7話 死が二人を別つまでⅩⅩⅥ
Jがジュニアハイスクールに何とか入学してから、少ししたある日のことだった。
「―――ど、どうしたんですか、シラハさん。それ、マナ、何があったんですか」
シラハが天使なのは知っていた。白い翼を見せてもらったこともあった。だがその日、その翼を真っ黒に染めた白羽は、ボロボロになったマナミを担いでJ達が住まうヒルディスの家に訪れた。
「……ウー君、ごめん。ヒルディスさん呼んできてもらえる?」
沈鬱な声だった。前髪の影に瞳が隠れていて、表情は伺えなかった。ひとまずJは頷いて、駆け足でヒルディスを呼びに行った。自室で娘との電話を楽しんでいた彼は、Jの剣幕に圧されて渋々玄関に赴き――絶句した。
「坊ちゃん、この番号に電話を! 元宴付きの医者の一人で、オレの名前を出せば話は通ります! 嬢ちゃんはひとまず休め。この子はオレがベッドに寝かせておく」
子供二人に素早く指示を出してから、ヒルディスは大声でJの祖母を呼んだ。何事かと起きてきた祖母は慌てて傷だらけのマナミを支え、大人二人で空き部屋のベッドまで運んで行った。
Jは指示された番号の医者にすぐ家に来るよう話して、電話を切ってからシラハに詰め寄った。
「シラハさん! 一体何があったんですか。マナはどうしたんですか?」
壁に力なく寄りかかって、彼女は俯いていた。見ればマナミとは比べ物にならないまでも、多少の切り傷を負っているようだった。
だが、それ以上に存在感を放っていたのはその真っ黒になった翼だった。シラハがプライマリースクールの時に見世物としてこっそりお披露目してくれた真っ白な翼は、誰もが魅入るほど美しかった。だが、その黒翼は美しさ以上に、鬱屈した何かが満ちていた。
「……い」
「今、なんて言ったんですか?」
Jにとってシラハはいつだって明るくて元気で、悪戯をした馬鹿を鉄拳制裁することはあっても、それ以上に引きずったりしない少女だった。他の誰にとってもそうだったろう。彼女の周りにはいつも笑顔が絶えなくて、何より誰よりも笑っていたのがシラハだった。
「……せない」
「あの、シラハさん。声が小さくって聞こえないです。だから、何、て……」
だから、こんな目をしたシラハを、Jは想像すらしたことはなかったのだ。
「許、せない……!」
燃えるような瞳だった。前髪の影に隠れていた目には、憎悪の炎が上がっていた。Jは思わず息をのんで後ずさった。迂闊に触れれば火に呑まれるという錯覚すら覚えた。
「あ、あの、シラハ、さん……」
Jの声に震えが混じった。そのことで初めて彼女は我に返ったようだった。黒翼は溶けるようにシラハの背中に消え、目を丸くした彼女はJを見つめた。
「あ……、ごめん。何か言った?」
いつも通りのように見えた。だが、何か決定的な部分が狂ってしまったかのようにJの目には映った。
両目が、抉り抜かれているという話だった。
医者が帰ってからシラハと共に部屋に入ったJが見たのは、両目に包帯を巻きつけたマナミの姿だった。一応ベッドの上で上体を起こして座る形で居た彼女だったが、Jやシラハの声掛けには何ら反応を示さなかった。
ヒルディス経由で聞いた診察の話では、両目を除いた身体的外傷は問題ない程度だったという。医学も発達した現代なら、市販の絆創膏を貼っておけば一晩ですべて治るとすら言われていた。
つまり、問題は精神面に集中していたということだった。眼球を無理やり抉り抜かれるという体験をしたマナミは、恐怖のために言葉を失い、呆然自失として会話すらままならない。ひとまず落ち着く精神薬をいくらか処方されたので、効果を説明したうえで飲ませるようにとのことだった。
「ヒルディスさん。おれに、何かできることってないですか」
また交流を取り戻し始めた矢先での事件だったのもあって、Jは焦れるような気持でヒルディスに尋ねていた。今まではそれほど仲のいい相手だったとは言えなくとも、ここで黙っているほどJはマナミに無関心ではなかった。
だが、肝心のヒルディスの返答はこうだ。
「すいませんが、思いつきません。ひとまず、目の嬢ちゃんの回復を待ちましょう」
「思いつきませんって……。でも、その、ほら! 医者には診てもらったけど、まだ親御さんには連絡できてないだろ!? おれ電話番号知ってるし、今から」
「それは、止めておきましょう。意味がないです」
「え、意味がないって、どういう……」
EVフォンを起動すべく親指を指輪の指紋認識にあてたまま、Jはヒルディスの真意がつかめずに固まってしまう。その理由を説明したのは、横からの声だった。
「もうとっくに連絡入れてたんだよ。だから、意味がないって知ってるの」
「シラハ、さん」
マナミの部屋から出て来ての発言だった。シラハはJが諦めても根気よく声掛けを続けていたが、今日は日も暮れて難しいという判断に至ったのだろう。俯き加減に下唇を噛みながら、J達の下へ歩みよってきた。
「意味がないって、どういうことですか。連絡が通じないんですか? それとも、留守だったとか」
「愛ちゃんの家ね、燃えたんだって」
「……は?」
Jは、その言葉の意味を理解するのに十秒近い時間を要した。それから、辛うじて問いかける。
「それは、何で」
「事実関係は私にも分かんない。でも推測するに、愛ちゃんの家絡みで起こった結構大規模な事件だったのかなって。お父さんお母さん、救急病院で確認取ったらどっちも焼死してた。愛ちゃんの家って日本人でも結構珍しい家業だったから、狙われたみたい」
「……そんなのって」
月並みな反応。ありふれた絶句。だが、Jはそれ以上にどうすればいいか分からなかった。少し前までは自分が誰よりも不幸だと思っていて、それが、こんな。
「私ね、復讐しようと思うんだ」
そんな混乱を破ったのは、シラハの短い一言だった。Jは思わず背筋を正して、瞠目と共に彼女を見つめた。
「今までは、亜人差別だ何だって言っても、私たちまであいつらみたいになっちゃいけないって思ってた。だから犯罪行為は当然、ちょっとした暴力行為だって駄目だと思ってた。――でも、違ったね。もっと深く考えればよかった」
「深くって、どういう」
「暴力行為が何でいけないのか、その理由も知らないのに私は『やっちゃダメなこと』って思いこんでたんだよ。日本とアメリカの社会文化の違いとか、法律のことも知らないのに」
シラハの言葉に、ヒルディスが興味深そうな目を向けていることに気が付いた。彼は、シラハに疲れを感じさせる表情で問いかけた。
「嬢ちゃんは、ジャパニーズだったな。なぁ、そっちの国とこっちの国の“亜人”の違いってなんだ? オレは北欧でも人界からかけ離れた場所の出だから、国によっての違いとかよく分からねぇんだ」
「……私の国では、日本では、亜人は限りなく人だった。まっとうな人権があったし、そもそも亜人の方が多いから純粋な人間も亜人の一種みたいに感じてた」
「じゃあアメリカの亜人は、どうだ」
「……」
言いにくそうに目を伏せ、しかしやはりヒルディスの目をしっかりと見返して、シラハは言葉にした。
「――生まれながらの、犯罪者。生きていることそのものが罪だっていう意識が、少なくともアーカムの社会には根付いてる」
「ッハハハハハハハハハッ! そうか、外の視点を持つ嬢ちゃんには、オレたちはそう見えるのか! 罪、なぁ。まったく宗教家こそ言いそうな話だ。となると、オレたちは人間どもに原罪を押し付けられたってか」
笑わせる。そうつぶやいたヒルディスの声色は、明らかに怒りの色がにじんでいた。
「私ね、生き別れちゃったお父さんが警察だったのもあって、私たちが法律を守るっていうより、法律が私たちを守ってくれてるって意識があったんだ。だから、法律が私を守るために私も法律を守らなきゃって」
でも、アーカムでは違うんだね。シラハは、静かで深い声でもって続けた。
「ここの法律は、生きてるだけで罪だって理由で、亜人を追い込んでいく。なら、それは私たちの敵ってこと。敵を守る必要なんかない。むしろ、倒さなきゃ」
「でも、シラハさん。法律を倒すって、どうするんだよ。警察でも皆殺しにしようっていうのか? そんなの無謀だ」
「分かってるよ。それに、警察が居なくなっても法律は消えないから。……法律は、民意を政治家が解釈したもの。なら、民意と政治家を挿げ替えれば、法律も変わる」
「つまり、どうしようってんだ?」
ヒルディスの訝しげな問いにシラハは口を閉ざす。少し考えて、思いついたように彼女は指を立てた。
「そうだ。アメリカ人って、ヒーロー好きでしょ? なら、亜人のヒーローを作るのってどうかな。亜人差別がいかに悪者であるかを社会に知らしめた上で、亜人のヒーローが苦難を乗り越え勝利するストーリーを流布するとか。亜人から犯罪者のレッテルをはがして、強くて逞しいヒーローだって喧伝する。そうすれば、この国の亜人認識も変わるかも」
「……なるほどな、まったく想像のつかない話ってわけじゃないらしい。だが、それなら政治家はどうするんだ?」
「政治家は簡単だよ。彼らは物理的な体を持つ。なら、物理的に交換すればいい。でしょ?」
J、ヒルディス共に表情を引きつらせる。思えば、この頃からシラハは滅茶苦茶だった。
「だから、今回の復讐をその狼煙にする。誰が何のために愛ちゃんの家を狙ったのか、何で愛ちゃんの両目を狙ったのかの事実確認を取ったうえで、実行犯、計画犯、関係した差別者の全員をつるし上げて、ヒーローが裁いたってことを何らかの手段で表明する」
シラハはそこまで言って、ヒルディスさん、と呼びかけた。
「手伝ってもらえる? 私一人じゃ、成し遂げられない。でもヒルディスさんの協力があれば、きっと実現できると思うんだ」
「……オヤジが捕まったから、しばらくは大人しくしてるつもりだったんだがな」
のそりとイスから立ち上がったヒルディスは、頷いて外に出たシラハに続いた。その途中で足を止め、彼は大きな手をJの頭に置いた。
「坊ちゃん、留守番は頼みました。天使の嬢ちゃんは一人にしておくと危なそうなんで、子守りについていこうと思います。なるべく目の嬢ちゃんの近くにいてあげてください」
「……分かりました、ヒルディスさん。そのくらい、おれに任せてください」
笑みと共に承諾すると、ヒルディスは笑い返して出ていった。それから、立ち上がってマナミの部屋を覗く。
暗がりの中で、彼女は寝ているようだった。だが、時折短い悲鳴が上がる。何事かと思って近づくと、爪がはがれかねないような力で布団を握りしめながら、冷や汗をかいてうめき声を殺している。
「ま、マナ……?」
目に包帯を巻いて震える様子を見るに、きっと悪夢にうなされているのだろう。Jは少し迷ってから、安心させようとその手に触れる。
それが、いけなかった。
「嫌ぁああああああああああああ!」
マナは弾け飛ぶように起き上がって、滅茶苦茶に腕を振り回した。Jはすぐに飛びのいたから問題なかったが、彼女はその過程で周囲の物に腕をぶつけ、バランスを崩し、ベッドから転げ落ちてしまった。
その激しい音を聞きつけたのか、「どうしたんだい!?」と祖母が扉を開けて言い放った。Jはすっかり動揺しきっていて、「ば、婆ちゃん、おれ、おれマナがうなされてたから、落ち着かせようと」と弁解する。
「……! なるほど、分かった。ひとまず、落ち着きな。落ち着いてから、あの子の姿をよく見るんだ」
深呼吸させられてから、Jは祖母の言う通りマナの姿を見た。彼女は怯えて地面をはいずり、気づくと部屋の隅でぶるぶると震えながら荒い息を吐いていた。
目につくのは、その包帯だった。目の辺りを覆うそこからは、きっと涙が流れるはずだったろう。だが眼球を失った彼女は涙を上手く分泌できず、血に交じった赤い液体を包帯に滲ませていた。
「ッ……」
言葉を失う他に、まだ幼さを残したJに出来ることはなかった。罪悪感にまみれた全身が急激に重くなるような感覚は、今でも忘れられない。
やれることなんて何もない、という鈍い無力感。
それを晴らすようにARFという組織がシラハによって立ち上げられ、亜人差別に対しての反対活動が合法違法を問わなくなったのは、それからすぐのことだった。
早朝。普通なら絶対に起きていないような、日が昇ったばかりの時間だった。
「狼さん、起きてくださいな。あなたに会わせてあげたい人が居ます」
拉致前は日中の大半を寝ていたようなウルフマンだから、その呼びかけに反応して目を覚ますのには多少の時間がかかった。まず第一声をいびきでかき消し、続く声を寝息で吹き消し、三度目の正直で僅かに開いた寝ぼけ眼をうろちょろさせて、声の主を捉えた。
「……心臓止まるかと思ったぞ」
「わたくしも次の呼びかけで反応がなかったらどうしてくれようかと思っていましたわ」
マザーが感情の伺えない奇妙な微笑みを浮かべるのに、ウルフマンは露骨に嫌な顔。朝一番に見る他人の顔がマザーのそれとか、普通に気分が悪い。
「あら、不快そうな顔ですわね。とてもいい表情だと思いますわ。ともあれ、一つ付き合ってくださいまし」
スムーズに抱きかかえられ、そのまま運び出される。部屋を出る寸前に視線を巡らせマナミを探したが、見つからなかった。恐らくもう働き出しているのだろう。ノア・オリビアのために。
ウルフマンは微かなもどかしさを飲み下し、しずしずと歩みを進めるマザーに尋ねる。
「おれに見せたいものって何だよ。どんなにグロいもん見せられても大した反応しねーぞ?」
「ええ、そうでしょうね。狼さんはそういう人ですもの。泰然として、壊れた恐怖心でもって揺るがない態度で居続ける」
だからこそ、わたくしはあなたを気に入りましたの。
マザーは、底冷えするような声音でもって語る。
「わたくしは『無貌の神』ですけれど、この体はやはり人間の物。だからなのかしら、わたくし、困難に挑むということが大好きですのよ」
「へぇ。退屈だから寝ていいか?」
「そう、あなたのそういう態度。生半可な干渉では破綻させられない、その緩み切った顔」
マザーは道を曲がる。まっすぐに伸びる、血痕のついた道が現れる。ウルフマンを持つ手に力が入った。
「どうしても、壊したくなってしまいましたの。狂ったように叫ばせ、死んだように嘆かせ、そんな風に歪んだあなたを、見たくなってしまいましたの」
迷いない歩みは血痕の道を一直線に突き進み、突き当りのドアに差し掛かった。淑やかな手がドアノブを回し、開かれる。
その先にあったのは、地獄だった。
「……ぁ、ぃっ、ゃ……」
まず抱いたのが、「まだ死ねないでいるのか」という率直な感想だった。それから一瞬遅れて、血の凍る思いに口端を引き締める。
悲しいかな、見慣れた光景の一つだった。尊厳を奪いつくし、殺される亜人は少なくない。彼らを助けようとして間に合わなかったことなど、もはや数えることを忘れてしまった。だが、それでも、思うところがないではいられない。
「……ヴァンプ」
ARF幹部の仲間であるヴァンパイア・シスターズこと、シェリル・トーマスがそこに吊るされていた。その惨状はもはや筆舌に尽くしがたい。割かれ、掻き出され、断たれ、剥がれ、赤く染まっていない肌を探す方が難しい。
「結構骨でしたのよ? 彼女、吸血鬼でしょう? 放っておいたらすぐに自分の体を治癒してしまう。それでなくとも霧になって逃げられたり、なんてことになったら目も当てられません」
おかしさを堪えきれない、という喜色に満ちた声で、マザーは語る。
「だから、いっぱい考えて対策を打ちましたの。吸血鬼の変身能力をどう制限すればいいか、吸血鬼の弱点は何か。体を拘束する、というアプローチで難しいなら心を縛るのも面白い、という発見をしましたわ。そうして完全に身動きを取れなくして差し上げたら、後はとっても楽しい時間でした。吸血鬼って滅茶苦茶をしても死なないんですもの。見てくださいまし。ほら、ここ。ここは『ノア・オリビア』ということでオリーブをイメージしたんですのよ。ああ、実に美しいでしょう?」
マザーはウルフマンを抱えたままヴァンプに近寄り、指さして自らの努力をアピールする。そうやって近づくたび、マザーが触れるたびに、ヴァンプはかすれ切った怯えの声を漏らした。
涙。
血と他の体液に入り混じったヴァンプのそれが、ウルフマンの顔に落ちる。それに気づいたマザーが「あら、いけない子」と言って、むき出しになった肋骨を無作法につかんだ。
躊躇なくへし折られ、ヴァンプは甲高い悲鳴を上げる。
「やだっ、やだぁっ、ごめんなさ、ごめんなさい! ゆる、許して、もうや、もうやぁ……!」
「ふふ、ああ、綺麗な悲鳴……。この声を聞くたびに、わたくし耳が蕩けそうになってしまいますわ。ねぇ、実に美しいでしょう、わたくしの作品は」
マザーはけひ、と嗤って、静かな声で続けた。
「まず、一人目です。一人一人見つけて、壊していきますわ。そうやってARFをすべて壊したら、最後はこのアーカムです。無力で滑稽な狼さん、あなたは最後の最期まで、わたくしと共にこの街の壊れゆく様を眺めさせて差し上げますわ」
優し気な手つきで、マザーはウルフマンを撫でさすった。ヴァンプはその様を、感情を失った目でもって見つめている。絶望。かつての味方さえもはや手の内であるとマザー直々に知らされて、ヴァンプの心は死のうとしている。
ウルフマンは思う。無力だと。もはや体のない自分には、現状に抵抗する方法など何もない。ヴァンプを助けることも、怒りに任せてマザーに殴りかかることも出来ない。
そんなウルフマンだからこそ、このセリフは言う事が出来た。
「ヴァンプ。悪い、おれはお前のことを助けられない。だから、耐えてくれ。諦めないでくれ」
「……ぇ?」
ヴァンプはかすれ声で困惑を示す。それから、体のどこにそんな水分が残っていたのか、震えながら涙を流し始める。
「そん、そんな、ひどい。わた、私、こんな、これを見て、まだ耐えろって、お、狼さん、ひどい、ひどい……!」
「ぷっ、あはははははははは! ああ、思わずはしたない笑い声をあげてしまいましたわ。にしても、狼さん、わたくしあなたのことを見誤っていたようですわ。この惨状を見て、その被害者に諦めるなだなんて! あなた、悪魔を頭の中に飼っていましたのね。見直しました!」
慟哭、嘲笑、その二つがウルフマンを挟み込む。だが、狼男は揺らがない。どちらもある程度収まったところで、また口を開く。
「耐えれる。だって、お前まだおれにキレるだけの元気があるじゃねぇか。流石ヴァンパイアの真祖だ。おれだって一瞬もうダメかと思った。けどお前はダメじゃなかった。なら、耐えれる。お前はまだ大丈夫だ」
「「……」」
続く狼男の言葉に、二人はそろって言葉を失った。常人なら死んでいるような惨状で、絶望の淵に居る相手に投げかけていい言葉ではなかった。ヴァンプは渦巻く感情の昂ぶりを、どう罵倒に変換したものか怒りで口を様々な形に変える。
狼は言った。
「シラハさんの言葉を思い出せ。冷静になるんだよヴァンプ。お前はここに拘束されて、拷問を受けて、何を失った? とりあえず、体は満足じゃないにしろ残ってるな?」
その言葉を受けて、ヴァンプはハッとしたようだった。肉体の三割を拷問で失った彼女に対し、ウルフマンは頭以外のすべてを失っている。物質的な話に限れば、ウルフマンの方がよっぽど追い込まれているのだ。
だが、ウルフマンは絶望しない。何故か。
「おし、落ち着いたな。あとは耐えろ。シラハさんたちを、信じて耐え抜け。おれは皆のことを信じてる。だから絶対に諦めない」
それは、ある種の妄信にすら映っただろう。だがARF最古参のウルフマンからすれば、根拠のある信頼だった。ARFは何度危機に陥ったのか分からない。それでも、何度だって立ち上がり、乗り越え続けて今に至ったのだ。
だが、途中参加のヴァンプはそこまでの覚悟を抱けない。震える全身で首を横に振り、不可能だと伝えてくる。
「狼さん、そんな、無理だよ。私、もうダメだよ。痛いの、すっごく痛いの! 何度も何度も細かく切り刻まれて、その度に死ねない自分の体が憎くなって」
「気を強く持ってくれ。どれだけ泣き叫んでもいい。喚いてもいい。でも、シラハさんたちが助けに来てくれたときに素直に笑える心だけは守り抜いてくれ。それが、おれたちに出来る全てだ。だから、おれたちに出来る全てをやるんだ」
「無理だよぉ! 一人で、あんなの耐えられないよぉ! 狼さんは味わったことがないから分かんないんだよ! あんな、あんな!」
半狂乱になって、涙を流し、切れた口端からよだれが垂れるのも気にせずにヴァンプは力説する。それにウルフマンは、落ち着かせるように言った。
「一人が恐いか? なら安心しろ、おれが見てる。おれが全部お前の頑張りを見て、イッちゃんに全部伝える。『ヴァンプの奴こんなに頑張って耐え抜いたんだぜ』って教えてやる。想像してみろ、あの背負いがちなイッちゃんだぞ? それを知ったら、ヴァンプの言う事の一つや二つ、何だって叶えてくれるだろうぜ」
その言葉を聞いて、ヴァンプは目の色を変えた。瞳に光をともし、下唇を噛んでウルフマンを強く見つめる。
「何でも? 何でもわがまま、聞いてくれるの?」
「ああ、何でもだ。もう何か月もずっと一緒に居たおれだから断言する。こんなに頑張ったお前の言う事に、イッちゃんがノーって言うわけがない」
「……!」
ヴァンプは、息をのんだ。狼は、続ける。
「だから、頑張れ。頑張って、耐え抜け。おれたちに出来る全てをするんだ。お前の出来る全ては、ヴァンプ、耐えることだ。何もかも耐え抜くことだ。どんなに辛くても、苦しくても、耐え抜け。そうすればシラハさんたちが助けに来て、イッちゃんがお前にご褒美をくれ」
る、とまでは言い切れなかった。ウルフマンを抱えていた手が我に返ったように動き、一拍おいて狼の頭を血だまりだらけの床に投げつけた。
衝撃、鉄めいた生臭さ。ウルフマンは血だまりに声もなく転がる。
「もう黙りなさいな、狼さん。本当、忌々しいお口ですこと。よくもまぁあなたのようなお馬鹿さんが、これだけのことを言ってのけましたわね。でもね、無駄。無駄ですわ。ARFの頭目を連れてくるのも、遅くて明日明後日には済んでしまうでしょう。お分かりかしら? あなたのしたことは、単なる無駄。無為な希望を吹き込んで、絶望の昏さを深めているだけ」
脳震盪に失いかけた意識を、マザーは強烈な踏み付けでもって取り戻させる。激しい痛みにウルフマンとて声を漏らしてしまうが、その心は決して折れない。
「おれは、おれに出来る全てをする。今おれに出来ることは、ヴァンプを励ますことだ。だから、ヴァンプ! 諦めんな! 辛くても、苦しくても、諦めんな! おれが見てる!きっと傍には居てやれないけど、それでもおれは、お前の苦しみを見て、イッちゃんに伝えてやる!」
「だから、お黙りなさいと言ったでしょう。本当虫けらのような頭脳をしているのね、あなたは」「――分かった」
「……今、何か言いましたか?」
僅かに苛立ちを滲ませた顔で、マザーはヴァンプを見た。だが、ヴァンプはマザーなど見ていない。狼を、そしてその先に居るイッちゃんを見つめていた。
「私、負けない。耐える。耐え抜く。だから、全部見てて。伝えて。私、ソウイチの隣に立ちたい。恋人はもう難しいかもしれないけど、それでもソウイチの隣に立てる人になりたい!」
「へぇ……? それはそれは、殊勝な心掛けですこと」
マザーはヴァンプの血に濡れた頬を鷲掴みにする。ヴァンプは僅かに怯むが、それでも視線すら向けない。
「だから、耐えるよ。私、耐え抜くよ。見てて、狼さん。私、こいつになんか負けないから」
「ふふ、ナマイキですわね。じゃあ試してあげましょう。さってと、じゃあさらに大きめの道具を用意しなくてはいけませんわね」
「ああ、見てる。遠くに居ても、こうやって話せる距離に居なくても、それでも見てる。お前の手柄は、全部おれが覚えててやる」
「ああもう、うるさいですわ。あなたもういいから、部屋を出なさいな」
毛を掴み雑に持ち上げられる。それからマザーは扉を開け、投げ出そうとして不意に思い出したように囁いた。
「ありがとうございますわ。まさかあなたに元気のなくなったおもちゃを元気にする力があったなんて。またしばらくして元気がなくなったら連れてきますから、その時はよろしくお願いしますね」
ポイ、と部屋の外に投げ出される。最後に見たのは、部屋の薄闇に浮かぶ酷薄なマザーの微笑みだった。扉は音を立てて閉ざされる。逆さまになったウルフマンは万感の思いに顔をゆがめそうになるが、それでもやはり、耐え抜いた。
表情は泰然としたまま、逆さまに揺れつつウルフマンは呟く。
「ヴァンプ、おれは見てるからな」
その激励は、扉越しには届かない。




