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武士は食わねど高楊枝  作者: 一森 一輝
自由なる大国にて
147/332

4話 『おばあちゃんの爪は、どうしてそんなに鋭いの?』ⅩⅣ

 胃液さえ、吐きつくした。


「うぇ、ぇ、ぇ……」


 もともと、ほとんど胃の中に物は入っていなかったのだ。朝食べたサンドイッチ以外、何も。そう、生涯初めて口にした食べ物すら、すでに消化されて久しかった。


「嘘だ、嘘だ、そんなの嘘だ……!」


 ウルフマンは取り憑かれたように繰り返す。どこかの路地裏の雪の上。吐瀉物が、薄く雪を溶かしている。


 ――ウッドの言葉の意味が分かって、ウルフマンはすぐさま逃げ出した。多少は追ってきたが、必死に狭い路地を走り続ければ撒けないこともなかった。


「……マナさんの助言……、ちゃんと、ちゃんと覚えてるのに……!」


 ウッドに初めて傷をつけられたあの日の事。ウッドは狭い場所の高速移動を苦手としているというアイの推測。正確に、鮮明に、覚えている。だが、これもスワンプマンでしかないという。ウッドの言葉を信じるなら。


『おいおい。いわば俺は、お前の生みの親だぞ。そう雑に扱うなよ』

『対話しようという気がないのか。俺にはお前をどうこうしようという考えはないんだぞ、“ウルフマン”』

『あくまでも逃げるというのか……。しかし、それならそれで考えがないこともない。どちらにせよ、お前が「修羅」で構成されていることに変わりはない』

『指一本でも触れれば、回収できるのだ』


「嘘だろ? おれが、アイにばっさばっさ斬られてた奴らと同じだって……? そんな、そんな事ってあるかよ……」


 呻く。同時、狼の聴力が捉える。ウッドの嘲るような呼び声。その逆方向に、必死になって走り始める。


 思考は、千々として纏まらなかった。ただ、訳も分からず逃げ惑う。


 何処を走っているのかも、判然としないのだ。生まれた時からこの街に居て、外に出た経験すら薄いというほど親しみ慣れていたはずだった。しかし動揺の為か、あるいは本当に“ウルフマン”であるからなのか、今自分のいる場所が分からない。


 ただただ焦燥があって、ただただ必死だった。


「そんな、そんなの嘘だ……。嘘だ……!」


 泣きそうになりながら街頭を駆け抜ける。意識は走ることにない。延々と、ウッドの言葉を反芻している。自分は偽物であると。その真偽。虚偽であれば問題はない。だが、真実なら。


 ウッドは、嘘つきだ。狡猾に、ウルフマンを騙してきた。その流れでいえば、ウルフマンが偽物であるという言葉もまた虚偽ということになる。一昨日のアイは偽物だった。その次に見せられた幻覚も、荒唐無稽ながら現実感があって、僅かながら真実だと信じ込まされた。昨日は、アイが大量のウルフマンに襲われ我を失った。それ以前から遡れば、ウッドの奇妙な戦い方にピッグは翻弄されっぱなしだ。――ウルフマンだけでない。ARFすべてを、奴は煙に巻いて惑わせようとしている。


 そこで、ウルフマンの思考はよじれを見せ始める。切っ掛けは、小さな疑問だ。


「……じゃあ、今は、ウッドは誰をだまそうとしているんだ?」


 小さな疑問だった。これだけ集中力に欠ける状況なら、そのまま忘れてもいいような自問だった。だが、不運にも声に出してしまったことが災いした。声として発され、自らの耳に戻ってきたがために、その命題は特別になった。


「……おれを騙していないなら、ウッドは誰を、どんなふうに騙しているんだ?」


 誰を騙しているかなど、考えるまでもない。ARF。その全てをだろう。どんなふうに騙しているのか。これもまた、決まっていた。


「……あ、そうか」


 “ウルフマン”が、ウルフマンであると、騙しているのだ。


「なら」


 力が抜けた。足が止まった。手のひらを見つめる。毛むくじゃらの中に潜んだ肉球。狼男。けれど、全くの偽りだ。


「おれには、虫ほどの価値もない」


 アイに斬り捨てられていったモドキたちを思い出す。それをして、羨ましいとさえ想う。再びウッドの一部に組み込まれるくらいなら、彼女に命を奪ってもらえるのが一番いい。


 涙が、落ちた。凍って、砕ける。


 足音を止めた途端、急に吹雪の音が耳の中で大きくなった。立ち尽くして、空を見上げる。今日も靄めいた闇が広がっていた。その下で、白色の粒が流れて川を作っている。遠い思いで、感じた。寒い、と。今にも凍えてしまいそうだ、と。


「何だ、結局待っていてくれたのか」


 顔を上げると、ウッドが居た。ニタリと笑みを浮かべた仮面が、じっと自分を見つめている。


「さぁ、戻ってこい。俺に、触れるだけでいいのだ」


 ウッドは雪の上に着地し、こちらに近づいて手を伸ばしてくる。もはや恐怖はない。むしろ、耐えがたい孤独を終わらせてくれるのだという安堵さえあった。震える手が、命じるまでもなく伸びていく。触れる。終わったと、思ったのだ。


「ウルフマンッ、惑わされてはいけませんッ!」


 雪が爆散し、ナイフが煌いた。ウッドの腕が落ち、ウルフマンは顔を覆って尻餅をついた。


「なっ、ア、アイ……!?」


「ふはははははは! ここに至っても邪魔をするかアイ!」


 動揺を示す少年と、高らかに笑い声をあげる悪魔。ウッドはすでに腕を生やし直し、彼女へと襲い掛かる。


 けれど、アイは戦いなれていた。昨日のような妙なことがなければ、アイはウッドに負けはしない。


「この場は食い止めます! だから、早く逃げてJ君!」


 しかしそれは、負けることはない以上のものではないらしかった。見ればウッドはケタケタと笑いながら、魔法を展開しつつ切り落とされた腕から何やら作り出しつつある。あの異形の体を以前より使いこなしているのだ、とウルフマンは気付いた。だからアイは、思わずウルフマンの本名を晒してしまうほど必死になっている。


「あ、え、でも、おれは、おれは本物じゃ……」


 ウルフマンは、縋り付くようにアイに語り掛ける。あるいは、本当に懇願しようとしていたのかもしれない。ウッドに殺されるよりもアイに殺されたいと。どうせ自分は偽物なのだから、と。


 アイは、そんなウルフマンの心情を考慮しなかった。


「ウッドに何をそそのかされたのかは知りませんッ。でも、あなたが今冷静でないことだけは分かりますッ。だから、逃げて!」


 ウルフマンは、反駁する。


「何が冷静じゃないだよッ! アイに何が分かるんだ! おれなんか、おれなんか!」


「“なんか”なんて言わないで! あなたは、私の大切な人なんですッ!」


 口を閉ざす。その気迫に、仰け反る。今更ながらに、アイもまた騙されているのだと理解する。だが、それ以上に突き動かされた。


「……ダメだ」


 アイが、ARFが、こんな狂人のために足踏みさせられてはダメだ。


 拳を握る。元々ARFに居たウルフマンは死んでしまった。自分が殺し、ウッドがそのとどめを刺した。彼はARFとしてその理想を叶えるべきだった。こんなところで死んでいい『人間』ではなかった。


 対して、自分はどうか。ウッドから生まれ、ウッドの為に利用されただけの作り物。そこに価値はない。ウッドの次に害悪なる存在。


 けれど、本当に自分には何もできないのか?


「……出来る」


 自分には、ウルフマンが持っていたものと同一の記憶がある。その中には、ウッドすら飲み込みかねない恐ろしいモノに対する知識がある。触れることは出来ずとも、ウッドを、自身の手でどうにかしてやることは出来る。


 ならば、やることは一つだ。


「―――――――ッ!」


 ウルフマンは、走り出した。吹雪の中、アイとウッドを置き去りにして、たった一つの目的地に向かって走り出した。ウッドは必ずアイを突破してウルフマンに追いつくだろう。しかしそれは奴の勝利を意味しない。単純にアイをすり抜けるというだけの話だ。


 その時、ウッドは消耗しているだろうか。分からない。しかし、追いつかれるまでにあの場所にたどり着けばいいだけの事。すでに目と鼻の先にある。そして、ウルフマンは雪を散らして立ち止まる。


 精神異常者たちが住む隔離地域。その、入り口。


「……」


 唾をのみ、進んだ。ウッドの気配はまだしない。走りはしないが、速足だった。夜の上に、ここは昼でさえ薄暗い。とはいえ、道は覚えていた。


「おう、宴のか。一人で遠路はるばるよう来なすった。ひっひ。まぁ、酒でも飲んでくんなせぇ」


 雪をものともせずに道端に座り込む、紳士帽をかぶった浮浪者。ウルフマンは、ちらと目をやって告げる。


「これからウッドが来る。危ないから、爺さんは逃げろ」


「……うけけけけけけけけけ! こうもあの人の予言通りとなると、笑いしか起きないねぇ!」


 狼男の老婆心からの忠告は、しかし老爺には届かなかった。心底可笑しそうに、妙なことを言いながら笑っている。


「……何だよ。先に言っておくが、守れるだけの余裕はないぞ」


「んなこたいいのよ、どうでもな。そんな事より、宴のがウッドを道連れに死のうとしていることが問題って話だ」


 協力してやろうか、と浮浪者は提案してくる。ウルフマンは眉を顰める。


「協力って、どうやって」


「何、宴の。お前さんはこの先の闇に足を突っ込もうとしてるんだろ? なら、明かりがなくっちゃあ始まらんよ。その明かりを、お前さんにあげようって話だ」


「……あのランタンを、貸してくれるのか?」


 それは、願ったりかなったりだ。ウルフマン自体、あわよくば、という考えがあった。だが代償としての酒の類を持っていない。だから半ば諦めていた。


 けれど浮浪者は、問いに首肯しなかった。


「いんや、あのランタンはあっしにしか使えねぇよ。だから、代わりをお前さんにやる。――ただし、条件があるからよ。それ、呑んでもらわねぇと」


 唾を飲み下す。耳を澄ませて、まだウッドがこの近くにいないことを確認する。しかしそれも時間の問題だろう。急かすような口調で「何をすればいいんだ?」と尋ねる。


「大したことじゃあねぇよ。ただ、死なないことを約束してくれりゃあいい。お前さんが死ぬと、面白くないとあの人は言ったもんでな。だから、死んでくれるな。お前さんはあの人にそっくりなんだ。いやさ、あの人がお前さんにそっくりなのかね」


「……?」


「漆黒の肌と高い背丈。あの人は文献通り神父だった。出張だの、経過観察だのと言って居なくなっちまったがね。ちょっと茶々を入れていこうかとも言っていた。もうこの街にゃあいないだろうがね。昔はあっしもやんちゃしたもんだった……。あの人に目をつけられなかったのは、本当に幸運だった……」


 浮浪者は遠い目でぼやいている。とうとう焼きが回ったか、と疑っていると、彼は帽子からマッチを取り出してウルフマンに渡した。


「これで、どうにかするこった。マッチならすぐ点けられらぁな。ただ一つ。注意点としては、五秒だ。五秒間闇に包まれたら、呑まれて出れねぇだろうね」


「……ありがとう。やれるだけは、やらせてもらう」


「うけけけけけけけけけけけ! 楽しくなってきやがった。遠くから、のんびりとお前さんの奮闘を見させてもらうぜ」


 浮浪者は、濃い毛に包まれた白い手を出して、ぐっと親指を立てた。「グッドラック」とウルフマンの背中を押す。ちょうどその時、ウッドの声を狼の耳が捉える。「おい、お前も逃げた方が」と言うと、浮浪者は肩をすくめて言った。


「遠くからって、言ったじゃねぇの」


 彼は酒を煽って、クックと笑った。そして、沈黙する。ぞわ、と毛が逆立った。かつて彼は、自らをしてこの辺りでは珍しく話が通づると言っていた。けれど、自分は狂っていないとも言わなかった。


 目の前の老爺からは、すでに生の気配を感じない。ウルフマンはしばらく見つめていたが、結局理解を諦めて闇を覗く。深淵を覗くとき、深淵もまた覗き返しているというが。


「……大丈夫だ、震えるな。どうせお前は、ウッドの残りかすみたいなもんだろうが」


 ウルフマンはマッチに火を点し、闇に足を踏み入れた。すぐに、ウッドが追いついてくる。


「ふふ、ふはははは、アイを巻くのには手を焼いたぞ。しかし、やれるだけはやった。見ろ! 綺麗なものだろう!」


 闇の入り口で、ウッドはアイの生首を投げ出した。彼女の目に焼き付いた、絶望の色。


「全く、馬鹿なものだな。お前が俺の一部だとも知らないで。偽物を庇って死ぬのだから笑ってしまうよ。ふ、ふふ、ふはははははは!」


 だが、ウルフマンは鼻で笑う。


「お前の手口は、もう分かりきってるんだよ」


「――分かりきっている、とはよく言ったものだ。ならば、お前は本物という事になるな。という事は逃げる必要もなかろうに。ほら、試しに俺に触れてみるといい」


「……」


 一歩後退する。闇の、一歩奥へ。マッチは、ぼんやりとか細く闇を払っている。


「ほう? ウルフマン、お前――」


 くくっ、と珍しく隠すようにしてウッドは笑う。奴にも、この闇の正体に心当りがあるというのか。あるだろう。今更、楽観的観測に身を任せられるほど、少年は豪胆ではない。


「……なるほどな。いや、うん、面白い。それは大きなアドヴァンテージだ。逃す手はない。逆に言えば」


 ウッドは、一歩前に足を踏み込んでくる。


「その明かりを奪われた時、俺の勝利という訳だ」


 ウッドの肉薄。しかし、読んでいた。ウルフマンは踵を返して一目散に逃げだす。ここは路地だ。地の利はウルフマンの手にある。


 全速力。振り返ることはしない。闇のうごめく音が、ウッドの不利を証明している。そう思った瞬間、マッチの火が消えた。闇の意識がこちらに集まる感覚。息が、止まった。


 ――――速く、走りすぎたのだ。


 焦りながらウルフマンは、新たなマッチに火を点けなおす。五秒は、かからなかったろう。ぼぅと灯る小さな明かり。闇が遠のいていく気配。安堵の吐息漏らした瞬間だった。


「未熟だな、ウルフマン。もう少し、満遍なく注意を巡らせることだ」


 背後。すぐそばからの声だった。飛び退る。ギリギリ、火は消えなかった。向き合うと、下半身を失くしたウッドが地面に這いつくばっている。


「あ、お、お前……」


「持っていかれたよ。ああ、負けだ。許してくれ、ウルフマン。もう何もできない。親友だったろう? 助けてくれ」


「……」


 揺れる。その無残な姿。闇に対する恐怖と、見殺しにする罪悪感。だが、打ち勝った。


「――嘘つけよ、詐欺師が」


「バレてしまっては仕方がない。正面から挑ませてもらおう」


 ずぬっ、と一息に下半身を再生させたウッドは、そのままの勢いでウルフマンに躍りかかった。反射的に狼男は爪を構えるが、触れただけで危ういのだと思い出して距離を取り直す。


「そう何度も突き放されてはやらんぞ、ウルフマン! さぁ、真剣勝負だ!」


 魔法と、鋭い徒手空拳。細かく避けながら、ひたすら路地を進む。魔法は巧妙で、直接攻撃から壁の破壊、酸素や毒と言った空気への干渉と言った様々な方法でウルフマンの動きを邪魔しようとしてくる。


 けれど、決して殺そうとはしてこない。ただ、触れるべく手を伸ばす。その様が、ウルフマンの恐怖心を、否応にも高まらせていくのだ。


「くっ」


 逃れなければ。ウルフマンは、ウッドの攻撃をさばきながら考える。だが、その方法が思いつかない。ウッドの手。躱す。下がる。足が雪を踏んで音を立てる。ウッドが笑う。考える余裕などない。


 死んでもいいじゃないか、と頭の片隅で思う。所詮自分はウッドの分身に過ぎず、もともと死ぬつもりだっただろうと。


 ――それなら、話は簡単だ。マッチを消して、素直に取り込まれてやればいい。そうすればウッドは自分を回収すると同時、今度こそ全身を『持っていかれる』だろう。


 しかし、約束がある。先ほどの老爺。死なないと約束し、マッチを受け取った。約束。その約束に本当に守る価値があるのか否か。あの狂人に義理立てすべきか。


 ウッドの手が、僅かに掠った。大きく距離をとると、風で火が消える。考える前に、点けていた。明かりが戻る。闇の中から、腕を失ったウッドが這い出てくる。


 ウッド。ARFだけにとどまらない、アーカムの脅威。多くの人を殺した。亜人も、差別者も、それ以外も、分け隔てなく。かつては親友だった。いや、イッちゃんとは今でも親友のつもりだ。だがウッドは昨晩、イッちゃんの死を仄めかした。そして今、ウルフマンはウッドが生み出したまがい物だ。


 彼らは、この世のどこにもいないというのか。


 本当に?


「嘘だ……」


 訳が分からなくなっていた。目の前から襲い来る敵に何故反撃しないのかと疑問に思い始める自分がいた。ぼぅと灯るマッチの火は幻惑的で、ともすればウルフマンは、この薄暗い争闘の場で催眠状態に陥っていたのかもしれない。


「嘘だぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああ!」


 何も考えずに振るった爪は、まず壁に当たり、砕け、そしてウッドを吹き飛ばした。マッチの火はかき消され、ウルフマンは闇に対する本能的な忌避感より走り出す。


 すでにマッチは手元にない。ビル同士の隙間にうまく滑り込んだ穏やかな雪を弾き飛ばしながら、狼男は一心不乱に駆け抜ける。五秒間の制限も、後ろから襲い来る何物かも、そしてウッドすら置いてけぼりにして、その俊足は気付けば明るみに少年を運んだ。


 勢いを止められず、ウルフマンは闇から出た瞬間にスッ転んだ。何度も縦に回転したのち、壁にぶつかって停止する。


「あがっ、……はぁ、はぁ、……く」


 路地から抜けた先は、貧民街だった。ごみの上に積もる雪が、それを教えてくれた。思わず漏れる荒い息は、体の疲れの為ではない。焦燥と畏怖の産物だった。


 左手を見る。爪が砕け、血塗れだった。だが、自分から切り離されたことで、ウッドに対して効果を持った。見つめながら、呟く。


「……結局、生き残っちまった」


 立ち上がった。その場に何があるか分かる景色は、ウルフマンを正気に戻した。と共に、空しくなる。生き残って、何になるのか。


 歩きながら呼吸を整える。しばらく歩いていると、家の近くだと気付いた。そのまま、家にたどり着く。古びた我が家。祖母のいる場所。


「少し前に、こんなことあったな。――確か、あの、幻覚を見せられた時に」


 気付いたら家の近くで佇んでいた、ということ。あの時、祖母は自分を呼んでくれた。幻覚だから。現実でないから。しかし、あの時の心を震える感覚はあまりに温かくて、偽りの記憶に刻まれてはがれない。


 自分からもっとも縁遠い場所だった。祖母は現在のジェイコブをジェイコブと認めることが出来ない。それどころか、ここにいるウルフマンは本物のジェイコブですらなかった。拒絶される、されないの話でない。元から、偽物なのだ。


「……おい、止めろよ。近づくなよ」


 痛いほどに理解していた。理解していたはずなのに、体が動いた。光に惹かれる蛾のように、ふらふらと家明かりに寄って行く。


 アイは、先ほど助けてくれた。とするなら、祖母自身が動いている可能性が高い。彼女はジェイコブなど、成長によって激しく外見が変化した者を認識する事が出来ないが、それ以外はしっかりしている。妨げになるものがなければ、普通に家事だってこなすのだ。


 その時、家の中で影がちらついた。思わず、身をかがめて隠れる。


「……? 今、何かいたような……」


 祖母の声だった。こんなに穏やかな声を聴くのは久しぶりで、ウルフマンは自分の顔が歪むのが分かった。けれど、これはまやかしだ。『ジェイコブの祖母』と自分が会うのは、これが初めての筈なのだから。


「あ、もしかして、Jかい? そこに隠れてるの」


 びく、と震える。息を殺す。けれど、祖母は呑気な笑い声をあげて語り掛けてくる。


「何だい? 早く入っておいでな。それとも、夜遅い時間に出かけたから、怒ってると思ってんのかい? 馬鹿だねぇ。アンタも男の子なんだから、そんな小さなことでグチグチ言わないさ」


 案外臆病なんだねぇ、なんて言って、くつくつ笑っている。思わず、「婆、ちゃん……」と声に出してしまう。そして、血の気が引いた。口を手でふさぐ。また祖母が、『ジェイコブを何処へやった』と狼に変化して襲い掛かってくると想像した。


 しかし、そうはならなかった。キョトンとした声で、窓越しに聞いてくる。


「どうしたんだい? そんな泣きそうな声で」


 胸を突かれたような気持になった。嗚咽を、必死になって堪える。気づけばウルフマンはジェイコブになって、壁に背をつけて体育座りになっていた。吹雪は止んでいない。なのに、何故か寒いとも思わなくって、そのままその場に縮こまっていた。


 Jと呼ばれること。その声音が朗らかなこと。何年ぶりだろう、と思う。次いで、いや、初めての事なのだ、と気づく。ならばこの感傷に意味はない。意味はないはずなのに、涙が流れて止まらない。


「婆ちゃん……、おれ、おれは、いったい誰なのか分かる……?」


 意識せず、意味の分からない言葉を口走っていた。涙声で、ちゃんと祖母が聞き取れたかも怪しい。にもかかわらず、「ああ……」と少し可笑しそうな、納得の滲んだ言葉が返ってくる。


「時が経つってのは早いもんだねぇ……。Jにもそんなことを考える時期が来たかい。全く、色々あったからねぇ。苦難に晒された子っていうのは、いつも早熟で」


 微笑ましいような、少し寂しいような笑みが零れたのが分かった。それに、今度はジェイコブがキョトンとする。すると祖母が悩むような声を出し始めたから、静かに耳を澄ませていた。


「そうだねぇ……。Jは、自分は何者だと思うんだい?」


 それは、昼間見た夢を彷彿とさせる問いだった。


「……分からない。言葉にしようとしても、すぐに違うって言葉が浮かぶんだ。そんな言葉じゃ、自分を表せないって」


「ふぅん……。分かりやすく迷走してるって訳だ」


 ぐっさりと遠慮のない言葉がジェイコブを貫く。しかし、それさえも懐かしい。祖母の話始める気配を感じて、泣き笑いのような顔で黙り込む。


「アタシから言わせりゃね、そいつが誰なのかーなんて、そいつが今までやってきた事、そしてこれからやってく事が決めるもんだ。正義を為せば正義。悪を為せば悪。賄賂や横領に手を染めた警察は悪だし、貧民のために悪徳企業に強盗して、その金を貧民にばら撒いたならー、……このたとえはダメだね。正義とは言い切れない。が、アタシはこういうのが好きでねぇ」


 かっかっか! と高く笑う。何やらカチャカチャと音が聞こえ始める。話しつつ皿を洗い始めたのだと気付いて、婆ちゃんらしい、とジェイコブは肩をゆする。


「そうさねぇ、まずは、昔話をしてあげようか。――J、アタシには爪がある。誇り高き狼の爪さ。けれど、昔のアタシはそれを自分のメンツを守るためだけに使っていた。ついたあだ名は『女狼』。近寄りがたい強い女。……けどねぇ、そんな血生臭い生き方してきた女を、嫁にしたいっていう男が現れた。アタシは絶対になるもんかって思ってたんだけどね、気付けばぞっこんさ。旦那と一緒に生きていこうって、そう思うようになった」


 聞いたことがあった。祖母と祖父はおしどり夫婦だったのだと、父が語っていたのだ。記憶には薄いが、祖父に赤ん坊のころ、抱き上げられたような気がする。葬式は、幼心には理解できないままに、始まって終わった。


「生活は一変したよ。元の稼業からは足洗って、籍入れて、酒場を始めた。気付けば『狼酒場の女将』なんて呼ばれるようになってねぇ。その時はもっぱら、店を守るために爪を振るった。ミヤに随分と世話見てもらったよ。面倒くさい客のあしらい方なんかを教わったりねぇ。子育てなんかも手伝って貰っちゃってさ。頭が上がらないったら」


「……その頃から、ミヤさんいたのか」


「本当、全然老けないよねぇあのちびっ子は。でも、アタシが穏やかに丸くなっていけたのに、一役買ってくれたのは間違いないさ。子供産んで、育てて、デカくなった我が子に店を譲って隠居――なんて、あの時は想像もしてなかった」


「じゃあ……今は? 今の婆ちゃんは、何のために爪を振るうんだ?」


「ンなもん、家族のために決まってるさぁ! 息子夫婦がそろって親不孝したもんだからね。大事な初孫を守るために、この爪を振るうのさ。だから、今のアタシは『Jんとこの婆ちゃん』ってとこじゃないかい? アッハッハ!」


 高らかに、祖母は笑う。ジェイコブも、涙をぬぐいながら口元の笑みを堪えきれない。分かっていた。きっと今だけだ。今だけの奇跡だ。いつもはもっとぼんやりしている。こんな――明瞭には話せない。


 祖母は、ねぇ、と語りかけてくる。


「J、ジェイコブ。アンタは、何がしたいんだい? アンタさっき泣いてたろう。思春期ってのはデリケートだから、細かいことは聞かないし、無理に家の中に入れなんてことも言わないけどさ。アンタが抱えてる悩みはきっと大きいんだろう? 他の誰かが何と言おうと、アンタからしてみれば手に余るほど大きいんだろう?」


「……うん」


「なら、そういう時は、自分が何をしたいのか、考えてみることさ。出来る出来ないなんてことは、アンタみたいな若いのが考えちゃいけない。若い頃の苦労は買ってでもしろ、なんていうのはね、若いうちは失敗が許されるからそう言ってるんだよ。半端に年を取るとねぇ、失敗が許されなくなる。だから、出来るうちにいっぱい失敗して、起き上がり方をちゃあんと学んでおくのさ」


 祖母は、柔らかな口調で言う。


「やりたい事をおし。アンタには、アンタの爪がある。その爪の振るい方を決められるのは、世界中でアンタだけなんだよ。だから、やりたいようにやりな。ぶつかりたいようにぶつかりな。誰かが文句を言ったら、それが『ジェイコブ・ベイリー』なんだって言ってやりな。他人の言葉なんてね、信じたい事だけ信じて、それ以外は無視したって構いやしない。J、アンタは、アンタなんだ。失敗したっていい。アンタには、アタシがついてる」


「……うん……!」


 深く、頷く。こぶしを握る。やりたいようにやる。信じたいものを信じる。やりたいことは何か? 信じたいものは何か? 決まっている。誰もが幸せな理想の世界くらい、ジェイコブにだって、いや、ジェイコブだからこそ、想像できる。


 力強く拭ったら、涙は止まった。まずは、信じたいことを信じよう。腹に力を込めて、祖母に告げる。


「婆ちゃん! おれ、行ってくる」


「……ああ、行ってきな!」


 激励に背中を打たれて立ちあがる。するとジェイコブの姿を見た祖母が、我に返ったような声を漏らす。ああ、と少年は理解した。魔法は解けたのだ。けれど、構わない。祖母からはもう、勇気を貰った。


「婆ちゃん。待っててな。ARFがアーカムを変えて、亜人用のアルツハイマーの治療法が確立したら、いの一番に婆ちゃんを治すから」


「お、おい……、アンタ、本当に、Jなのかい? Jは、もっと背が小さく――」


「成長したんだよ。おれって何なんだろうって、質問するくらいにさ」


 言い残して、変身し、駆けだした。声が追いかけてきたが、気にしない。目指すは――どこだろう。いいや、気にする事じゃない。


「……気が向いたところに行けばいい。きっと、居る」


 あの闇の路地の出入り口の何処かだろう。その中で、因縁のある場所。ならば、あそこだ。三日前、大虐殺が行われたあの場所。


 遠い場所ではなかった。だから、すぐに到着した。『Happy New Year』前のビルの屋上。そこには、すでに奴がいた。体をぼろぼろにして、しかし薄気味悪い笑みは絶えない。


「……今日は、もう会わないと思っていた」


 ウッドは自分で作り上げた『Happy New Year』から目を離し、振り向いてウルフマンに視線をやる。吹雪は止まない。強くも、弱くもならないままに吹き荒ぶ。


「今日は、俺の負けだと思ったのだがな。まさか再戦させてくれるとは思っていなかったぞ」


「……再戦じゃねぇよ。毎夜毎夜の悪夢に、決着をつけに来ただけだ」


「ほぅ……?」


 ウッドは、心底可笑しそうに仮面を歪める。風の鳴る音が響く。


「決着、決着と来たか。ならば、捨て身の特攻でもするか? しかし、それは少々時期外れと言わざるを得ないな。先ほどのあの道――無形の落とし子だらけの路地でその決心をするべきだった。でなければ、お前は俺に取り込まれて終わりだ」


 ケタケタと、嗤っている。それが、今は空疎に見えた。これまでは底知れない不安に駆られたのに、目の前の奴は強がっているようにしか映らない。その姿は、まるでスノードームの中の人形のような悲しさと寂しさがある。


 ウルフマンは、まっすぐな目で言った。


「取り込まれねぇよ。おれは本物だ。本物のウルフマンだ」


「……何?」


 聞き返す声。狼男は、確かにそこに困惑を確信した。


「お前は、一体何を言っている。……いいや、そうだな」


 二ヤと笑って、ウッドは手を差し伸べてくる。


「なら、触れてみろ。それで、明らかになるだろう?」


「ああ、触れてやるさ。おれなりの方法でな」


 右手の爪を伸ばす。左手のそれは、先ほど無理をして砕けてしまった。だから、これが唯一の武器だ。唯一にして、勝利の一撃だ。


「……何だ、それは」


「なぁ、ウッド」


 無視して、語り掛ける。


「最初の夜で、おれは一人きりになった夢を見た。おれにはただの一人の仲間もいない、そんな夢だった」


「……そうだな。後日改めて覗かせてもらったが――予想以上に面白かったぞ、楽しませてくれてありがとう」


「二日目の夜は、アイがおれを判別できなくなった。この世で一番大切な人たちの一人が、おれを信じられない状況を作った」


「ああ! あれは我ながら傑作だった! ウルフマンウルフマンといじらしいアイが、お前と本物のウルフマンを見間違えた挙句、結局本物をむざむざと殺されたのだからな!」


「そんでついさっき、最後の夜、おれは、おれを信じられなくなった。おれは、本物じゃない、偽物のウルフマンなんだって、そう思った」


「お、やっと認めたか。ならば、ほら。戻ってくると良い。そうすれば、すべてに決着がつくぞ」


「でも、違う。今なら、言い切れる。おれはおれだ。ウッド、お前が何と言おうが――おれがおれだと認めてる。だからおれはおれなんだ」


「……は?」


 ウッドの仮面から、表情が失せる。無表情の仮面が、首をかしげながら問うてくる。


「言っていることが、意味不明だぞ。もっと理論立てて話してくれないか。何故、お前が本物のウルフマンになる」


「おれが、そうだと思ったからだ」


「……ふ、ふふ、ふはは! ウルフマン、お前は本当に馬鹿なんだな。何なら、証拠を示してやろうか? いくらでもあるぞ。お前が偽物の、俺が作り出した紛い物である証拠を」


「要らねぇよ。いくら示されたって、おれは信じないんだから」


「……ウルフマン、そう無意味に頑なになってどうする。そんな事を言って、お前が俺に一撃くれた瞬間に俺に取り込まれたら、恥などというものではないぞ。というか俺がもう恥ずかしいからやめてくれ」


「だから、本当はどうなのか、なんて関係ねぇんだよ」


 ウルフマンは、一歩踏み出す。


「おれがおれをおれだって認めた。それ以外に、おれがおれである理由はいらないんだよ。おれがおれをARFのウルフマンだって認めた。おれがおれを婆ちゃんの孫だって認めた。そして、おれがおれを―――――――イッちゃんの親友だって、認めたんだ」


 その言葉を受け、ウッドは動けなくなる。


「……ぅ、ぁ?」


「なぁ、ウッド。いいや、……イッちゃん。おれはさ、何度も何でって思った。イッちゃんはちょっとばかし意地悪なところがあるし、おれとイッちゃんの付き合い自体短かったけどさ、それでも、こんなことをする奴じゃなかったことは分かりきってたんだ」


 視線の先には、今も厳然とそこに残る『Happy New Year』。火の鳥はいまだ雪に負けずそこに佇んでいる。警察はこの雪に乗じて、鳥の弱体化を狙って再び強襲を掛けるつもりだという噂があった。ARFの本部で、亜人たちが集まって話していたのだ。


「その、その名で、呼ぶな……」


「イッちゃんは仙文の方が好きだったし、もしかしたらおれだけだったのかもしれないけど、おれは、イッちゃんと親友のつもりだった。だから、ショックだったんだ。仙文はただの一般人だから、代わりにおれがイッちゃんの引導をって考えてた。ピッグの指示通り、数日間データを取るために攻撃を一度もしないでさ」


「だから、言うなと言っただろう……! 俺は、ウッドだ! 総一郎じゃない!」


「でもさ、悩んだよ。いろいろ変なことされたけどさ。それでもおれは、イッちゃんを殺したくないって思ってたんだ。イッちゃんに『ウッド』っていう狂人のレッテルを貼り付けて、諦めたくなかった」


「何を……、何を、言っている……? 正気か、ウルフマン? 俺を、殺したくない?」


「気付いたら、早かった。心は、すぐに決まった。やっぱりさ、おれは甘ちゃんなんだ。おれたちを導いてくれたシラハさんの弟。初めはそれだけだったのが、いつの間にかかけがえのない友達になってた。友達殺すなんておかしいよな。だからさ、イッちゃん。おれ、決めたよ」


 ウルフマンは、ニッと笑った。


「おれはお前を殺さない。友情アタックでフっ飛ばして、ふん縛ってから元通りにする。いくら時間がかかっても、ARFの全員を説得して、みんなに協力してもらって、ウッドをイッちゃんに戻すんだ」


「……お、お前……」


 ウッドは信じられない目でウルフマンを見つめる。ウルフマンは、構えをとって、力を溜め始めた。


「だからよ、大人しく食らってくれよ。思い出したらずっとおれ、一方的にやられっぱなしじゃねーかってムカムカしてきたんだ。――さぁ、行くぜ。友情の一撃だ」


 いっそ不自然なほどに狼狽えるウッドは、魔法も何も行使せず、ただただ震えながらウルフマンを見つめていた。一方狼男の少年は、力を溜めきって動き出す。


 狼男の一歩は素早く大きい。そのしなやかな肉体は、あらゆる動物のそれを置き去りにする。肉薄。それをウッドは捉え切れない。狼の黒い影は上半身を回転させて進んだ。肩から肘、手、そして爪へと遅れて走り出し、そして追い抜かしていく。


 脚力、腕力、遠心力。その全てを集約された鋭い爪。それは、刹那の瞬間音速に帯びる。


 その時、この三日間で初めて、ウルフマンは攻勢に回った。


 爆発染みた音だった。ウルフマンはウッドに一撃くれてやった後、爪にひびが入るのを感じた。「痛って」とぼやいた次の瞬間、奴の肉片が少年を飛び越して屋上中に散らばった。大抵は細かなものばかりだ。だがひと塊、ウルフマンから少し離れたところに墜落する。


 肉のほとんどを削ぎ取られた、ウッドの上半身。血も流さないまま、けれどすぐに再生しだす様子はない。いつしか止んでいた風のために、しんしんと静かに降り積もる雪を一身に受けている。


「……はは、おれの勝ちみたいだな、イッちゃん」


 ウルフマンは親友の体力切れを見て取って、一息に脱力した。その場にすとんと腰を下ろして、「かー、疲れたー!」と伸びをする。


 するとタイミングを見計らったように、ウルフマンと呼び声を上げて現れる者たちがあった。アイ、そしてピッグにその配下たち。確認するまでもない事だったが、アイの無事を知って僅かに少年は安堵する。


「や、みんな遅かったな」


「遅かったって、え、だ、大丈夫なんですか!? わた、私、ウッドを取り逃がしてしまって、それで~!」


 緊張の糸が張り詰めて切れでもしたのだろうか。アイは変装前のような調子で、ウルフマンの手を取ってくる。対してピッグは冷静にウルフマンのそばに立って、尋ねてくる。


「……もう、勝負は決まったのか?」


「はい。……もう、イッちゃんも限界だと思いますよ」


 目をやる。その先で、ウッドが力なく横たわっている。もう、反抗する余力はないだろう。一安心だ。


 そう思って、回収するべく立ち上がる。次いで近づこうとしたら、ピッグがそれを制止した。固い表情。ウルフマンは、首をかしげる。


「どうしました? まだ、何か問題が?」


「……なぁ、あいつ、何か言ってないか?」


「はい?」


 その言葉を訝って改めて見つめる。すると、確かに口元がうごめいていた。それは、微かな声。鋭い聴覚を持つピッグやウルフマンだからこそ、かろうじて気付くことが出来たような言葉だった。


「……何故、何故、―――――んだのに。―――は……」


 ウッドは、細かく体を揺すっていた。ウルフマンは、表情を歪める。その様子が、まるでしゃくりあげているように見えたのだ。実際に泣いている訳ではないのに。


 奴の声は、だんだんと大きくなる。「何故、何故」と何度も繰り返し、ウルフマンは当然、アイやピッグの配下たちにも十分聞こえるほどの声量で、「何故」と言葉を絞り出す。


「―――は弱ったのに。孤立無援で。誰の手も借りられない状態で。孤独と戦いながら衰弱していったのに」


 何故の声は続く。ウルフマンは、先ほどの自分の言葉を想起する。


「―――は壊れたのに。愛する人との決別で、信じる人からの否定で、支えを失って崩落したのに……」


 涙声で、ウッドは言葉を紡ぐ。「否定……?」とピッグか何かを思い出す。


「―――は死んだのに。アイデンティティーの崩壊で。自分を見失って『修羅』に呑まれて消えたのに……っ」


 ウッドは、嗤いながら泣いていた。


「総一郎は殺されたのに。孤独に、掛け替えのない人の喪失に、自己と自我の破綻に殺されたのに……!」


 ――なのに何故、ウルフマンは死なないのだ。総一郎と同じ道を辿らせたのに。


 ウッドの独白を最後に、雪は静寂に包まれた。誰も彼もが言葉を失って、ウルフマンはその言葉の深いところを感じ取って竦み上がる。今までの悪夢染みた夜には、どこか一貫性があったことは感じていた。けれど、まさか、そんな。


「……お、おい。ウッド、……もしかして、本当なのか? イッちゃんが死んだって言うのは、そういう事なのか? でも、何で。何がイッちゃんの身に――――」



「―――――――――まぁ、そんな事は今はさておこうか」



 喜悦に富んだ声だった。まるでドミノ倒しの逆再生をするかのように、ウッドは笑いながら立ち上がった。すでに下半身は再生している。いつ復活したのか、全く気が付かなかった。


「えー、今回ウッドこと俺とウルフマンの対決だが、勝敗につきましては勝負に負けて試合に勝ったというところとしようか。もはや俺とウルフマンの戦いに生産性は見られない。ならば、ひとまず賞品だけもらって帰らせていただこう」


「は? いまさら何を言って」


 ウルフマンが困惑と共に言い返した瞬間だった。アイは、ウルフマンの首と胴体が離れたのを見逃さなかった。それはまるで、シャンパンのコルクが弾け飛ぶさまによく似ていた。くるくると空中で弧を描き、ウッドの手元におさまったのだ。


「……え、あ、……え……?」


 ARFの誰もが戸惑っていた。理解が追い付かず、彼らがウルフマンの死を受け止めるよりも先に、狼男の体は雪の上に沈んだ。その重苦しい音が、アイの脳を刺激した。ぶるりと一度全身に痺れを走らせてから、じわじわと染み入るように怒りに狂っていく。


「あ、うる、ウルフマン、ウルフマン……。――よくも、よくも、よくも……!」


 彼女の一歩は雪を全て踏み散らした。日本仕込みの多彩な魔法が、構えた大振りのナイフの周囲で巡りゆく。突き出された左手の中央で、血走った瞳が開かれた。アイ。彼女の、たった一つの目。


「よくも、ウルフマンを……!」


 ウッドとアイの戦闘的相性は悪い。ウッドは中距離の戦闘に長けているが、アイは超近距離型。一度近接戦に持ち込まれたら、完封さえされかねない。


 だというのに、ウッドは笑った。アイの激昂が、さも滑稽なものであるようにウルフマンの首を手元で眺める。


「ああ、アイ。いじらしくウルフマンを想うアイよ。お前は何か勘違いを起こしている。それは重大な勘違いだ。故に、今から俺は、その過ちを正して差し上げよう」


「何を今更! もう全て遅――」


「なぁ、そうだろうウルフマン? お前からも、言ってやってくれ」


「……は?」


 くるり、とウッドは狼の頭をARFに向けた。そこに刻まれた恐怖の表情。それは、死んでいるにはあまりに生き生きしていて、細かく震えるその毛先を、誰もが嘘だと看破できない。


「何で――」


 ウルフマンの頭は、喋りだす。歯をガチガチと鳴らして、耐え切れない様に叫ぶ。


「何でおれの体が、そっちで倒れてるんだよッ!」


 それは悪魔の所業だった。くつくつと、ウッドは笑う。そして、問いかけるように「なぁ?」と言葉を放つ。


「俺は様々なことの帳尻を合わせるのが得意でな――例えば、そう。お前らはきっとまやかしだとウルフマンの生存を否定するだろう。ウッド、お前が死者を冒涜しているのだ、とな。だから、俺は、俺たちは、ここにいるのだ。ほら、見ろ」


 ウッドは手で指し示す。眼下に広がる、『Happy New Year』。「嘘、だろ」とピッグが言った。それは周囲に、空虚に響いた。


 ウッドは、嗤う。


「―――――さぁ、一斉に、目覚め始めるぞ」



「……あれ? ここ……何処?」


 きょとんとした小さな声だった。何も疑っていない声だった。けれど、他にもポツリポツリと声が漏れ始める。


「ん? 何だ?」「え? ここ何処よ」「何だこれ? つーかおれ、何してたっけ」「あー、えっと、あ! そうだぼく、ウッドに襲われて」「あいつ通行人の首を奪って壁に貼り付けるとか訳わかんない行動を……」「え? 何? 何であんなところに道路があんのー?」「は? ここ何処だし。っていうか重力が横からかかる気がスンだけど、……ってか、え?」「わたしたち、壁から首が出てるの?」「体、動かないんだけど」「どういうことだよ! 責任者出せよ!」「は? 嘘、嘘だろ? 俺ウッドに首飛ばされたんだよな? 何で死んでねぇんだよ!」「はぁ!? はぁ!? はぁ!?」「ここ壁!? じゃあ何? 私たち首になってウッドに貼り付けられたってこと!?」「いやぁああああああああああああ!」


 阿鼻叫喚だった。『Happy New Year』が作られた時も地獄がこの世に現れたと思った。けれど、甘かった。あの時奴は言った。『諸君の首を、借り受けたい』。それは真実だった。奴は決して、ただの一人からも、無辜の人間の首を奪い取りはしなかった。ただし――最低、最悪の形で。


「―――――ウッド、おま、お前!」


 ピッグは怒号を飛ばす。しかし、ウッドはすでに消えていた。ウルフマンの首を持ち去って、とうに何処かに行ってしまったらしい。だが、それをアイは納得しなかった。するわけがなかった。だから飛び出そうとした。その瞬間、彼女の目の前で火の粉が散った。


 不死鳥。今まで首を守っていた火の鳥は、役目を終えて次の任務に動き出す。


 アイは、憎悪を瞳にナイフを構える。きっと、アイは勝つだろう。と同時に、それはウッドを取り逃がすことと同義だった。ピッグは冬の空を仰ぐ。厚い雲は、まだまだ雪を吐き出し足りないようだった。










 ウルフマンは頭だけで、ウッドに抱えられていた。奴は光魔法で二人の姿を消し、音魔法や氷魔法で音や体温の痕跡さえも残さずに移動していた。


「……イッちゃん」


「だから、その名で呼ぶなと言ったろう。俺は、言ったはずだ。総一郎は死んだ、と」


 その意味を、ウルフマンは皮肉にも分かってしまった。だから悔しさを堪えて、「了解、……ウッド」と答える。するとどういう事か、奴は気遣うように言った。


「案ずるな。首だけのお前を今更どうこうしようというつもりはない。最初から、お前たちを無力化してブラック・ウィングに会わせたいだけなのだ、俺は」


「……は?」


 ウルフマンはその支離滅裂な目的に、顔全体を顰めさせた。奴はククッとくぐもった笑みを漏らして、さらに風魔法で進んでいく。


 その、あまりに落ち着いた態度。今までとは、違うように見えた。これが、素なのか。つまりもう、自分は敵とすら認識されていないというのか。


 悔しさが湧き出てくる。だが、同時に諦めもついた。どうやったのか分からないが、ウッドは首を切り離したうえで他人を延命できるらしい。となれば、ウルフマンは自らの生命維持に気を遣うことはない。


 それに、手ごたえはあった。ウッドの、深いところに触れることが出来たという感触。もはや自分は役に立たないだろう。けれど、きっと、ウルフマンの後を追うものが出てくる。先ほどの静かな訴え。ウッドはもはや、理解不能の化け物ではなくなったはずだから。


「……ここまで来れば、安心か」


 呟いて、ウッドは魔法を解きつつ仮面を外す。そのまま地面に降り立って、人気のない雪道を進んだ。ウルフマンは、その場所が、自分が地理的に弱い新市街の区画であることに気が付いて、道理で見つからなかったわけだとため息を吐く。


「ウッド、お前もいい隠れ場所を見つけたもんだな」


 いっそ軽い気持ちでぼやいて、ウルフマンは仮面無きウッドの顔を見た。仮面を外すと、どうやっても総一郎にしか見えないのだから辟易としてしまう。人間らしく冷気に赤く染まった頬など、ウッドの再生能力を思い出すとどうも納得できない。と、不意に気付いて指摘する。


「ウッド、お前、泣いてるのか?」


 つうと引かれた涙の道。目尻から延びるそれには、延々と少量の水が流れていた。けれど表情はそれに伴っておらず、総一郎の顔でウッドは無表情に眉根を寄せる。


 呆れたような声で、奴は狼に告げた。


「何を馬鹿なことを言う。『修羅』に血も涙も、あるわけがなかろうに」


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