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武士は食わねど高楊枝  作者: 一森 一輝
自由なる大国にて
143/332

4話 『おばあちゃんの爪は、どうしてそんなに鋭いの?』Ⅹ

 跳び起きた。そして、周囲を見回した。


 ウルフマン、いや、ジェイコブはビルの屋上で寝転がっていたらしかった。見上げると、晴天が広がっている。太陽に目を眩ませられつつ、少年は立ち上がった。昼。狼男としての活動時間外。多少の無理をすれば変身していられるが、意識を失ってしまえば人に戻る。黒い肌を晒しているのは、そういう理由だろう。


「……どういうことなんだ? あいつに、あの、ウッドの野郎に何かを流し込まれて、それで倒れて……」


 それで気を失ってしまったのだろうか。とすれば、文句なしの敗北だ。だが、五体無事にここにいた。首をかしげる。奴は、何もしていかなかったという事なのか。


「そもそもあいつの目的ってなんだったっけな――いや。ひとまず、本部に」


 ここで放置されていたという事は、安否の確認が取れていないという事だ。心配をかけているに違いない。幸い、ここはビルの密集地だ。変身して屋上を駆ければ、すぐの距離。


 直立に居直って、ジェイコブは息をすべて吐き出した。発声すらできないほどに、肺を空にする。それから数秒して、深くゆっくり吸った。肩が上がり、腹が膨れるまで。体のどこにも、余裕がなくなるくらいに。


 そして、勢いよく吐き出した。肌の表面に熱が走る。毛が生え、顔つきが変わり、骨格が変わっていく。身長は伸び、体重は増え、しかし体は軽くなる。


 変身し、ウルフマンは空を駆ける。


 景色が飛んでいく。だが、気持ちはもっと急いていた。ウッドが、あの狂った化け物が何もせずにウルフマンを放置するわけがない。もしかすれば、今この瞬間ですら幻覚に掛かっている可能性だってある。――そうか、ならば。


 ウルフマンは無意識に伸ばしていた手の爪をひっこめ、しかしスピードは緩めないまま走り続けた。到着まではもう少しだ。けれど、遮るものが現れる。


 それは、空から降ってきた。この街でも有数の速度を持つウルフマンに追いつき追い越すことが出来るものなど、奴を除けばほとんどいないだろう。


「……ラビットか、何の用だよ」


 ウルフマンはビルの屋上の地面を削りながら急停止した。ラビット。この街の守護者。ARFの敵の一人。


 だが、実際のところウルフマンとラビットだけでいえば、そこまで関係は険悪ではない。ウルフマンの活動は奴隷なり何なりの目的で捕縛された亜人の救出に終始していて、それはピッグのように、相手が悪人であれば丸腰であろうと武装襲撃し有り金を奪うスタイルとは違うからだ。


 ウルフマンは武装していない敵とやりあったことがないし、その際には必ず一定数の拘束された亜人を開放している。その場にラビットが居合わせることが偶にあって、共闘することも稀ではない。


 けれど、ラビットがウルフマンに向ける視線は、今日に限ってはいやに鋭かった。


「……どの口がほざいてやがる」


「何?」


 ラビットの、荒々しい言葉遣い。それ自体はいつもの事だ。奴は常に誰かに向かって怒っている。けれど、その矛先に立ったのは初めての事だ。


 思い当たらない、はずがなかった。


「何が、何が起こった? 教えてくれ。お前はおれに怒ってるんだよな? なら、ならおれは何をした!? それはいつ、どこで、誰に!」


 ウルフマンに剣幕に、ラビットは驚いたのか仰け反った。そのまま困惑交じりに「待てよ、待ってくれ」と手で制してくる。


「お前は、自覚がないのか? いや、実際俺がお前に手を下すつもりはなかったがな。所詮はARFの内ゲバに過ぎないと……」


「内ゲバって、ARFはほとんど一枚岩だぞ。内部抗争なんて起きて堪るかよ」


「……本当に、知らないみたいだな」


 妙な目でラビットはウルフマンを見つめている。ウルフマンは焦燥交じりに、「構わないから言ってくれ」と懇願する。


「いや――お前とは長い付き合いだ。そうだな、まともな時のお前がそんなことする訳がないか。疑って悪かったな」


「いいから! 早く、早くおれが何をしたのかを……!」


「……哀れだな」


 ラビットは、目を逸らした。言うのが辛そうですらある。狼男は、大きく唾を飲み込んだ。そして、兎は口にする。


「――――ARFは、壊滅したよ。お前がピッグ以外の幹部を皆殺して、他の構成員も手当たり次第に殺しまわった」


「……は?」


 何だ、それは。


「……嘘だろ?」


「さぁな。だが、お前らが根城にしてるもう少し先のビルの周りには、まるでリッジウェイ警部でも乗り込んだんじゃないかというくらい、亜人の死体で溢れかえってるぞ」


「……!」


 本来ならば、ラビットがこの先にARFの本部があるなどという事を知っているはずはない。もし知っていれば、早くもラビットとARFは最終決戦に乗り出していただろう。だとすれば、彼に本拠地を知られる理由が必要だ。しかし、信じられない。


「い、いや、そんな訳がない! そうだ、夢だ! ウッドの野郎が、今この瞬間、おれに夢を、幻覚を見せているはずだ!」


 思い至って、ウルフマンは周囲を見回した。そして、叫ぶ。


「何処だ! ウッド、お前の魂胆なんてわかり切ってるんだよ! 早く出てこい! お前の幻覚なんぞに惑わされてたまるかよ!」


「……見てられないな」


 ラビットは舌を打つ。可哀想なものを見る目が、酷く癪に障った。そして、思いつく。


「そうか、お前だな? お前、実はウッドだろ。はは、あんだけ演技の上手いお前の事だ。ラビットの演技だってそのくらいできても不思議じゃないよな? ほら、分かってんだよお、」


「―――先に言っておくが、ウッドは死んだぞ」


「れ、は……」


 二の句が、告げられない。


「お前に会う前に、ピッグに会った。あいつは、もう俺とやりあう気力も残ってないように見えた。面白いように今回の事件の顛末について話したぞ。こっちが話せとも言ってないのにぺらぺらとな」


 ――ウッドを殺したのは、ウルフマン、お前だ。ラビットはそう、静かな口調で言った。


「ピッグの話じゃあ、あのクソ野郎、アイに化けた上で分裂し、お前にその分裂体を切り刻んで見せたらしいな。それでお前が軽率に分裂体を救い出して、首筋にブスリ、だ。そこまでは、記憶あるか?」


「……ああ、だけど、そんな」


「問題はその後だ。ウッドはな、お前を抱えてどこかに行こうとしたらしい。だが途中で暴れだし、ウッドの拘束から逃れた直後にそのバカデカい爪でバッサリ、だ。流石に四散させられては奴も敵わなかったらしいな。残りの肉片は動き出さなかったと、ファイアー・ピッグは言っていたぞ」


「……そ、そんな、イッちゃ、……ウッドを、おれが……」


 頭を、ガツンと殴りつけられたような衝撃だった。殺してやりたいと思ったことはある。親友だったからこそ、この手で、と。しかし、本当に殺したと聞かされると、クルものがある。


 だが、頭を振って考えを改めた。「……なら、何でおれがARFを」と複数の混乱に頭を抱える。


 ラビットはそれに、「あくまで又聞きだ。確かに死体だらけだったし、語ったのはピッグだったが……」とそこまで言って、舌を打って横を向いた。流石に奴も、その言葉が何の気休めにもならないと分かったらしい。


 大量の亜人の死体。それは、この街のほぼすべての亜人を内包するARFが脅かされない限り有り得ない。ピッグが、犯人はウルフマンだと語る。それこそ、事実でなければあり得ない。


 しかしウッドは死んだという。あれだけしぶとかった、あのウッドが。


 本当に? では何故、自分がARFのメンツを殺したりする?


「……いや、やっぱり信じられねぇ。あいつが裏で、企んでいない訳がない」


 一人ごちて、ウルフマンはラビットに向き合う。それをして、ラビットが僅かに驚いたような顔をする。


「さっきに比べて、随分ケロリとしてるな」


「確信が持てたんだ。それに、奴は言っていた。生きたARFを、ってな。その後の事は分からないが、……それに賭けるしかないんだ。悩んでも仕方ないだろ?」


「……そうだな。では、俺は行くぞ」


「ああ、話してくれてありがとう」


「気にするな」


 そして、ラビットは飛び去っていく。その姿を見送ってから、ウルフマンは再び本部に向かって駆けだした。


 考えるのは、ウッドの事。そして、奴の意図。先ほど、奴の言葉を借りた。『生きたARFを』、捕まえる、のか。しかし、捕まえてどうするというのか。


 もしかしたら記憶違いかもしれない。捕まえるのではなく、他の考えがあのか。とするなら、何だ。分からない。ウッドに関しては分からないことだらけだ。


 思案と共に走っていれば、本部につくのはすぐだった。けれど、それと共にウルフマンは目を剥いて絶句する。


「……リッジウェイ」


 ARF不倶戴天の敵。JVAにモンスターズフィーストの手引きをし、現行犯逮捕させながら、その陰でマジックウェポンの開発を押し進めさせたあらゆる亜人差別の元凶。


 いつか消さねばならない相手だ。けれど、奴に単独で挑みかかれば、奴自体は殺せても無事で帰れる保証はない。奴の周りは、戦争帰りの強烈な亜人嫌いばかりで固められている。指示なしでだって、奴らは亜人を狩れる。


「クソが、今に見てろよ」


 ウルフマンはビルの最上階近く、三十八階に常に開けられた窓を探す。


 一分もしないうちに発見して、彼は勢いよく走りだした。駆けあがるは壁。それも他のビルから飛び移ってのそれだから警察にバレることはない。


 何、上るというだけならウルフマンの得意技だ。逆に、下りる方が苦手である。何せ三十八階から駆け降りるには、あまりに図太い神経が必要となる。肝の据わったアイが居れば、多少は容易になるが。


 そうして、室内に侵入した。緊急用のこの出入り口の先には、扉以外設置されていないコンクリート詰めの殺風景な部屋がある。入ってすぐの所に、罠が設置されているのだ。対人地雷。その場から一歩も動かずに口答でパスワードを唱えないと、容赦なく爆発する。


 けれど、それを口にすることは出来なかった。


「……待ってましたよ、坊ちゃん」


「……ヒルディスさん」


 すでに、ウルフマンは部屋に足をつけている。動けば、ドカンだ。けれど、すでにファイアー・ピッグの姿をした彼は、パスワードの暗唱を許さないかのように言葉を投げかけてくる。


「坊ちゃんは、自分が、何をやったか分かってますか」


「……それを、ヒルディスさんの口から聞きに来ました」


 ウルフマンは一度、唾を飲み下してから尋ねる。


「……おれは、ARFの誰かを殺したんですか。それに、ウッドも……」


「……」


 問うたウルフマンに、ピッグを俯いた。そして、全身をぶるぶると震わせる。感情のうねりが彼にそうさせているのだという事は、すぐに少年にも分かった。猪の瞳に輝くのは怒り。後ずさりそうになって、しかし対人地雷のパスをまだ唱えていないことを思い出し、かろうじて留まる。


「――――――――――――――だよ」


「えっ?」


 ピッグの言葉に、ウルフマンは聞き返す。彼は、吠えるようにして怒鳴った。


「白々しいってんだよ、このド外道が……ッ!」


 ウルフマンの体が、ピクリと震える。敵意。怒られたことはあっても、この感情をピッグから向けられることなど、かつては決してなかった。


「アイは死んだぞ。ウルフマンを信用していたから、無防備に近づいて一噛みだ。その騒ぎが起こって構成員たちも逃げ出したが、どいつもこいつもお前に掴まった。偶にしか顔を出さねぇヴァンプも、一瞬で八つ裂きだ。可哀想になぁ、来るのが昨日じゃなけりゃあ、あんな小さいままで命を散らすことはなかったってのに……!」


「……そんな」


「結局、無事なのは俺とハウンドだけだ。あいつは逃げおおせ、俺はお前と戦って、ギリギリのところで撤退させた。部下なんざ一人も残ってねぇよ。ARFも残り二人。なぁ、これで満足かよ―――――――――」


 ピッグは、ぎりと歯ぎしりする。


「――――――ウッド」


 え、と。


 本当なら、そんな間抜けな声を、ウルフマンは漏らすはずだったのだ。


「良く見破った。お前ならそれが出来ると睨んでいたよ、ピッグ」


 だが、ウルフマンの口はそのように喋りだした。それに、酷く狼狽させられるウルフマン。と同時に、自らの体がもはや自分の意思の外にあることに気が付いた。腕が勝手に持ち上がり、大仰に広がる。それはまるで、ウッドのように。


「昨晩この体に打ち砕かせて見せたのだがな。俺の残りの洗脳で、狂ってしまっただけとは見てくれなかったか」


「俺がそういう風にとらえたら、さぞお前好みの状況になったんだろうな。狂ってしまったウルフマンを、必死の思いをして止めようとする。そして思いをぶつけて洗脳が解けたかと思えば、『残念でした』でブスリとやるわけだ。……反吐が出るぜ。クソ野郎」


 違う、とウルフマンは叫ぼうとする。だが、もはやこの体は自分の支配下にない。どうすることも出来ないまま、話を聞くしか彼に術はない。


「ふふ、ははは。やはりお前は生かしておいて正解だったよ。いや、何。ARFは殺さずにブラック・ウィングのもとに連れていくという話だったのだが、面倒くさくなってしまってな。なら俺以外の、例えばいい具合に洗脳に掛かっているウルフマンならちょうどいいかと思ったのだ」


「……殺してやる。生まれてきたことを、後悔するくらいにいたぶってやる」


「そうか、素直に殺意を向けられるのは分かりやすくていいな。殺したくなる。だが、お前と真面にやりあうというのも俺らしくない。ああ、『らしさ』と言うものは大事なものだよな。ならば、ここは――本当に、俺を殺していいのか? と返させてもらおうか」


「詭弁なんざどうでもいい、覚悟しろクソ野郎ッ!」


 ピッグは、そう言って躍りかかってくる。しかし気にした風もなく、ウルフマンの体だったはずのものはその頭部をもぎ取った。次いで、くるくると宙に舞わせてつかみ取る。その奇行に今更竦むピッグではない。けれど、体にウッドの頭をはやして、仮面はいつも通りにたりと笑い、そして最後に口にする言葉が、猪の心を揺さぶるのだ。


「実はな、この中にだけは、手を付けていないのだよ、ピッグ」


 とんとん、とウルフマンの頭蓋を指で叩く。頭だけになった狼男は、ピッグの燃え上がる豪腕に怯える。――それをして猪の悪魔は、本物だと認めた。その類まれなる知恵は、皮肉にも一瞬の隙を生んでしまった。


「ああピッグ。一つ忠告するなら、お前は仲間思いすぎる」


 当然、この木の面の怪物は、その隙を逃す訳がない。


 鋭利に伸びたその指は、いとも容易くピッグの体を細切れにした。「あ、……あ……!」と何もできないウルフマンはただ呻く。ケタケタと、笑い声が上がった。


「……あとは、ハウンドだけか。面倒だな。どうしてくれよう」


 言葉のわりに、喜色にとんだ声色。けれど、狼の頭を掴みながら、「ふぁああ」とウッドは伸びをした。ウルフマンに、声をかける。


「なぁ、少し俺は眠くなってしまったから、変わってくれないか。数時間したら、また俺が操るから……」


 言いながら、ウッドの頭を取って、狼の頭を肩の上に乗せる。ぴたりと、吸いつくようにしてくっついた。体の自由が、ウルフマンの手に戻ってくる。


「……、……、……」


 何かを、言葉にしようとした。けれど、適当な言葉が見つからない。嘆こうにも、正しい嘆き方が分からない。どんな顔をすればいいのかも、同じだ。


「……」


 ウルフマンは、考える。一歩踏み出すことを。パスワードなしで、この地雷の上から立ち退くことを。この体が殺したARFの、後を追う事を。


 そこに意味があるのかは分からない。ウッドの体が、ウルフマンのそれだけとは思えなかった。つまり、眠っている間に自分諸共殺すことすらままならないという事。


「……こんな事が、あっていいのかよ」


 親友が変貌して、自分の体を乗っ取って、自分の大切なものをすべて壊して、けれどその仇すら取れない。


 コンクリートには、ピッグの肉片と血が散らばっている。それを、ぼんやりと眺めた。あの、怒りに燃えた恐ろしい瞳。けれど、最後の最後で、ウルフマンのために無残な死を遂げた。


 いや、それだけならまだマシだ。死に目に、立ち会うことが出来た。アイやヴァンパイア・シスターズなど、知らない間にウルフマンの姿をしたウッドに殺されたという。


 それに、どんな顔をすればいいというのだ。


「――――――――――――――――――――――――――――――――――」


 パスワードは、口にしなかった。ただその場から逃れたい一心で、窓から身を投げ出した。


 爆風がウルフマンの背を叩く。空中を舞う。地面に叩きつけられる。リッジウェイの部隊に捕捉される。ARFの残党に、涙ながらに何故と叫ばれる。リッジウェイがそれらを始末する。次はお前だと奴は言う。殺す。奴の部下に殺される前に全速力で逃げ出す。


 細かいことは覚えていない。


 ただ喪失感がそこにあった。


 気付けば変身を止めていて、気付けば家の前で突っ立っていた。頭は激しい疼痛に苛まれていて、もう何もかもが嫌になっていた。今だけは、何も気にせずに眠りたい。そのことのみ、繰り返し望んでいた。


 扉を開ける。すると、そこで待ち受ける人がいた。年老いた黒い肌。それでもなお気丈な瞳。


「……婆ちゃん」


「―――J」


 静かながら、厳しい声。呼ばれたことに、凍り付く。ぴし、と周囲に亀裂が走るのを感じた。ジェイコブは、動かなくなる。


「J、アンタ……、アンタ、とんでもない事をやってくれたね。アンタは、アンタは……っ!」


 掴みかかってくる。鬼気迫る表情で揺さぶられる。親代わりの祖母に責められ、けれど、ジェイコブは笑ってしまった。


「は、はは、ははは……!」


 渇いた笑いだ。今にも、泣き出したかった。全身が震えている。


「何笑ってんだい! 自分がやったこと、分かってんのかい!?」


 怒鳴られる。そのことが、さらにジェイコブを傷つける。もはや、視界に入れたくもない。少年は俯いて、呟くのだ。


「はは……、何だよ、結局、結局幻覚なんじゃねぇか……。ウッドの野郎、詰めが、甘いんだよ……!」


 周囲に走る亀裂は、さらに量と大きさを増した。世界が剥がれ始め、壊れていく。


「ここまで滅茶苦茶にして、本気で信じさせて、最後にこれか? 期待外れもいいところだぜ……。だって、だってよ……!」


 祖母が叫ぶ。自分の話を聞いているのかとヒステリックを起こす。J、お前など生まれなければ良かったのだと、そんな酷い事を言う。だが、それは現実に比べればよっぽどマシだ。


「―――――――婆ちゃんは、おれをもうJだと認めてくれないんだから」


 思い出すのは祖母の顔。目の前の幻覚など、比べ物にならない。怒り狂い、ジェイコブ同様巨大な狼となって、ジェイコブを殺そうとその爪をふるう姿。その鋭い瞳は深い愛情に満ち満ちて、あの人はしわがれた声で声高に宣誓するのだ。


『Jを何処へやったこの誘拐犯がッ! 今すぐ白状しないなら、この爪でバラバラに引き裂いてやる!』


 大好きな祖母だった。辛い時ずっと傍にいてくれた祖母だった。誰よりも自分を愛してくれた祖母だった。そんな祖母が、『J』をこんな風に罵倒などするはずがない。


 ジェイコブがはっきりと矛盾に気付いたことで、ウッドの作り出した幻想世界は崩落していく。彼もまた、意識を闇に呑まれていく。


 その最中、思うのだ。自分がウッドに乗っ取られ、すべてを失ってしまったこの世界は確かに地獄だと。


 ―――――――けれど、それでも。


 ジェイコブは、思ってしまう。


 ―――――――この婆ちゃんは、おれをJと呼んでくれるんだ。


 視界に映るものはもはやない。感覚は渦となって、闇に溶けて混沌と化す。その中心で、ウッドはボロボロになって笑っていた。ジェイコブはそこへ手を伸ばし、しかし届かず消えていく。


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