアをのむ音で、外の雨音で、話題が自然と流れていく。
「白ねぇを監禁しながら、ウッドはJと―――ウルフマンと戦ってたね」
「その言い方、ちょっと不思議。他人事っていうには当事者的な物言いだけど、自分事では決してないって感じがする」
「言い得て妙だね。ウッドはウッドだから。俺だけど、俺じゃない。ちょっとこの感覚を正確に伝えるのは難しいかも」
「私たちが、一番仲の悪かった時期だよね。それに、ウッドがそもそも、親愛とかそういうものを認識できなかったの、よく覚えてる」
「ああ……、そうだね。人を愛せば人になる。ウッドはあの時、きっと、頑なに修羅であろうとしてたんだ」
「私の所為だよね」
「うん。俺が白ねぇを、それだけ愛してたってことだ」
自罰的な物言いになる白羽の逆手を取って総一郎が返すと、白羽は愛おしそうに総一郎の手に自らの手を這わせてきた。総一郎がそれに応じると、指同士を絡め合わせて、白羽は握ってくる。
「私ね、再会した時の事、よく夢に見るの。あの時、今の私なら絶対に抱きしめてあげるのにって。そうすれば総ちゃんはウッドにならずに済んで、数々の罪を重ねずに済んで、……きっと、事あるごとに苦しまないで済んだのにって」
「白ねぇの所為じゃないよ。例えあの時の俺にとって白ねぇの言葉がトドメだったとしても、その責任を問う事に意味はない」
普通の人なら、健全な精神の持ち主だったなら、たとえショックだったとしても、それだけだ。修羅になるようなことはない。
ならば、その程度のことであれだけ暴れまわってしまえるウッドが、ないしそのウッドに変貌してしまえる総一郎がおかしいのだと断ずるべきだし、あえてそこに罪を求めないのなら、総一郎を故意にそこまで追い詰めた連中は別にいる。
だが、白羽はそうは思えないらしい。マグカップを置いて、総一郎の腕をきゅっと抱きしめてくる。そしてその腕に顔を擦りつけるように、ふるふると首を振るのだ。
「私の所為だよ。あの時の私は、総ちゃんが総ちゃんじゃない何かにほとんど変貌していることを見抜いてた。……そこまで見抜いていたなら、拒絶なんて一番ダメだったって気づいてもよかったはずだよ。なのに、私は拒絶した」
総一郎は、その言葉にも否定できた。人間ショックで気が動転することなどそう珍しい事ではない。最近で言えば白羽の子に関して誰もがパニックになっていたし、総一郎のウッドなど最たる例だ。
だが、総一郎は否定しなかった。白羽は、否定されたがっていないのだとそこでようやく気付いたから。責任を背負いたがっているのだと分かって、総一郎は彼女の頭に自らの首を預けた。
「そこまで言うのなら、白ねぇの所為なのかもね」
「……。うん、私の所為。だから、償わなきゃ」
ケホ、と白羽が小さく咳をした。それは次第に大きくなり、腰を折るほど激しく咳き込んでしまう。
ここ最近では、こう言ったことは珍しくなかった。だから総一郎は冷静に、白羽の背中を優しくさする。
数十秒の間咳き込み続けていた白羽も、そうしているとやっと落ち着いてきたようだった。か細い、涙の滲むような声で「ごめんね……」と総一郎に言う。総一郎はさするのを続けながら、「大丈夫だよ」と安心づけた。
ココア、飲める? と尋ねると、弱弱しく白羽は首を振った。総一郎は白羽のココアを受け取って近くの机に置き、白羽をそっと横にする。
「総ちゃん、まだ私寝ないよ……」
「でも、横になってた方が、体が楽でしょ?」
「……うん」
白羽は目を瞑りながら細く長く息を吐きだした。それから総一郎に手を伸ばしてきたので、また手をつなぎ直して、話を再開する。
「私、どうしたら責任取れるかな」
「責任って?」
「あのとき、総ちゃんを抱きしめられなかったことの責任。ウッドにならない最後のチャンスを、みすみす取り逃してしまったことを……」
「……」
総一郎は、言う。
「何かをすれば取り切れるものじゃないよ。だから、生きて欲しい。生きて俺の傍にいてさえくれれば、俺がまた自分を激しく罰したくなっても、白ねぇが止めてくれるでしょ?」
総一郎が白羽の手を意識して握ると、白羽はくすぐったそうに相好を崩した。それから、こう言う。
「多分、それは出来ないかな。私分かるんだ。赤ちゃんが居なくなって、段々、体から力が抜けていくの。これは、きっと止められない。――多分ね、主の定める私の役目ってものが、終わったってことなんだと思う」
「ッ」
総一郎は凍り付くような気持ちになった。白羽の手を両手で握り、「そんなこと言わないでよ。もっと頑張ってよ。一緒に生きようよ」と懇願する。
「……総ちゃんが、私が死ぬのを嫌がってくれるの、嬉しいなぁ」
白羽の物言いは、何とも呑気なものだった。「白ねぇ」と語気強く名を呼ぶと「うん、出来るだけ頑張ってみるから……」と弱弱しく微笑みかけてくる。
「……ッ」
総一郎は、歯を食いしばって震えた。白羽のために、これ以上出来ることはないのか。赤ん坊を取り除いたのは悪手だったか。だが、“あんなもの”が白羽の中にいるなど、容認できるはずがないではないか。
そう考えていると、白羽の手がそっと総一郎から解かれて、そのまま手を優しく撫でてくる。
「そんな辛そうな顔しないで。……そっか、暗い話ばっかりしてるから、こんな顔にさせちゃうのかな」
楽しい話、とぽつり白羽は言って、それから目を瞑る。そのまま、白羽は想像の世界に飛び立つようなふわふわした声色で、こんな事を言った。
「そう言えば最近、デート、全然行ってなかったね……」
「……そう、だね」
白羽は目を開いて、総一郎に視線を向けてくる。
「いつ以来かな。アレ……、もしかしてウッドから総ちゃんを取り戻してすぐのデートから、一回もデートしてない?」
「いつも一緒にいたからね。でも、確かにデートらしいデートって、意外に少ないのかも」
「じゃあ、次のデートの予定、立てようよ……。どこ行きたい? 総ちゃんが行きたい場所、何処でも連れていってあげる……」
こんなに元気のない状態で、よく大口を叩けるものだ、と総一郎は何だかおかしくなる。「そうだね」と相槌を打ちながら、こう答えた。
「エスコートされっぱなしも格好悪いから、次は俺にデートコースは任せて欲しいな」
「うふふ、総ちゃん頼もしい。じゃあ、次はお任せしようかな。……どこ連れてってくれるの?」
「どこがいいかな。前はシティホテルのディナーだったよね。じゃあ……映画館とかどう?」
「総ちゃんと映画かぁ。ふふ、楽しみ……。もちろんラブストーリーだよね。見てるこっちも甘い気持ちになっちゃうような奴見たいな……」
「え、白ねぇはアクションとか絶対好きだと思ってた。ロマンスも嫌いじゃないだろうとは思ってたけど」
「アクションは大好きだよ。でも、好きな人とは甘々なラブストーリーが見たいの……。いいでしょ?」
「ふふ、ははは、いいよ。じゃあ、ラブストーリーね」
言いつつ、白羽は当日になったら絶対アクションを見たがるのだろうな、と思った。そういう人だ。良くも悪くも臨機応変で、その場の気持ちというものを大事にする。
「それで、映画見て、次は……」
そして、その他にも予定を入れようというのだから、何とも欲張りで笑ってしまう。
「そうだ、総ちゃん。アーカムって水族館があるの知ってた……?」
「え、知らなかった」
「そう、実はあるんだよ。海沿いってほどではないけど、インスマスが近いでしょ? 漁村の。今まではARFとインスマウスの一部とでいざこざがあったからちょっと避けてたんだけど、もう完全にその辺りは解決してるし、この機会は逃せないかもって思って」
「インスマウス、かぁ」
総一郎は想像して、一言。
「なんか生臭そう」
「ぷっ、ふ、ふふふふふ……」
総一郎の率直なコメントがツボに入ったのか、白羽は弱弱しくも吹き出して、しばらく笑っていた。総一郎の手を引き寄せて、頬ずりしながら、肩を揺らしている。
「そんなに面白かった?」
「ふふ、うん。総ちゃんって穏やかな口調っぽいのに、たまにそう言う事言うから、面白くて好き」
「そりゃあ、白ねぇの弟だもん。見た目と中身にギャップはあるよ」
「ん、どういう意味~……?」
努めて元気らしく、冗談めかして怒った風な声色で、白羽は総一郎に聞いてくる。総一郎は白羽の頬を撫でながら、こう返した。
「白ねぇ、外見は儚そうな美少女なのに、中身は苛烈なくらいの元気っ子じゃないか。俺も同じだよ。穏やかそうに見えて、中身は結構はっきりしてるから」
「ふふ、そっか。そうだよね……。性格そっくりって、結構言われるもんね」
「うん。そうだよ……」
総一郎は、白羽に掴ませていない方の手で、滲んだ涙をそっと拭った。白羽は、こんな顔を望んでいない。精いっぱい、笑顔にさせようとしているのだから、応えなければ。
「アーカムの水族館ね、インスマウスとのいざこざで向かうときにちょっとだけ寄ったことがあったんだ。意外に生臭くなかったよ。それどころか、結構綺麗だったりして」
「本当に?」
「うん。透き通るような水に、大きなサメとか……、小魚の大群とか、亀なんかも泳いでたんだ……。しかもね、別料金でそれを見ながらご飯も食べられるみたいで」
「魚料理を?」
「そう。魚料理を……」
総一郎と白羽は、顔を見合わせて笑いあった。白羽が元気になったら、是非行ってみたい。だから、総一郎はこう語り掛ける。
「ねぇ、白ねぇ。いつ行こうか。冬になると寒いから、秋の内に行きたいね」
「うん、そうだね……。イッキーおじさんの市長選が終わったら、行こっか。きっと……楽しいから……」
言いながら、白羽は静かに寝息を立て始めた。話疲れてしまったのだろう。総一郎は白羽に毛布を掛けてから、椅子に腰かけ直す。それから、震える声で、袖で口を抑えながら、こう漏らした。
「……白ねぇと、また、楽しくデートしたいよ……。だから、お願いだよ。元気になってよ……!」
そんな、総一郎の願いは。




